第二十六話「少女の愛はどす黒く育つ」
久しぶりに気分がいい。
頭はチクチクしてたまらなく苛立たしいのに、前へ踏み出す足が止まらない。
前方からちょうどよく人が襲いかかってきた。
畜産に関わっているのだろう。よく手入れされた立派な肉切り包丁をもっていた。
意志に反して少女を襲わされ、手が震えている。
「はは。《声》に自分を売り渡したってことは、貴方も晒し台にくくられて抵抗できなくなった隣人を打ちのめしたんでしょうにねえ。一人だと怖いのですか?」
嘲笑だなんて大嫌いだったはずなのに。憤怒も行きすぎると笑顔になるらしい。
仕込み傘は不要だ。素手で肉切り包丁をもつ手首に触れ、またたくまにひねる。
墜とした武器をそのまま空中でキャッチし、振り上げた手で首をはねる。
通常ならばあり得ない断頭。
だが異能の瞳は、物理法則をねじ曲げる超理解をネヴにもたらす。
スパン。飛んだ首が鞠のように跳ねて転がる。
「困ったなぁ。調子がいいんですけど」
腕を動かすたびホームランをバカスカ打っているような爽快感に、鼻歌でも歌いたくなる。
最悪に活き活きとした気持ちだ。
もはや全員が《声》の主に食われる未来しかなく。カミッロが遠方に逃げ、そこでまた同じように食い散らかさないようにするにはやむを得ない。
きっと他の職員だったら、苛まれながらもそう決断する。
ネヴもかつてはそうだった。
「ふっ」
気合い一閃。
掌で転がすように肉切り包丁の柄をもてあそび、蝶のように刃をひらめかせて、腹を、腕を、肉の合間という合間に深い切り傷を刻み込む。
頭ではきちんと「いけない」とわかっているのに「だからどうした?」と思う自分がいる。
昔からそういう傾向はあった。
しかしこの数日はそれが顕著で、思うようにコントロールがいかない。
それでもいい。
きっとネヴィー・ゾルズィは制御と秩序の人間ではないのだ。
それでもいい。
だってネヴには隣人を愛し、応援したいと願う祈りがある。
今は、たまたま「邪魔する奴らから応援したい人々を守ってやりたい」という形で発揮され、そして結果として暴力という形になっているだけなのだ。
――残念だなあ。貴方の隣人になれなくて。
「でも貴方だって私の隣人になれないって思ってますよね? そういう段階、とうに過ぎちゃったもの。貴方は同じ村の隣人を大切にするべきでしたね。自らを愛するのを当然だと思うのだったなら」
冗長な説教は申し訳程度の感傷だ。
こんな時までおしゃべりか、と自嘲に笑みを深める。
蚊の鳴くような村人のすすり泣きが聞こえた。
ネヴの悲嘆を感じ取り、しがみつこうとしている。実に哀れっぽく、殺さないで、あの悪魔の声から助けて、と祈る。
ははは、と彼女は乾いた笑い声をあげた。
「いやあ……ははは」
「はははは」
「ははははははは!」
笑って。
「残念でしたねえ。来たのが私で!」
嗤った。
「誰しも助けてくれる崇高な正義の味方じゃあなかったのは貴方達が悪かったんじゃない、運がなかったのです。でもそんな優しくて立派なヒーローが、貴方達を助けることで苦労し悩み苦しむのは可哀想な気もしますから、これでよかったのかもね?」
もはやネヴを止められるものはない。
横切る瞬間の間に、枯れ木のように立ち上る人の柱どもをなぎ倒す。
仕込み傘も悪くないが、鈍器より刃物の方が具合がよい。
道すがら村人から拝借した肉切り包丁、その他手になじみそうなあれそれを奪い取っていく。
黒い髪をなびかせ、死屍累々のなかを大股でズンズン闊歩する。
「私達と貴方達はねえ、平等ですよ! そりが合わん、関わらずにいようという選択肢を獲らなかった。とれなくなった。だから自分が幸せになるために殺し合うことになった。私が勝った!」
またひとつ首をはねる。
血がふきあがり、服を赤く染める。弾けそうに新鮮な赤だ。頬を、全身を濡らすそれは、かつての持主に宿っていた命を少女に乗り移らせるようだ。
周りが打ちのめされるほど、ネヴは瞳の光を強くする。
「私、強くなるために犠牲も払って時間もかけました。そのぶん成長しなかった能力、山ほどあります。私、貴方みたいに農業できないですよ? おかげさまで美味しいご飯を頂けて」
ありがとう! と叫び、腕を切り落とす。
「私、暴力つよい。だから暴力が苦手な人のために戦う。ただし、助けたい人を助ける。たくさんつらくて痛い思いをしてよかったって思えるようなね」
今や村人のためではなく、自分自身に言い聞かせるために話していた。
そうだ、そうなのだ。口に出すと今までもやもやしていた考えがまとまる。すとん、すぅ、と胸におち、頭に入っていく。
「あーははは! 私も、貴方達も、おんなじさ! おんなじ人間、頭に詰めたものが違うだけの……同じ地獄で、欲しいものを求めて喰らいあう同胞なんだなあ!」
大嫌いで、決してネヴには受け入れられないが、彼らも人間で。ネヴも完璧ではなく、正しくない。
そして自分らしく生きていくためのことを譲ってやれないのなら、戦うしかなかったからこうなった。
鉄錆の匂いに満たされ、ネヴの心は晴れ渡った。
満開の花のように顔をほころばせ、嵐の化身の如く生命力をみなぎらせ。
多くの赤い果実を頬張って成長しつつある彼女は、遂にその歩みをとめた。
「みぃつけたっ」
人差し指で、一人だけ村人と挙動の異なる影を見とがめる。
可愛らしいブラウンのワンピース。成長期を迎える前の丸みのない細っこい二本の足。
尻尾のように結ばれた髪がくるんとまわって、大きな瞳が振り返る。
ベルナデッタ・アンヘルは、興奮に艶然と笑む女に、ぎゅうと身を縮こめた。