第十八話「《声》」
シグマは借家に設置された電話から手を離す。
最近、携帯電話というのもでたが、あれは重たくて鬱陶しい。
固定電話は数字を打ち込むたびに、ダイヤルに指をひっかけてまわさねばならないのがじれったい。
「アルフさんに電話しました」
「どうです? すぐ来れそうですか?」
「なるべく早く駆けつけるとは言ってたけれど……今ちょうど管理チームのほうにいるらしくて、少し時間がかかってしまうかもって」
「管理チームですか。トリスも融通してやればいいのに」
ネヴは自分とシグマ、ヴァンニと同じ『学校』で育った男の名をあげる。
彼は収容チーム――一般市民のいない環境に建設された施設で、獣憑きやアーティファクトを研究・管理するチームに所属している。
同級生イチの出世頭だ。
「奴はじゅうぶん融通してくれていますよ。アルフさんもだから会いにいったんでしょ。どの収容物を借りたがったのか、会いたがったのかは知らないけど」
「どちらでも構いません。信頼しています。最速でいつだと?」
「恐らく明日の夜。早くて今夜」
「なら今夜きますね。そちらが本来の予定でしょうから。余程のトラブルがない限り来る」
ビクトリアがいれた紅茶をじっと見つめてから手をつける。
このタイミングで毒をいれることはないと判断したのだ。
二口目からは迷いなく飲み下す。
「……美味しい」
「あらどうも」
シグマはカップを手に取らなかった。
「子どもは決して少なくない……明らかに他と違う子どもなら、ひとり知ってる……」
「カミッロ・アンヘル。ベルの弟ですね」
「ええ。時期が合致する」
ビクトリアは椅子のうえで足を組むネヴの背後を位置取っている。
シグマの懐には拳銃がある。
シグマは常に胸元のそれを意識して、二人から数歩離れた位置に立つ。
大丈夫だろうが、ビクトリアが不要に動けば撃つつもりだった。
効かなくても意識を反らす程度はできる。この近さなら外さない。
ネヴの速さならそれで事足りる。
「別に警戒しなくていいわよ、今は。忠義と協力は違うもの」
「ふふふふ。ああいや、というかそもそも。わざわざ考える必要なんてありませんでしたね。ビクトリアさえ教えてくれれば、薬を使った人間がわかる」
「いえ。いいえ。わたしにそれを期待しても無意味よ」
ビクトリアの白磁の指がシグマのカップを片付ける。
クラシックなメイド服のロングスカートと一緒に、小さな頭が左右に振られたのにシグマが舌打ちすれば、憎たらしそうに睨み返された。
「教えたくないという話ではないの。純粋に知らないのよ」
「知らない?」
「ええ。だって、ドラード先生は誰にも薬を渡した覚えがないっていうんだもの。なのになくなっていたから、探しに来たのだわ」
これにはネヴもシグマも閉口する。
ビクトリアも自らはものひとついわず、短い沈黙が流れる。
天使が通ったというやつだ。
「信じてないって目をしてるわね。本当ですよ? ましてや子どもだなんて。先生には子どもを犠牲になんて出来ない。ネヴ、あなたは身をもってご存じでしょう?」
ネヴはその質問には答えない。
思案するようにシグマに目配せだけする。
ライオネル・ドラード博士はネヴの主治医だった。
ビクトリアの言は、ネヴとドラードが子どもの頃からよく知る仲だと知っている発言に聞こえる。
博士とビクトリア達は会話をしている。
シグマはネヴと博士の関係すべてを知ってはいないが、彼女がいうのは親密な領域の話題ではないのだろうか。
(あの先生、もしかして自主的に裏切ったの? だったら……だったら、粛正でごまかして始末……できるのかしら)
シグマの脳裏に心を喪った姉の寝姿が蘇る。
そのたび内臓がとびだしていきそうなほど強い激情が、足の下から頭のてっぺんまでじりじり焦がす。匂いまでするようだ。
「……ふむ。まあ、とにかく。使ったり与えたりした覚えがないのに薬を紛失していて、心当たりがあったのがこの村だったと?」
「ええ」
ネヴはアシンメトリーな黒髪を指にからませて、ビクトリアと目を合わせる。
魔眼を使って、ビクトリアの精神構造を盗み見、真偽を確かめようとしている。
すぐに軽い諦めの混ぜて目を伏せた。
ネヴとビクトリアは能力の相性が悪い。いや、意図的に悪くしたのか。
いつかあなたも会うかもしれませんね、とシグマも聞かされたことがある。
ネヴには生身の心と人工の体をもつビクトリアは、まるで違う題材の絵をかけあわせたジグゾーパズルのように見えるらしい。
「一応わかりました」
「信じる?」
「真偽はひとまず置いておきます。怪異を解体するのに、発生源が偶然か人為的かはあまり重要なファクターにならなさそうですから。
今日はイデさんはこの家においていきますので、昼間のうちに出かけましょう」
「夜ではなく?」
「夜道で偶然ベルちゃんに会ったとき、夕食の時間だっていってたんですよ。夜間は家族で集まるはず。深夜は儀式の真っ最中で、怪異もちからを強める時間帯ですからぶつかりたくありません。
日中の開店時間を狙って寝室に侵入します」
「わたしがまた留守番しますか」
「いえ。少し心配はありますがやむを得ません。私、シグマさん、ビクトリアの三人でいきます」
誰であろうとビクトリアと二人きりになるという状況を避ける。
ネヴは本人を前にはっきり言い切った。
「ああそうそう」
飲みきったティーカップを置いて、風呂のほうを顎でさす。
「あの男性、なんというお名前でしたっけ?」
「モブノ、いや、モレノだったかな……どうでもいいけど……」
「ふむふむ。ねえ、モレノさーん?」
山彦を期待するように呼びかける。
風呂場から大きなモノが跳ねまわり、腰掛け椅子と桶が蹴り飛ばされる騒音が届く。
シグマの耳には、潰れた喉で過呼吸寸前にあえぐ悲鳴も入った。
「気色悪く泣くな、静かにやれ!」
慣れたものだ。ぴしゃりと鋭く叱り飛ばせば、タイルの上で暴れる男は大人しくなった。
「シグマさん。しっかり言い聞かせておいてください」
「…………大丈夫ですかね? あれとイデだけで?」
「大丈夫じゃなかったらもっと酷い目にあうだけですよ。ほらほら善は急げ、昼のうちに出ましょ。早く帰ってくるためにもね」
背に腹は変えられない、イデを信じるしかない。本音を言うのを我慢したネヴにシグマは頷きを返した。
◎
ベルナデッタの家が営む菓子屋が開店してから数時間。
三人娘は店の裏側にいた。
「たいてい各部屋に一つずつは窓があるものですよねえ。ということはココがリビング。ココの窓は厚いから風呂場かな。これは、銀色にみえるあれはシンク? じゃあキッチン?」
スキップして歌うように部屋を覗いているせいで、ネヴの周りには穏やかな空気が漂っていた。子どもが友達の家を探検しているようだ。
実際には不法侵入の手立てを考えているのだが。
「でー、このあかりがついている無人の部屋は、おじさま、もといご両親の自室かなー」
「風呂場以外であかりがついていない部屋……は、二階ですね」
「そこが子ども部屋ですかねえ。よし、出番ですよ、ビクトリア」
「わかったわ。見張りはお願いしますから」
ビクトリアが握り拳を天に掲げる。
細い血管が青くうっすらと浮いている手首に、空いている手を添える。
するとビクトリアの手首が窓に向かってロケットの如き勢いで飛び出した。
離れていく手首とビクトリアの間は無骨な鋼鉄のケーブルで繋がっている。
しゃりりりと重い鈴に似た音色を奏で、それは二階の窓近くに着地した。
指先にも細工がしてあるのか、小さな手首はがっつりと壁にひっついた。まるで爬虫類の手だ。
「ホァァーッ! 凄い、本当に発射された! ここだけは評価できますよメイドロボ!」
「うっさい! あとロボじゃないから!」
声を押し殺してはいるものの、頭上に固定された手首をみて、ネヴは瞳を激しく輝かせる。
嫌がるビクトリアも褒められた満更でもないのか口角がぴくぴくと動いていた。表面が本物の肌であれば、間違いなく赤面していたはずだ。
「いざとなれば石を布で包んで、ロープにでもくくりつけて投げ入れるつもりでしたが、いやぁ、これは思わぬいい経験をしました」
ニコニコと満面の笑みを浮かべるネヴは一歩下がる。
応じてビクトリアは中腰になった。
「では私が入りますので、問題がなければ着いてきて下さい」
ネヴのブーツがビクトリアの背に乗る。
ケーブルを利き手で掴み、壁に足裏をつける。と思うと、そのままケーブルを頼りに壁を登り始めた。
あまりにすいすいと進むので簡単そうだと思いそうになる。
実際には、構造を、そしてどうチカラを加えればどんなトンデモができるのか把握できる魔眼と、天性の運動センスがあって出来ることだ。
ネヴは数十秒で目的の部屋に辿り着く。
器用に片手でガラスと窓枠の間にナイフを差し込み、二、三回打ち込む。
流石にこの時ばかりはバランスがとりづらかったようだ。
何度か落ちそうになり、シグマはヒヤヒヤするハメになった。
無事窓ガラスを破壊し、ネヴは部屋に侵入する。
そしてなかから鍵を開け、ビクトリアの手首を窓の外から部屋のなかへと移動させた。
ぶんぶんと手をふり、シグマとビクトリアを手招きする。
窓割りがなければシグマでも壁登りはできる。
ひっぱるとケーブルはたるまずぴしりとのび、体重を預けても揺るぎない安定感があった。成程、石を投げるより格段にいい。
部屋にはいってまずシグマが気になったのは、室内全体に満ちたどんよりとした空気だった。
ここだけ雨上がりのように蒸している。
じわと肌があせばむ。同時に腕をみれば、汗をかいた箇所には鳥肌もたっていた。
急に風邪をひいたような寒気もして、酷く落ち着かない心地になる。
家具は子ども用の机、薬箱に小物入れもしまわれた大きめの本棚、そしてベッド。
ベッドは膨らんで、色素の薄いベージュの頭が枕にのっていた。
「この子がカミッロ・アンヘルですか」
ネヴの呟きに誘われ、シグマも少年を見に行く。
「…………ッ」
心臓が止まるかと思った。
開かれたまま虚ろに天井を見上げる目。目的もなく開いた口。繰り返されるだけの、生命力を感じない呼吸。
目をそらしたい衝動を抑え込む。
(これは、姉さんじゃない。違う。他人よ――)
今日は仕事で来ている。堪えねば。
のたうつ心臓を黙らせて、シグマは耳を澄ませた。
「……《声》はしません」
「そうですか」
「ネヴちゃんは?」
「当たりです。非活性状態のようですが、他の村民とは全く違う」
ネヴの黒目が大きくなる。
「もう本人の自我は残っていませんね。最低限の記憶の残り香だけがある。急激に、なおかつ不自然に精神が壊れていった傷跡がある。生活するなかで精神を病んだわけではない。
薬物の摂取によって自我が先鋭化し、《無意識の海》に接触はしたものの、獣憑きになるほど自我が強いわけでもなく、脆い部分から崩壊した。
カラッポになった器に、最後に残った一番強い想い――残り香をあてに、その想いに近しい性質を持つ『何か』が入り込んだようです」
村人達を見ても、みな同じに見えたわけだ。
本体、もとい宿主は、一度も外出していなかったのだから。
「非活性とは? 彼の奥底に潜んで、休眠状態……ってこと?」
「だと思います。うーん、でも、ちょっとまだわからないことが」
「何……?」
「シグマさんの耳はあくまで超人的な聴力。それは現実の音に大してなんですよね、非現実の……脳内に響く音は別扱いのはず」
首をひねって、反応一つない少年に更に顔を近づける。
「村人達は直接聞こえるわけではなかったのに。イデさんにだけ、直に話しかけていた。本物の音声を用いて。
遠方から脳内に直接声を届ける場合と、直接話しかける場合で効果と様子が違うんですかね? 私も応用して色々な眼の使い方をするので、あるとは思うんですが」
非活性状態なせいで、正体を掴みきれない。
はっきり詳しく中身をみるために、ネヴはカミッロの顔を隠している髪をどかそうと手を伸ばした。
『さわるな』
誰かが言った。
いいや、誰もいわなかった。
甘くとろけて、囁くように。冷徹に容赦なく告げるように。
実体を持たない声が、三人の脳を揺さぶった。
『さわるな、さわるな』
ころころころころ、脳内を何十にも駆け回り、反響する《声》。
『……誰? だれだ、誰――』
村人が語ったのとは異なる言葉だ。
《声》の命令は質問にかわる。
「どういうことです? カミッロはここにいるのに!?」
見下ろしたカミッロは、瞼の位置もそのままにベッドにしまわれている。
混乱するうちに、《声》はヒステリックに絶叫した。
『―――――何だよオマエラァッ!? 出て行け、出て行け、出て行け! いなくなれッ! カミッロに変なことしないで―――ああもうッ、何かする前に死んじゃえよ!』
ぐわん。渦巻く《声》が頭蓋のなかで暴発し、脳みそをシェイクされるような猛烈な頭痛が襲う。
ネヴがすぐさま手をよこなぎにはらうと、《声》が脳から弾き飛ばされる。
見えない何かを摘まみ、ネヴは乱暴に投げ捨てた。
ぐちゃぐちゃに固まった《声》の塊がポンととびでて、バウンドしながら床を転がり、遠くへ消えていく。
二度目の絶叫はなかった。
それでも鳥肌は収まらない。
《声》の消失とともに、部屋全体を包んでいた湿気が消えていた。
「これは……一体……」
シグマが呆然と呟く隣で、ネヴも額に手をあてて低くうめく。
「ああ、何故、こんな簡単なことに気づかなかったのか。そうか。道理でおかしかったはずです!」
シグマも冷静になってみれば気づくことがあった。
いましがた聞こえた声。その口調、どこかで誰かの話の中できいたことがなかったか?
「イデの前に《声》の本体らしきものは直接現われた。なのに、モレノ、村人は《声》の主を認識していない。てっきり、的を絞った場合と無差別に拡散する場合で手口が違うのだと考えていました」
「違うの?」
ビクトリアはまだわかっていない。
屋敷に勤め、村人とはろくに接触がなかったからだ。
「ある意味では間違いではありません。ですが、我々は薬の紛失の経緯を知らないことへの重要視が足りなかった」
悔しげに唇をかみしめる。
カミッロを守ろうとする、ヒステリックな少女の声。
ここまでくれば、わかってしまった。
「異能の発現者は『二人いた』のです。カミッロ・アンヘル。そして、姉、ベルナデッタ・アンヘル!」