第二十七話「血海の香り」
「こんにちは。ベルちゃん。どうですか、いいお昼になりそうですか? 私は朝からフィーバーですが」
ネヴは心なしか最初より重い肉切り包丁をさげ、ひょいと片手をあげる。
黒髪のお姉さんのフランクな挨拶に、ベルはあとずさる。
先日、仲良く泥団子を作って追いかけっこをした女性が、頭から血をかぶって近寄ってくるのだ。
「でも血の匂いって好きです。海に似てるからかな。落ち着きますよね、たくさんの人に包まれているみたいで」
それはネヴも同じだった。
ネヴの知るベルは、可愛らしいハツラツとした幼女であった。
未成熟で細い太ももを思い切りあげて駆け回り、全身で笑う姿は春の野花や焼きたてのパンを想起させる。
可哀想に、明るさはすっかりなりをひそめていた。
だが、この憐れなベルこそが村人に潜んでいた家畜を育てあげた張本人なのだ。
怯えたふりをするベルと反対に、ネヴは冷然とした立ち塞がり続ける。
「コミュニケーションこそは人間の最高で最重要な能力ですよ。ああ、なのに、いざ追いつくと何を話せばいいか悩ましいですね。ベルちゃん、私に何かいうこととかありますか?」
「それ……」
問われたベルが震える人差し指でしめしたのは、今やネヴのものとなった肉切り包丁だ。
村人から拝借したモノである。
素人で菓子屋の娘であるベルが「あれは誰のモノだ」と見分けられるとは思えない。想像力が豊かなのだろう。
「これ? もらったんです。便利だったから」
「何に使ったの?」
「貴方なら聞かずとも想像できるのは? やっていたでしょう、こういうことさせるの」
黒曜石の瞳はベルをとらえ、離さない。
形のいい唇は上向きに弧を描いているが、喜怒哀楽の感情は乗っていなかった。
乗っているのは血の紅だ。黒ずみはじめた深紅は東洋人特有の幼顔を妖艶に彩る。
ベルはまた一歩後退する。
今度はネヴも、一歩迫った。
「そ、その目で……あたしを見ないで」
「はい?」
「お姉さんの目を見てると、カミッロがいっていたことを思い出すわ。
体が弱くてずっと家にいた時、カミッロはよく本を読んだり絵を描いたりしてた。その時、カミッロはあんまり黒い色を使わなかったの。完全な黒は自然には存在しない色だからっていって、暗い色はいろんな色を混ぜて作ってた……お姉さんの目は……黒すぎる。怖い」
「あら。悲しいですね。別に怖くあろうとしてこんな目なわけじゃあないんですよ」
ネヴはぱたぱたとまばたきをする。
「変だよ、変だ。絵本のなかの悪魔みたいに猫の縦長の瞳孔でもないし。空はうっすら明るい気持ちのいい晴れ模様。
なのにどうして真夜中の海の上に置いて行かれたような気持ちになるの?」
「初めてですか、そんな気持ちになるのは。無理もありません。だって貴方は子どもだものね。ベルちゃん、どうしてそんなに私の目が怖いのか。色なんかじゃあなくって、もっと別の理由があるとは思いませんか?」
「…………」
「まずひとつ。私と貴方が同じだからです。機械とは違う、別の理屈をもったチカラを宿しているから」
誰も知らなかった《声》の存在をほのめかす言葉に、ベルは浅い呼吸を繰り返す。
ネヴがもう一歩近寄る。
「私が何をしようとしているのか。わかっているから怖いかもしませんね。ずる賢い子猫ちゃん」
肉切り包丁を手慣れた動作で上へ投げ、一回転させてキャッチする。
「子どもだから許されてきたから、初めてでしょう。殺意を浴びるのは」
「ひっ」
爆発の気配を秘めた張り詰めた空気がたわむ。
耐えきれなくなったベルは背をむけて走りだそうとした。
叶わない。
ネヴの白手袋をはめた手がひょいと包丁を投擲した。
刃はまわらず、真っ直ぐにベルの太ももをかすめた。
「棒もいいけれど刃物はいいなあ! 性に合う! 切ってよし、投げてよし!」
いいながらネヴはスカートのなかへ手を伸ばす。
そこからするりと抜き出したのは、細手の果物ナイフだ。
これもまた村人から奪った武器のひとつだ。適当に集めては靴下やベルトに挟んでおいた。
「流石に子どもを傷つけるのは初めてです。高揚はしません」
ベルはネヴの手にかかれば、ちっぽけなナイフでさえ致命傷を与える必殺の凶器に帰られると知らない。
それでも迷いない素早い行動は、ベルの心臓を凍えさせるのには十分過ぎた。
「でもベルちゃん。貴方はやり過ぎた」
「な、何を? あたしはただカミッロに……」
「嘘はついていませんね。それでもうまく言い訳をしようと考え込んでいる。ほら、目が泳いでいる」
「殺すの!? あたしを!? ただちょっとできることをしただけなのに!」
「どこかの大人は許したかもね。私は違うのです。
子どもが許されるのは、幼さゆえに理解っていないから。けれど貴方は仲間はずれ。許される理由を盾にした時点で、貴方は自分がしたことが悪いことだとわかっているもの。ここで見逃してあげたら、また許される理由を拾ってきては、同じことを繰り返す」
ベルの顔は既に涙でぐしゃぐしゃになっていた。
なんとか舌を動かして、尻餅をついた体勢でなお後退を試みる。
靴を履いたその足の甲に、無慈悲にナイフの切っ先が吸い込まれた。
聞いている方の胸が張り裂ける、甲高い絶叫がオリーブの木々に飲込まれていく。
「命までは奪いません。身動きを奪い、然るべき機関で教育と保護を行います。その前に少々釣り餌にはなってもらいますが」
胸元からナイフをもう一本。
薔薇の花を取り出すマジシャンのようにいくらでも出てくる。
ベルは必死の形相でナイフを引き抜いた。
ネヴを染めているのと同じ、命の源がだくだくと溢れる。
「ああ、栓を抜いたら溢れるのは当たり前ですよ」と心配する風なネヴが目に入らないほどの激痛に、ベルはすぐにその場に横に倒れてしまった。
「痛い、痛い、痛い! いったいよぉ、足の指ちぎれちゃう、ママぁ……!」
ぎゅううと靴越しにつま先を握りしめるベルの顔を影が覆った。
白くて赤い、黒い目の女が、すっかり笑みの消えた顔でベルを見下ろす。
「ベルナデッタ・アンヘル。カミッロ・アンヘル。貴方をANFA管理収容施設へ回収します」
言葉の意味はわからなかった。
ニュアンスからベルに理解できたのは、きっとそれが姉弟を村から遠いどこかへ連れ去ってしまう予告なのだということだった。
ベルの知らない遠い場所へ。誰もたどり着けない秘密の国へ。
思い出すのは母親が寝物語に読んでくれた本にあった、取り替え子。
ぞわあああ、と鳥肌がたつ。
全身の毛を抜かれたような寒さをともなう悪寒も、害意も、向けられるのは初めてだった。
この女は、今まで周りに居た大人達とはまるで違う。
世間の常識をたやすく踏み折る覚悟と狂気がある。
「だめ、だめ、だめ――」
立ち上がろうとして倒れる。
足をこんな風に怪我をしたのも初体験で、歩けない、という未知の状態にみるみるうちに脳みそはスパゲッティみたいにからまる。
だからベルは叫ぶしかなかった。
彼女にとって一番大事なことを。
「カミッロ! 逃げてぇっ!」
ぐわああんとあらゆる音が湾曲する。
ベルを中心に発された、一方的な《音》の波紋。
波となった無形の音はネヴを打つ。
「…………?」
ネヴは首を傾げた。
ベルの音は銅鑼のように騒がしく脳に響いたが、決して彼女を狂わすものではなかったからだ。
ただ響くだけ。うるさい、と弾けば二度は鳴らぬもの。
ベルの音の波はとても、とても弱かったのだ。
この程度のチカラであれば、獣憑きであるネヴなら砂山を蹴り崩すより簡単に拒絶できる。
「これは……テレパス? それもかなり不完全な……微弱で、送信能力しかない」
拍子抜けしてネヴの口が空いた。
ベルはぐすぐすと泣き伏せて、逃げて、逃げてと繰り返している。
「なんて弱い獣憑き……」
その弱さに、ネヴの頬に冷や汗が流れた。
獣憑きの異能は執着の力。
衝動が強いほど、執着は無意識の海の深くを穿つ。
弱い獣憑きということは、その執着が弱いという意味だ。
驚くほど執着の弱い獣憑きが、これほどの出来事を引き起こした。
ぞ、っとネヴは目の前の幼女を睨む。
「ならば、貴方は。まさか。子どもの無責任なんてものではなくて――」
ごう、と強い風が吹きすさぶ。
かたや座り込み、かたや立ち上がった体勢で見つめ合う二人の服がバタバタとあおられ――
《声》はやってきた。