第二十五話「お目付役は心配性」
その夜、とあるタクシー運転手は震える手でハンドルを握っていた。
――悪い客を拾ってしまった。
後ろで優雅に足を組み、窓の外を見ている男をこっそり盗み見る。
愛嬌と色気をあわせもった彼は運転手の目線に気づくと、すぅっと目を細めた。口元は弧を描いているが瞳に宿る熱は皆無だ。
急かされている。苛立っている。
そう察し、運転手は慌てて前を向き直った。
――ああ、悪い客を拾ってしまった!
胃がキリキリ痛みだしている。
赤毛の男を乗せて、実に一時間が経過しようとしていた。目的地にはまだ着かない。
何故、この男を乗せてしまったのか。今更くつがえらない事実を後悔する。
車の運転技術こそ上等だ。
しかしこの運転手はタクシードライバーとして正式な認可はされていなかった。
普通の自家用車で勝手にまねごとをして金銭を得ている。
だから都市が定めた法定料金だって無視する。
とっくの昔に良心は痛まなくなっていた。
加えて、こんな夜中に上等なブラックスーツを着た色男を見て、悪戯心を起こしたのだ。
ここはひとつ、足を拾えず困っている彼をにこやかに助けるふりをして、法外な値段をふっかけてやろうと。
文句を言われたところで、きちんとしたタクシー乗り場で乗らなかった彼が悪いといって笑って去ってやるつもりだった。
それがよくなかった。
「これ。代金。釣りはいらない。足りるだろ? だからウェルデラッテ村まで頼むよ」
こういうときはまず、乗る前にだいたいの金額をきくのが常識だ。
明らかにぼったくりなら乗らなければよい。聞いた量よりはらう金額が多ければ指摘できる。
――これはとんだ世間知らずのお坊ちゃんか、しめたぞ。
にやつくのを抑えようとする運転手は迷わず赤毛の美丈夫が差し出した金を受け取った。
赤毛の男は運転手の指を包んで金を握らせる。
まるで金の重みを疑いのない実感をもって認識させるように、しっかりと。
そしてうさんくさいほど爽やかに白い歯を見せた。
「受け取ったな?」
完璧な笑顔に鳥肌が立つ。
降りてくれというより先に男はすべらかに行き先を告げる。
「ヴェルデラッテ村まで頼む」
「ヴェ、ヴェルデラッテ? 今からじゃあ何時間もかかる。朝になっちまうよ」
「構わないとも。いってくれ」
軽くいう男の顔を改めてまじまじと見る。
そしてようやく、彼の目がこんな真夜中にもかかわらず精力に満ちていることに気がついた。
決して荒々しくはない。むしろ穏やかだ。海をいく船の、風をいっぱいに受けた帆を思わせる視線は彼の日常が夜にある人間だと示している。
降りてくれ、というより前に、男は前方へ身を乗り出していた。
運転手は初めて認可を受けたタクシードライバーが羨ましいと思った。
もし正規のタクシーだったなら、客席と運転席の間を隔てるガラスがあったかもしれない。
男はあっさり運転手にまで手を伸ばし、ハンドルをつつく。
「なあ。代金は足りてるはずだ。君は引き受けた。そうだろ? 引き受けたなら行かなくっちゃあ。何、辿り尽きさえすればいい。そこまでいってオレを降ろせば仕事は終了。君は車から一歩もでず、トバして帰れ」
まるで古い友人のように話しかけてくる。
「それにね。ここまででやめたら、筋が通らないことになる。困ったなあ」
「え?」
「君はこのままなら労働の対価を得られる。俺もできれば平等な取引がしたい。しかしね、このままだと、君はコイン一枚たりとも手元に残せないことになる……ここでやめるのならね。こちらとしてもタダノリは避けたい。かっこ悪いじゃあないか」
青ざめる運転手が汗ばんだ手で握りしめたハンドルを、彼は一度だけやんわり掴んだ。
「ま、どうしてもブルっちまうっていうのなら。オレが運転していくよ。君は歩いて帰って、奥さんの美味しいパスタでも食べるといい」
運転手は尻に火をつけられた勢いで車を発進させた。