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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第三章 羊喰らいの丘
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第二十一話「悪魔に好かれる名」

 美しい声だった。

 とろけるように甘く、同時に、羽の濡れた虫に話しかけるように冷え切った声だった。

 無意識のうちに意識を奪われる。

 自らの内側から発せられる、己の低いそれではない《声》は、暴力的なまでの美声でイデを暴き立てようと囁く。


「望みはなんだい。知っているだろう」


 その《声》に形はなく。その声に音色はなく。

 ゆえに《声》は特別だった。

 存在しないからこそどこまでも透明で、雪解け水のように五感に冴え渡る。


「望みを。考えてごらん。悪い願い? だからなんだ……そんなの、自分で思っているだけじゃあないのかな? 考えてごらん。本当にだめな願いなのか」


 《声》は繰り返す。

 イデは呼びかけられるのを避けられない。

 気づけば視界は真っ暗だった。それが既に内面に深く食いつかれた証だということにもきづけず、ただただ《声》の命令に耳を傾ける。


 なにゆえこれほどまでにこの声は美しいのか。

 声。本来、人の場合は喉の中央にある一対のひだによって奏でるものだ。

 貧乏人であろうと、大富豪であろうと。声帯を取り替えることはできない。


 仮に全く同じ肉を有していたとしても、呼吸の仕方、癖、話し方に現われる性格が違えば全く違うものに仕上がる。

 声なきものでも「無言」という個性となる。

 その人だけがもつ弾力に富んだ筋の線は、ある種、誰もが有する自分だけの楽器(オークトチュール)といえる。


 対し、《声》は奇跡によって編まれた芸術品のごとき性質を備えていた。

 無である。

 例えばミロのヴィーナスだ。人間の「想像力」というちからを利用した悪魔的な誘惑であった。

 形がないから。音がないから。それは聞き手にとって理想を超えた究極的に好ましい《声》を形作ることができるのだ。


 イデはそれを認識できない。

 世にも希な至高の芸術を前にすると、人間は時として肉体の感覚を奪われ、むき身の五感に耽溺してしまう。

 美――感覚への刺激とはそれほどまでに甘美だ。

 人はあまりにも容易く喜びに狂う。


 ネヴであれば、あるいは《声》を視認し、断ち切ることができるかもしれないが。彼女はここにいない。


「こころあたりがあるはずだ。恥じることはないんだ。大丈夫……誰にだって弱さはある。叶えることが恐ろしい願いか?

その怯えと向き合え。恐怖を直視し、乗り越えた願いは深く、強い。だから面白い」


 かたく閉じんとする心の岩の割れ目へ言葉の雨が降り注ぎ、流れ込む。

 そして遂に《声》はイデの記憶を探り当てた。


「やっぱりあるじゃあないか。

 今の君を形作る全てに繋がる底の底、木の根っこのようなところに。

 血反吐を吐くほどではない程度に薄れ、忘れられない程度には食い込んだ茨の記憶が。


 弱さを認めるところから幸福(降伏)への道は始まる。あるはずだ、君には。長く長く……生まれてきたことへの呪いのように抱えこんできた願いごとが……

 見たくない、受け入れたくない? 君が村人だったならその通りにしてあげるんだけど。君の僕はそうしたくない。見ようとしないなら、手伝うよ。まずは、一番最初から――」


◆◇ ◆


 一番最初。それが具体的にいつだったかは覚えていない。

 確かなのはとても幼い頃だったということだ。

 時計の読み方を習うより前だ。出かける前にカレンダーをまじまじと見たこともないような歳だった。


 季節は冬だというのも覚えている。

 部屋の中でゴウンゴウン、ガタガタと壊れそうな音をたてて暖房が動いていた。

 室内と外気温の差で、古い窓ガラスが白く曇る。


 今にして思うと内外の温度差とは思い込みかも知れない。

 父親から鷹揚に声をかけられた時、小さな子どものイデは冷えるのも構わず、窓にぴったりと手のひらをあてていたからだ。


「おい」


 当時から父はイデを「おい」と呼んだ。

 純粋に笑いかけられた記憶はない。

 大抵父親がイデに笑いかけるときというのは、イデが手ひどい目に遭ったり失敗したりしたときだ。

 「ほら見たことか」というようにくつくつと喉をならし、安酒をあおるのである。

 この時はまだ父親の笑顔が嘲りと諦観だとは知らず、また信じようとしていなかった。


 椅子に膝をたてて、綿が舞うように落ちてくる雪を見つめていたイデは、呼ばれるなり飛び降りる。


「何?」

「こっちへ来い」


 近づけと言われたイデは子犬のように父親の膝元へ走った。

 父はイデを軽々と持ち上げると、己の足の間に降ろす。

 こんなことは滅多にないことだったので、イデは緊張に体を縮こまらせる。

 気恥ずかしさと構って貰えた嬉しさで、無邪気に笑い声をあげてしまった。


 子どものふわふわとした髪に手をのせると、父親はくつくつと笑った。

 喜色はみじんもない、ひたすら虚しい音だけの笑みだった。


「俺が好きか?」

「うん」

「くく……いつまでもつかね。お前もいつか俺を憎むさ。俺も親父が嫌いだった」

「そんなことないよ!」


 激しくかぶりをふって否定する。

 それがかえって本音を隠したいがための大袈裟な反応に見えたのか。


 父親はわざとらしく「イーデン」と、もったいつけるようにねっとり呼ぶ。

 父親の乾いた唇から珍しく自分の名前が発せられたことに喜ぶのと同時に、いつにないことへ無根拠な不安がよぎる。


「お前の名前の綴りはわかるか? Eden。エデン、楽園とも読める」

「……うん」

「お前のじいさんがつけたんだ。じいさんの国では、子どもの名付けである迷信があってよ。それはきいたか」

「ううん」


 祖父から与えられた名。父が我が子だと認識している記号。母が穏やかに連ねてくれるリズム。

 幼さから自覚できていなくても、名前とは産まれて生きていることへの根拠がないイデにとって大きなアイデンティティのひとつだった。

 誇りであった。

 エメラルドグリーンの目を輝かせ、頷いてみせるイデに、父は再び乾いた笑い声を聞かせる。


「じいさんの国ではなあ、綺麗な名前にすると悪魔も惹かれて寄ってくるから不吉だって言われてたんだとよ。だからあえて、子どもの幸せを祈って汚い名をつけることもあったらしい。」


 子どもの笑顔が固まる。

 背中側にいる父親の顔をぎこちなく見上げれば、同じ色をした瞳がイデを見下ろしてくる。


「え?」

「つまりお前は『不幸になるように』ってその名前をつけられたんだよ、イーデン。俺の名前もそんな風につけられたんだぜ。そっくりだよなあ、流石親子だよ」

「僕は……好きだよ、この名前……」

「遠くないうちに嫌いになるさ。俺の息子なんだからな」


 酒をあおる。我が子の名を呪う。

 そして「俺とおんなじようになるさ」、と吐き捨てるように言う。

 この言葉が段々とイデに声をかける際の決まり文句のようになっていくなんて、この時のイデはまだ知らなかった。


◆◇ ◆


 イデが初めて恋人を作ったのも、そう最近のことではない。

 父親に認められない。


 毎日決まったルーチンワークを繰り返すように酒を飲み、呪いを吐く。

 日に日に父に似ていく己の姿形が、あれがお前の未来だと鏡を見せてくるようで吐き気がした。


 だからイデは必死に努力した。図書館で本を読み、金をかけずに知識を蓄えようとした。

 いい大学に入り、安定した職業につけばマシな暮らしができる。

 貧乏人だと見下される日々から解放されれば、心だって豊かになるはずだ。

 そうすれば父も変わる。自分があのクズと同じ血と肉からできあがり、ゴミばこにいくだけの生き物だということも否定できる。そう思っていた。


 テストでいい点をとり、これでどうだと見せつけて、将来の展望を語っても父の態度は変わらなかった。

 いくら努力したところで、『世間様』が許しちゃくれないさ、血が許してくれないさ――そう嗤った。いつもいつも、くつくつと。


 それは確かに事実を含んでいた。

 同じ階層の出身者はイデの努力を「上にいけることなどないのに筋違いな努力をしている」「勉強など上の階層でしか役に田立たない」とあきれかえった。

 熱心に勉学をする子ども達は、大抵同い年であるにも関わらずイデよりずっとカラフルで上質な服を着ていた。


 同じ空間でペンと本をもつイデに対し、誰もが避けて座った。

 近づくと腐臭が移るとでもいうように。ゴミ捨て場のそばで好んで過ごすものはいないのだ。そこは人の過ごす場所ではないのだから。


 誰もイデに近づかない。触れない。褒めたり認めたりしない。

 雪の中でタンクトップでいても平気だが、いつも胸のあたりが寒々しかった。

 どんどん大きくなる体躯と鋭い目つきは、ますます「勤勉で将来有望な努力家」という像から離れたものになっていく。

 第一印象からイデの努力を嘘くさいものだと決めつける。


 「嘘くさい」。ろくに話したこともない癖に、嘘つきを見る目で見られる。

 話したことがあるやつもバカを見る目で見てくる。

 イデの望みを、心を否定するのが常識的で当然なこととして扱う。

 見た目によらず繊細だった心は、やがて見られているだけでささくれだつようになった。


 自然と心は渇き、きづけば暗い方へと転がり落ちそうになる。

 実際、考えず悩まないほうが楽なのだ。あとでどんなに後悔するとわかっていても、今のつらさに耐えられなかった。

 歯止めをかけようとしても難しい。


 だから恋人を作ったのだ。

 若者が熱をあげる恋をすれば、崖へ飛び込みそうになるイデをつなぎ止めてくれるかもしれない。

 身勝手な関係だった。相手も恋に恋するというふうで、お互い様だったはずだ。

 いつか自然になくなるのだろうな、と思っていた時間は思っていた以上に痛烈に叩き切られた。


 初めての恋人はおさげにした茶色い髪を櫛で梳きながら、別れを告げた。

 馬の尻尾を思わせる髪が豊かに波打つ。

 よく手入れされてつやつやと輝く髪はイデと彼女の心と真逆で、ずっと見ていたくなる。


「あんたが欲しいのはさ、恋人じゃなくて愛なのよ。あたしはそういうのめんどいんだわ」


 イデは無言で腕を組み、壁に背を預ける。

 何もいうまい。そう思ったのだ。

 ふられたことには心動かなかった。

 それが衝撃であったし、好いていたはずの女がいうことは大ぶりのナイフのように胸したのあたりにつきたったからだ。


 女は黙り込み、寒色の瞳で見つめてくるイデに大きく舌打ちをする。


「わからない? そうよね。あんた、愛されたことなさそうだもんね。わからないでしょ? 知ってる? 愛は与えるもの、恋は求めるものなんですって。あんた、恋ぐらいしかできないヤツなのよ」

「……そうだな。あんたのいうことはいつも正しい」


 そういう女だった。

 ぱしんと痛くもないビンタをして、彼女は足早に立ち去っていった。

 「ごめんなさい」という一言を残すあたり、いい女だったと思う。

 「俺と別れて正解だ」という感想がするりと出てきて、イデの顔を歪ませた。


 つまるところ、イデの呪いというのはそういうものだった。

 愛されようにも、それが愛だと理解するための判断材料を有していない。

 これが必要な努力なのだと思い込み、無駄な時間を費やす男だった。


 唯一愛されているのかもしれない、とふわふわと信じていたのは、母親ぐらいのものだ。

 その母親も「お金を稼いでくる」と出かけたきり、かえってこない。


 そのとき、イデの心は折れてしまったのだ。

 幸せになりたい。安心して信じられる、たったそれだけでいい変わらぬ愛が欲しいなど、イデには到底過ぎた願いだったのだと。

 


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