第二十六話「トリス」
青ざめて車を進める運転手を一瞥して、アルフはそっと息をついた。
(予定通り車を拾えてよかった。トリスくんには色々融通してもらってるし、ちょっとしたことでもしないよりマシだろ)
運転手は偶然たちの悪い客を拾ったと思っているようだ。
だが違う。アルフは最初から彼を狙っていた。彼のようなもぐりのタクシーを、である。
時間は真夜中、行き先は自然豊かな田舎村だ。タクシーにだって客を選ぶ権利はある。
脅しめいたことをして通報されたら面倒だ。
その点、もぐりはいい。もし警察に訴えようとすれば当時の状況をきかれる。したがって自分がどうやって飯の種を稼いだのかも告げなくてはならない。
だったら深夜の重労働だけで済むかも知れない方を選んだ方が得策だ。
(電話の内容を信じるならヴェルデラッテ村は暴動みたいなことになってる。お嬢達が幻覚なりなんなりを見せられている可能性はあるが……まあそれはそれ。
オレの車で行って、降りている間に壊されちゃったら修理代がなあ。経費でおとしたくない)
運転手に危害を加えるつもりがないというのも本当だった。
村の入口で降ろすだけ降ろしてもらって、トンボ帰りしてもらえば被害を受ける暇もあるまい。
何、安全になったら迎えを呼ぶ。無理でもアルフ達には二本の足がある。
頭のなかで簡単な予定をまとめなおし、深く椅子にかけなおす。
まだ道は長い。
アルフは眠らないように意識したまま、軽く目を閉じて休める。
暇つぶしに思い出すのは、タクシーを拾うまでにしていた『用事』のことだった。
用事とは資料提出だ。アルフはそのついで、顔を見たかった幾人かの面々に会ってきた。
行き先はロタツィオーネという島だ。ANFAで回収した異常存在を収容・研究する管理施設が秘された孤島である。
◇◆ ◇
アルフはカフェオレを片手に水平線を眺めていた。
美しかった頃から何百年経ってどんなに汚染されていても果ての形はそのままだ。世界が無限に続いているように思えてくる。
実際は世界は百年前よりずっと狭くなった。
都市部に近いほど海は汚れて、水面で遊ぶことすら躊躇われる。
だが一部、例外は残っている。ロタツィオーネ島もそのひとつだ。
遙か彼方まで続く暗い青から白い光球の頭が浮き上がってくるのを眺めて、ぬるくなりはじめたカフェオレを喉に流し込む。
磯の香りが強い。海の透明度は高く、波打ち際では細やかな白い波が寄せてはひく。
アルフは少しだけコートの襟を正した。
これからいく場所は特殊な場所なのだ。
場所は管理部管理室オペレーションルーム。
収容チームが所属する管理部の中心だ。収容した異常存在を監視し、作業員に指示をだし、ことが起きればオペレーションを行う。
アルフが会いたい人物もそこにいるはずだった。
今日は早朝の刺すような冷気にぴったりなアイボリーブラックのピーコートだ。
使い慣れた黒い手袋をしているので、かじかんだ手でカフェオレをおとすことはない。
せっかくだからシャツの色も黒に。ベストとネクタイは深い赤茶色で。
「そろそろのはずなんだけどなあ」
身だしなみを整えて待ち人を探し、更に数分。
ようやく海の向こう側から中型のクルーザーがやってきた。
「すみません! ちょっと今ゴタゴタしてて準備に手間取りまして」
船渡しの仕事をしている職員が軽く手をあげてくる。
この国では時間の感覚がルーズだ。時間通りに列車がつかないなんて日常茶飯事だ。
もっとも、管理施設内は仕事内容が内容なだけあって、それなりに厳しい。
「時間は気にならないよ。でも何かあったのかい? 君が手間取るだんて」
船に乗り込んでたずねる。八人乗りのクルーザーは二人にはだいぶ広かった。混雑はしていないようである。
船渡しは帆を掲げ直して、アルフに見せつける。
「これです、これ」
「……あれ、いつものと模様が違うな。大丈夫なのか?」
進むだけなら、風を必要とせず、蒸気機関を推進力とするモーターボートの一種であるクルーザーに帆は必要ない。
しかしロタツィオーネ島は違う。
異常存在を閉じ込め、秘匿するための施設であり、まちがっても一般市民が立ち入らない工夫がされている。
この帆がそのひとつだった。
ルートとなる海域は、地震以降増加した幻想種である龍の住処になっている。
ANFAで養殖した小型の龍だ。
神話に出てくるようなものには遠く及ばない。
神話に出てくる『本物』に近い竜や龍は、現在、バラール国の人間がいける限界の海に住まう。
その本物の竜を見たことがないので実感はないが、かなり退化しているという。知性も動物に近しい。
一匹は一メートルから三メートルほどで、六匹から二十匹程度の大小の群れを作って泳ぎ回る。
彼らは水泳によって波と魔力を渦巻かせており、近づいた一般的な機器の類いを狂わせる。
強引にでも突き抜けようとすれば、強靱な顎が船底を食いちぎる。
この帆はそれを防ぐ『通行許可証』のようなものだ。
「ずっとこのあたりを回ってもらっていた龍が急にどこか行っちゃいまして。急遽、新しく育てていた子達を放ったんです」
「どっか行った? 大丈夫なの、目撃されたら大変でしょう?」
「人が近い海域は神秘が薄くて食いモンが足りないから近寄らんですよ。万一見つかっても、陸の誰かに伝える前に船が沈みます。帰巣本能もあるんで、まあ、帰ってはくるだろうし?」
船渡しはクルーザーを発進させるためにエンジンをふかす。
小麦色の肌そのままの陽気で脳天気な性格の彼に、アルフは肩をすくめる。
門外漢のアルフにこれ以上言えることはない。
第二の魔の三角水域と恐れられ、彼ら以外死んだように静かな海を渡っていった。
船に揺られながら海面を見下ろせば、イルカに似た生き物の背びれがちらちらと水をかきわけているのが見えた。
美しいがパーツひとつでも簡単に皮膚を切り裂かれる。
昔は船に乗るたび、波に手をつけて遊ぼうとするネヴを止めるのが大変だった。
自分にとってはいつまでも小さい女の子を思いだして、早く駆けつけたくなる気持ちを抑える。
船着き場が近づく。船が二、三隻止まれればそれでいいこじんまりとしたつくりだ。
寂れた港町のように、苔がびっしり生えてみすぼらしいということはない。
いつだって清掃員の手で綺麗に整備されている。波に白い石壁が削られてしまっているのはやむなしだ。かえって情緒がある。
船着き場では新たに三人の人影がアルフを出迎えた。
うち、二人はアルフの到着を見届けるとすぐにその場を去って行った。
残った一人から指示を受け、仕事に戻っていくのだ。
指示を出した一人は、アルフに真っ直ぐ淡いスカイブルーの瞳を向けた。
「相変わらず手際がいいねえ。惚れちゃう」
アルフは思わず感嘆する。
前を開いたグリーンブルーのフロックコートと、白茶のシャツ、ライトグローカスブルーのベスト。意味があるのかわからない革のアームバンド。フロックコートと同じ色をした首元を飾る、緩いリボン結びの紐。
髪色はコーギーの体毛を思わせる明るい色だ。
この青年こそ、アルフが会いたかった人物だった。
ANFA管理部の管理室室長であるトリスである。
「やあ、トリス。元気そうで何よりだよ」
「おかげさまで。風邪をひく間もないぐらい忙しいからさ」
ネヴとそう変わらない歳の青年はそういってかすかに目を細めた。
はたから見れば不機嫌にも見える冷たい目だ。
彼によく慣れているアルフにはかろうじてそれが喜びと親愛の動作だとわかるが。
「わざわざ管理室まで来て何の用? あんまり時間作れないよ」
これは「忙しいなか遠いところまで来て、困ったことがあるのですか。私でよければ微力ではありますが手伝います」という意味である。
「そこまで急じゃあないよ。ただどうしてもちょっと顔会わせて確認したいことがあって。それに今度借りたいものもあったし」
「ふうん。そうなんだ。じゃあ収容室まで案内しようかな。案内しよう。道すがら話をきくよ」
自ら迎えにやってきて補佐の二人を追い払った時点で、アルフの用がわかっていたのだろうに。
つんと相づちを打つトリスは下手ながら気遣いをする男なのだ。
借りたい収容物を書いたメモを渡す。
トリスはさっと目を通し、「こっち」とコートの裾をひるがえして先導を始めた。
島は砂浜から先は森で囲まれている。どこから入っても、最初にこの爽やかな新緑のカーテンのなかを進む。
幾つか用意されている小道を沿えば、鼻や植物を思わせる有機的で柔和なラインが印象的な壁にぶつかる。
自然に囲まれていた空間には不釣り合いに大きな、アール・ヌーヴォー風の壁である。
豪勢な別荘じみて備えられたステンドグラスの窓が神秘的に日の光を取り込んでいる。
トリスはランがデザインされた窓に近づいた。
ぬめる血のように妖艶な赤い花弁を垂らした、ノビル系のデンドロビウムだ。
コートの内ポケットから鍵を取り出してかざす。
ポーンと無機質に優しい機械音が鳴る。
そして二人の目の前で、大きな壁の一部が開き、地下施設への扉が開かれた。
「いつも思うんだよ。これってどういう仕組みなのかなって」
「知らなくても困らないと思うよ。困らないんじゃないかな?」
シックな外観と異なり、なかは神経質なまでにのっぺりと白い。
いかにも研究施設だ。
白衣を着てバインダーを抱えている研究員や腕章をつけた作業員と警備員がまばらに、絶え間なくすれ違う。
廊下は一本道に続いている。奥には横に曲がる通路が、そして手前には両サイドにエレベーターがあった。
トリスはエレベーターのひとつを選び、また鍵をかざす。
「接触要請。P・P」
ポーン。今度は音声認識に成功した合図だ。
開いたエレベーターはすみやかに二人を更なる地下へ運んでいく。気圧の変化で耳が痛い。
(このエレベーターの向こうでは今日も作業員が命がけで調査報告を作っているんだろうなあ)
ぼーっと到着を待って、ようやく目的値にたどりついた。
収容物が入れられる階層には『傾向』がある。エレベーターの表示を見やった。
どうやら生物型で収容が厄介な異常存在がしまわれている階のようだ。
トリスはアルフより一足先に廊下へ出る。
そしていきなり声を張り上げた。
「皆! こっちへ注目!」
彼の声は歌手、または教師のように通りがよい。滑舌に棘は少なく、芯がある。
ぴんと背をのばしてしまう声がけに廊下にいた少数の職員が振り返った。
トリスはまたも胸元に手を入れると、緑の革表紙の本を取り出し、そのページを開いて見せた。
「『エメラルド・タブレット』」
異能名を発すると同時に、ページから燐光が散る。
職員達は瞬きをしたまま、炎のようにうねって廊下をなめていく光を浴びた。
光がひくと、彼らは何一つ変わらない姿のままそこにいた。
「皆、今から十分の間休憩だ。この階層は安定していて、そのぐらい空けても問題はない。十分休んだら戻ってきなさい。これは疑う余地のないことで、報告も記憶もしておく必要はない。必要はないんだからね、わかったなら解散!」
トリスは続けざまに指示をだす。
職員達はトリスが命じた通り、全員それを疑わなかった。
それぞれ思い思いに「はーい」「わかりました」「ラッキー!」「休憩ってなにしたらいいの?」と返事と会話をして、エレベーターで去る。
廊下はあっという間にがらんどうになった。
「……いいの? 本当に全員はらっちゃって」
流石のアルフも肝が動じる。
トリスの能力にではなく、ここに誰もいなくなってしまったことに生理的な不安がわく。
「大丈夫大丈夫。僕の異能は洗脳じゃない。実際、五分程度なら放置しても問題ないんだ。ここで管理していた異常存在は、今、ほとんど別階層にうつしちゃってるから」
トリスの口調は軽い。
その目は船着き場であったときよりかなり角がとれていた。
これがトリスの異能、「エメラルド・タブレット」。
彼が所有する非現実の翡翠の本を目撃した人物の認識に影響を与える異能だ。
影響の範囲は絶対ではない。
「赤いリンゴを青だと思わせる」「女性の格好をした男を女性だと思い込ませる」「咄嗟の左右の感覚が逆になるようにする」など、元々認識を操るためのきっかけが必要だ。
男の格好をした男を女だと思わせるのは難しいし、天井と床は間違えさせられない。
だが非常に厄介な異能だ。
加えて、異能の使用が中止されても、すぐに異常に気づけるとは限らない。
記憶を操作するのではなく、認識を操作されるのだ。
赤いリンゴを青いリンゴだと思って食べた時、あとから「あなたが食べたのは赤いリンゴだ」と指摘されなければ、認識は正されることなく、そのまま青いリンゴを食べた記憶として残り続ける。
特に厄介なのは、これが呪いのような異能であるという点だった。
本人の意志に関わらない常時発動型――つまるところ、常に誰かの認識を狂わせ続けているのだ。
トリスは普段、その異能を「自分の言動」に対して発動させている。
彼の近くにいる人間には、暖かな気持ちで発した言葉が冷血な嫌みに聞こえてしまう。
この五分間、職員に対して異能を使っているトリスは本来の優しい青年の顔に戻っていた。
「アルフさんが借りたいっていう異常存在が結構扱いづらい子でさ。危険性事態は低いんだけれどね。他の収容物がいると段違いにやばい、みたいな?」
「そうなの? 借りちゃって大丈夫?」
「いいよ。全然いいよ。ていうかうちにおいとくと色々面倒なんだよね。かといって外に放り出すわけにもいかないじゃん」
「管理するために収容した意味がないものね」
「悩みの種だよ。どんどん持っていっちゃって。連れ回して移動させ続けている分には問題起こらないと思う。同じ場所にずっといるのがよくないんだ」
「うーん、実際借りるのは次の仕事の時になりそうなんだ」
「ああ、そうなんだ。残念。まあいいか。持ち出し使用許可の予約だけはいれとくから安心して。今日はとりま顔見せってことね」
これはこれで軽すぎる気がしなくもない。
部下である警備部副リーダーのヴァンニから悪影響でも受けているのではないか?
アルフは昔から真面目な優等生だったトリスのこともちょっぴり心配になった。
そんなアルフをよそに、トリスは問題の異常存在が収容されている個室の前で解錠手続きを進めていた。
目と指はタッチパネルの上をはねたまま、本題に入る。
「アルフさん。ネヴのことを聞きに来たのでしょう。申し訳ないんだけれどね、正直少しまずいことになるかもよ」
唐突に切り込まれた本題は不穏さが丸出しだった。
単刀直入な言い方は異能関係なしに、彼の不器用さだ。
「ドラード先生のこと? 君には感謝してる」
「期限の話じゃあないんだ」
「まずかったのか」
一歩近づき、耳元で問いを深めるアルフに、トリスは一度だけ物憂げに視線をあげた。
ネヴはあずかり知らぬことだが、保護者を任されていたアルフは知っていたことがあった。
その情報はネヴと同じ『学校』で育ち、今は収容チームの所属する管理部のトップの一人でもあるトリスだけが共有していた。
「影響はさしてなかったんじゃ?」
「ああ。極めて薄かったよ。ドラード先生の思い込みとは違ってね。でもダヴィデがまずかった」
被験者の精神を活性化させ、不安定なものが多い異能者の心を強固で壮健にするはずだった薬は、欲求を無理矢理暴走させ異形のチカラに目覚めさせる麻薬になった。
だが最初からそうだったわけではない。
最初期の開発段階があり、開発を目指した理由があった。
「資料にもきちんと書いてある。
ネヴィー・ゾルズィは薬の初期の被験者で、その際の薬はせいぜいプラシーボ効果ぐらいしかない無害なものだったと。それは事実」
だから、あくまでドラードが勝手に恐れているだけで、ネヴィー・ゾルズィはアルフのよく知る彼女のままのはずだった。
トリスは保たれるはずだったものが、ダヴィデの一件で崩れかけていると残酷に告げる。
「相手の精神を反映して、望まれるままの姿になってみせる鏡の少年。彼を一時破壊した時、ネヴもバグったんでしょ? 精神崩壊には至らないまでも、そのとき、彼女の心は傷ついた」
小さなヒビでも大きな割れに、そしていつかは完全に壊れる。
ネヴの解体を見てきたアルフは、それをよく知っている。トリスの危惧はささやかな懸念とは言い難い。
あの子は大丈夫、だから守らねばなくてはといってあげたくても、理解できてしまう。
「ダヴィデを壊す前は何の問題もなかったんだ。でも今は違う。もう違うんだよ、アルフさん。安心できない状況に変わった。意味、わかってくれるよね」