第三十一話「嘘つきベル」
弟が倒れる。
銃弾を庇ったカミッロは倒れた後、匍匐で移動した。
ベルの服にしがみつき、握りしめ、息を荒げて覆い被さる。
ベルにはすぐわかった。
姉の盾になろうというのである。
うつぶせでベルに重なっては、背中からうたれ放題になるのに。
病弱な体は悲しいほど軽い。ベルのよく知る重さだ。なにせ少女でも頑張れば部屋まで運べてしまう。
カミッロが死ぬ。
いてもたってもいられず、ベルは弟を押しのけ、自分の方が肉の布団になろうともがく。
だがカミッロは今まで見たこともない腕力でベルを押さえつけた。
ベルの肩にカミッロの顎が乗る。
まるで飼い主に甘える子猫だ。すぐ隣にあるカミッロの色の悪い頬が見える。その表情も。カミッロはまつげを伏せがちにして、無表情に全てを受け入れる顔をしていた。
どうしてこうなったのか。
なんでもいいから弟を助けねばと思った。
何故か今、カミッロの頭には綺麗な光の冠が輝いているし。撃たれた腹を押しつけられているにも関わらず、さっきからちっとも濡れないけれど。
見慣れた冷や汗がだらだらと流れていて、苦しがっている。
可愛い弟を助けねば。
ベルは思う。ずっとずっとそう思っている。カミッロが生まれて、ベルが姉になった時から。ずっと。
「どうして。ママ……」
わからないことはなんでも教えてくれた母はいない。
代わりに昔の母のおこごとが答えてくれた。
――世の中には因果応報という言葉があるの。いい行いにはいいことが、悪いおこないには悪いことが起きるの。だからあなたもいいこでね。
ベルはちっとも母の諫言を信じていなかった。
でももしかして本当だったのか?
正直心当たりは山ほどある。どれのせいかわからない。
だから一番最初から、ざっくり思い出してみることにした。
◇ ◆ ◇
一番目は村の男の子だった。
ベルは近所の子どもに「嘘つき」と呼ばれたのだ。
最初は「偽善者」とか「バカ」とか。覚えたての嘲笑を得意げに何度も言ってくる。
本気で言っているわけではないとはわかっていた。
彼女をしつこく嘘つき呼ばわりするのは近所の男の子達だ。ベルをからかい、その悲しんだり怒ったりを楽しむのだ。
目をつけられたのは、ベルが歳の近い女の子だったからだと思う。
家の手伝いをよくしたのもイイコぶっていると目についたらしい。
怒れば笑う。嫌がっても嗤う。親に相談しても流される。
(あたしの方が大人だもん。無視しよ、無視)
内心おもしろくないまま堪えていた。
黙ってやり過ごすベルに、男の子達は飽きるどころか、一層エスカレートした。
それでも手伝いのご褒美に貰える売れ残りのクッキー目当てに頑張っていたベルだが、ある日ついに、男の子達は踏んではならない地雷を踏んだ。
「ベルっていっつも嘘つくよな。カミッロがイイコだなんていうんだぜ」
「はあ?」
眉間に皺が刻まれ、見下して凄む。
すると幼いながらにすっきりとしたベルの造形美が剣呑さを含んで際立つ。
だが男の子達は子どもだった。人生経験の浅さから来る無敵感が彼らを無謀にさせた。
「だって役立たずじゃん、お前の弟」
「なんですって? カミッロが、なんですって、あんた?」
雪の女王の如き冷ややかな眼光に、男の子達はぎゃあぎゃあ声をあげる。
こう思っていたに違いない。出来もしないくせに粋がっているぞ。熱くなってバカみたいだ、ああおかしい――
気づかなかったのだ。
ベルの激昂は湯気をあげるヤカンなどではなく、煮えたぎる油のそれだと。
彼らのなかで一番態度の大きいガキ大将が、ニヤニヤと口を開く。
「体も弱くて親の手伝いもできない。家で本を読むか、女みたいに絵を描いてんじゃん。ああいうのをゴクツブシっていうんだぜ。
イイコだっていわなきゃ恥ずかしいんだろ? ネクラでキモい弟なんて生まれてこなきゃよかったのにな、可哀想なベルちゃん!」
カミッロを侮辱し、ベルの心を動かすことを狙った卑怯な言葉選びだった。
ベルは不機嫌に口を「へ」の字にした。
キツネのように意地悪く目を輝かせるガキ大将を強く睨めつける。
「あんた。あそこの牛飼ってる家の子よね」
「ママにいいつけてやるって? ふん、そんなんで怯えるわけねーじゃん」
「あんた。あたしの弟に言ってはならないことをいいやがったな」
ベルは親に「人を指さしてはいけません」としつけられていたのでできなかった。
代わりに胸ぐらをつかむ。男の子が身じろぎをするより先に軽く突き飛ばした。
男の子は二、三歩ふらふらと後退した。それだけだ。だがベルの喉から呪いじみた宣言が低く這う。
「一度ならずも二度までも。飽き足らずに三度目までも。許さないから、絶対に。あんたも同じ目に遭わせてやる。四回でも、何十回でも何百回でも同じ目に遭わせてやるからな」
一方的に突きつけたベルはくるりとまわり、スタスタ菓子屋のなかへ入る。
背中に男の子達がベルの無力へのあおりが飛んだが、姿も見えなくなると、やがて飽きた。
声が遠くなっていって、別の場所にいったのがわかる。
家のなかにはいると、二階で寝ていたはずのカミッロが降りてくるところだった。
「カミッロ! だめじゃん、二階で寝てなきゃ。風邪ひいてるんだからさ」
「熱が出てるのはいつものことじゃあないか。それより姉さん、僕のせいで嫌な思いしたでしょ」
話している間も軽い咳が出る。
カミッロはそのたび神経質にマスクの位置を直す。
食べ物を扱う店だ。菌には気を遣う。
いつもなら絶対にでてこないカミッロがわざわざ姿を見せたことに、ベルは悔しさにくしゃりと涙ぐんでしまう。
「いいよ、あたしは。お手伝いして食べて寝たらイヤだった気分もどっかいっちゃうもん。でもあたし、あんたがつらい思いをするのは、自分がバカにされるよりずっとずっとつらいの」
「事実だから?」
「バカ! あんたが可愛い子だって知ってるからに決まってるじゃん! あいつらはろくにものを知らないくせに。もういい加減我慢の限界」
「姉さん」
「だいじょうぶ。カミッロ。あたし、遂にやっちゃう。カミッロ、あいつらどうしてほしい?」
「別にイイよ……面倒くさい」
「だったらあたしの勝手でやる!」
ベルには、わざとらしくあくびをするカミッロがあわれで仕方がなかった。
カミッロを二階にやろうと薄い背を下から押し上げながら、頭のなかで作戦をたてる。
その過程で「二人目」が決まった。
ベルが狙いを定めた、特定の個人。
これは予想以上にのちのちまで役に立つことになる。
ベルの叔父であった。