第三十二話「嘘つきベル 2」
男の子達に仕返しをするために、叔父をどう関わらせたか。
その前に叔父と父の話をしよう。
弟と兄である彼らの生まれ育った環境が、まわりまわってヴェルデラッテの崩壊を導いたといっても過言ではない。
ベルの家は菓子店を営んでいる。
父が一代目の店主だ。
祖父母は違う。農家だったらしい。
ベルは実際に祖父母と会ったことがない。
既に亡くなっているそうだ。祖父はカミッロが生まれた翌年、祖母はその更に二年後に。
祖父のほうが階段で足を滑らせ骨を折り、思うように動かなくなってからみるみる弱っていったという。
看病と家業を両立させようと努力した祖母も後を追うように息を引き取った。
近所のおばさんが口を滑らせて教えてくれた。
話を聞く限り、父と祖父母の間には深い溝があったようだ。
おばさんは「夢を叶えてたいお父さんの気持ちもわかるけどねえ。本当は長男の父が家業を継ぐはずだったんでしょうにねえ」としみじみ呟いていた。
ベルを通じて父をなじっているようだった。
とにかく。
ベルの祖父母は農家であった。
家業は父の代わりに弟である叔父が継いだ。
ヴェルデラッテ村は田舎である。
家業は長男が継ぎ、よく働く嫁を迎え、健康な跡継ぎを生むのが孝行だ。
そういう意味では、実のところアンヘル家の評判は悪い。
気にする性格であったら父は夢を諦め、カミッロを冷遇していたはずだ。
実際娯楽の少ない村にあって、老人達が嫌がったところで若者達は手頃な値段の菓子屋に喜んだ。
家族で一番苦しんでいるのは叔父であった。
叔父からみて父にあたる祖父が働けない間、祖母とともに人一倍労働に勤しんでいた叔父は筋肉もあって体格もある。
しかし性格の方は控えめで流されやすく、頼みを断れない。
優しいからというより、単純に世間の目に冷たく見られるのを恐れているからだ。
祖父は親不孝な兄を悪し様にいう。
叔父が手伝うのはあくまで「長男が継がなかったせい」扱い。
近所は気力をそぐ口出しをするだけで何もしてくれない。
嫁もいなければ子はいなく。
いざとなったら兄の子を養子にと思えば、肝心の男の子は病弱だ。
そして兄は農家という家業を疎み、我が子に手伝わせる気はないときた。
一人では運営しきれなくなったぶん、土地のいくらかもひとでに渡った。
――親の遺産を無駄にして、もったいない。もっとこうしておけばよかったのに。貴方が頑張らなきゃね。
好き勝手に失望され、期待され。
周りのしわ寄せに悩み、内心叔父が疲れ果てていることをベルは知っていた。
◇◆ ◇
男の子達がカミッロを侮辱した翌日。
ちょうどよく叔父がベルの家に遊びに来た。
弟である叔父からみれば、父は全ての元凶のはずだ。
やっかみめいた恨みもあるが、一方でしがらみを振り切った兄に憧れもあるようで、祖父母亡き後は交流が続いていた。
父が家に帰ると喧嘩が絶えなかったので、祖父母が生きていた頃は一度として家業を手伝わなかったそうだ。
跡を継げとうるさい二人がいなくなってからは父も母も時折、叔父を手伝いに行っていた。
食品を扱う仕事であるため、消毒をはじめとした労働前後の始末が手間で、頻繁にというほどでもなかったが。
その日、叔父と父は食卓に使っているテーブルを囲んで、のんびり話していた。
ようやく忙しい時期を乗り切ったので、兄弟水入らずで話したくなったのだろう。
昼過ぎから安いワインを酌み交わして、だらだら世間話をしている。
「これは長くなるわね」
母が肩をすくめて台所へ向かった。
嫌がる口調と裏腹に、母は微笑ましそうに優しい顔をしていた。
追いかけると、母は適当に食材を取り出して並べているところだった。
つまみを作るのだろう。
ベルは母の細い足にまとわりつく。
「ねえねえママぁ」
「どうしたの、ベルナデッタ?」
「パパと叔父さんにクッキー焼いてあげたい」
「あら? どうしたの、突然。今からだと時間がかかるわよ」
「二人ともお仕事頑張ったんでしょ? パパは火を使っちゃダメっていうけど、ママと一緒ならいいでしょ? もうあたし十二歳だしさー」
母はしばらく「んー」と悩んでいた。
一度だけ二人のいる部屋に目をやり、まだまだ話が続きそうなのを察する。
いつものパターンなら、このまま夕飯をともにして、酒の入った叔父を呼び止めて泊める。
「ママも台所使うからダメ?」
「んーん、いいわ。オーブンを使わなきゃいいのよ。ちゃんとお母さんが見ているところで作ってね」
クッキーは定番の人気商品だ。
ガレットのなかでも砂糖と脂肪分が多く、甘くてさっくりとした食感がたまらない。手作り風の外観も可愛らしく、ケーキより手頃である。
何より子どもらしいのがいい。
ベルの作戦が始まった。
無垢に一生懸命に。大好きな叔父さんをいたわる姪として話しかけた。
いくのは偶然近くを通りがかる時と叔父が家を訪ねてきた時だ。
自分から叔父の家を目的に訪ねにいくことはなかった。
叔父と交流を深めたくはあったが、露骨にすりよって怪しまれる真似は避けたかった。
ベルには狙いは二つ。
おねだりと勘違いされると、狙いまで遠回りになってしまう。
同じことを繰り返し、繰り返し。
効果は思ったより早く現われた。
叔父が家を訪ねてくる頻度が増えた。
父は嬉しそうだった。
逆に母はちょっぴり苦笑いの頻度が増した。父の無邪気な笑顔には勝てず、いさめることはなかった。
「ベルちゃん」
自分に手をふってくる叔父に、ベルは惜しげもなく歯を見せて笑った。
この頃から、ベルが一人で叔父の家にいくと、ちらちら愚痴をこぼすようになった。
いくら尽くしても、長男の話ばかりする父が憎かったとか。
育ててくれた彼を尊敬もしていたから見捨てる勇気もなかったとか。
ベルの父はよい女性を妻にしたとか。祖母はよく挨拶にも来ぬものぐさな女と悪口をいって、気が滅入ったとか。
父の前で叔父が提供する話といえば、作物の具合と近況ばかりだった。
叔父が暗い話をするのは初めて見た。
祖父の前でも弱音を吐くことは許されなかったのかもしれない。
一度いいだしてしまえば、あとはあっという間だった。
子どもだから難しい悩みはわからない、すぐ忘れるという油断もあっただろう。
嫌がるそぶりひとつみせず、「おじさんも大変なんだね、えらいね」と同情する。
叔父はベルに特別に心を開いていった。
心のよりどころというやつになれたと思う。
遊びに来るのは、ベルが叔父に顔を見せる日の間隔が空いたときなのを確かめては、内心ほくそ笑む。
叔父が自分からベルに会いに来ること。
これが第一の狙いだった。
第一の狙いが達成されるまでが早かったので、第二までもそうかからないと踏んだベルはもう少しだけ期間をおいてから、両親に提案した。
「ねえねえ。たまには二人っきりでお出かけでもしたら? パパとママって、昔は恋人同士だったんでしょ。たまにはあたしたちのこと放っておいて遊んで来なよー」
生意気な家族愛に満ちた言葉に、最初は両親は難色を示した。
いくら十二歳になるとはいえ、まだ子どもである二人をおいていくのを渋るのは、親として当然といえた。
そこで叔父が名乗り出た。
ならば子ども達はちょっとしたお泊まりというイベントとして楽しめる。両親も久しぶりに夫婦水入らずで過ごせる。
父も最近はすっかり仲良しに戻った弟ならと安心しきった様子でいた。
ベルの予定通りだった。
泊まりの予定が決まって、ベルは真っ先に父の部屋を物色した。
子煩悩な父が家族の思い出を記録するために、奮発してカメラを買っていたからだ。
ベルでは店にフィルムを持って行って現像してもらうしか写真にする方法がないが、「撮れる」とう事実が大切だ。
泊まりの際、ベルはカミッロにカメラを持たせ、いきようようと叔父の家に泊まった。
別に構図はなんでもよかった。
ベルは叔父が人並みに善良で、打たれれば脆くなる人間で、今まで散々打たれ続けてきた人間だと知っていたので。
そして自分の顔が母によく似ている自覚もあった。
ベルは両親が大好きだ。自分を肯定し、優しく支えてくれる二人を心から信頼している。
いざとなれば全力で守ってくれるだろうという全幅の信頼を寄せている。
もしもベルに捨てられかねない事情があったなら――例えば、両親が娘であればいらないと考えるような人達であったなら――なんとしてでも気をひいて心を引き留めようとするだろう。
叔父もそうしようとした。
叔父が自らそうしようとしたわけではなく、ベルからさりげなく不安を煽るようなことを言ったのだけれど。
写真は隠れさせていたカミッロが撮った。
本当はそんなことをさせたくなかった。
しかしタイマー機能でタイミングをあわせられる方法がなかった以上、人力に頼るしかなかったのだ。
その点だけが残念だった。
何が起きたかわからない、という顔をする叔父の前で、ベルはいつも通りの笑顔を見せてあげた。
「ねえねえ、叔父さん。お願いがあるの。いいでしょ?」
「ベ、ベルちゃん……?」
「おばさん達ってさあ、スキャンダルとかゴシップっていうの大好きなんだよ。どれだけ凄い早さで広まるか知ってるよね。うちの家事情、みんなに知られてるぐらいだもん。だからいいよね?」
二つ目の狙いがこれだった。
慣習は恐ろしいものだ。
叔父のようにまともな倫理観をもっている人間でも、周りが狂っていれば容易く揺らぐ。
これは農家の家に生まれた、しきりに都会へ引っ越したいと言っていたお姉さんから聞いた話だが。
農家は当然ながら重労働だ。
働き手を確保するのは最重要事項だった。
戦争などの問題で男手が足りない時は大変に困る。
そういう時、若い娘がいる家では、こっそり家によその男を忍び込ませたという。
翌日、男は仕事を手伝う。
娘の春を買った代金だ。
一度うまくいった経験はその後も根づく。
現実的に、女よりも男の方が力仕事には役立つ。
お姉さんは気持ち悪そうに自分の腕をさするのが癖だった。
父に女きょうだいはいなかったが、近所には娘のいる農家もある。
叔父も知っていたに違いない。
ベルだって若い娘だ。
頭で道理をわかっていても、悪意はささやく。
へりくつをこねさせて、喜びを得ようとする。
欲求は通っていない筋を通っていると勘違いさせてしまう。
「大丈夫。叔父さんがあたしの味方でいる限り、世間の誰も叔父さんに酷いことは言わないよ。愚痴だってこれからも聞いてあげる。抱きしめて、叔父さんはいい人だって毎週言うわ」
「本気で言っているのか?」
「冗談かも。だけどあたしが困ってるのは本当なの。手伝って。お願い、叔父さん」
ベルは犬を手に入れた。
とても大きくて、子どもと違って信用される立派な犬だ。
強力な首輪をつけて、噛まれないように可愛がる。
逆らえない、でも逆らわなくたっていいか。
だってこのままなら痛い目に遭わず、幸せでいられるんだから。
そう思って流される、可哀想で可愛い犬を。