第十七話「白きもの」
シグマはなるべく冷静に、二人の話を聞き出そうと頭をひねる。
「ネヴちゃんの望みは、一刻も早く怪異の本体を見つけ出し、排除すること。
ビクトリアの理想は、できうる限り犠牲を出さない手法をとること。
行動っていうのは目的あって言い出すものよね。
なんのために、その行動をとりたいの」
『目的』は行動より優先する。
そこのすりあわせができれば、不毛な喧嘩もひとまずまとまるはずだ。
シグマの問いにネヴは一度、可愛らしい唇をきゅっと結ぶ。
逆にビクトリアはフリルで彩られた薄い胸をはった。
「勿論。民を守ることが『正義』であり『道徳』だからです」
きくなりネヴの眉目がひそめられる。
「あら。貴女、あれだけ強固に行っていたわりには理由のひとつも言えないの?」
「……これ以上、見苦しいヒトが増えていくのが我慢ならないのです。私の精神まで絞め殺されている心地になる」
(成程。相性が悪いはずだわ)
理由不明の敵対関係だからというだけではない。
(ネヴちゃんも本当に嫌だっていうのなら、放っておけばいいのに)
ネヴの場合、そうであることが憎いというのは愛情の裏返しだ。
彼らにも本当はもっと美しい部分があったはずだった。そちらのほうをこそ育てられたはずなのに、という嘆きだ。
他者を守る形で自愛を満たす人間と、自愛の形をとった他愛では、平行線をたどっても混じり合うことはない。
(面倒くさいわ。面倒くさい相手がどう動くか警戒するのは慣れてるけど、相手の機微を感じ取って機嫌をとるとか、苦手なのよ……そういうのは姉さんのほうが……)
こうなるとわかっていれば、無理にでもアルフを連れてきていた。
シグマは赤黒く煮立ち始めた苛立ちに蓋をして押さえこみ、なんとか冷静に考えようと努める。
「一番、怪異の本体に近いものを探せばいい。条件をみつけ、絞り込めばそう難しいことじゃない。何より私達は既に現場を見ている。そこには確実に一人、特別な扱いにあるものがいた」
「麻袋の男ですね」
とりなおせば、黒い瞳をカミソリのように細めた。
「あれが本体とは限らない。でも代表らしく振る舞っているからには、無関係ではないはず。彼の正体を知ればそのまま怪異本体への足がかりになる」
「ええまあ、そうですね。また今夜ピロリーに行って、祭りのあとに尾行して帰り道で襲えば――」
「ネヴちゃん?」
ぴた、とネヴの言葉がとまる。
普段、喋りすぎなくらい話す傾向がある彼女にしては不気味なことだ。
何もないところを見つめる猫のように微動だにしないネヴから紅茶のカップをとりあげた。
「シグマさん。イデさんは?」
「疲れたっていうから、仮眠にいかせたけど」
シグマの返答をネヴは丹念に咀嚼する。
たっぷり三回はまたたきをするだけの時間をかけた。
そして突如椅子を倒して立ち上がる。
カップをとりあげておいてよかった。割れていたところだ。
「まさか。私が気づかないはずが。まさか」
シグマにはまるでわからないが、彼女のなかで何か異常事態が発生したらしい。
椅子を直す暇も厭う。
ぶつぶつ呟いて、すたすた一直線にシグマがさした寝室の戸に手をかけていた。
「いつもながら忙しい人ね……そっちの方がラシイけど……」
肩をすくめてシグマも後を追う。
意外にもビクトリアもついてきた。幼女にしか見えないかんばせは、狂人を恐れる嫌悪感で歪んでいたが。
そして開け放たれた扉の向こうをみて。
気づけば、シグマは床に手をつき、胃の中の紅茶を吐き出していた。
あまり食べ物をいれていなかったので、酸い液体がぴょろぴょろと飛び散る。
「シグマ! 耳を塞ぎなさい!」
ネヴの鋭い指示に考えるより先に従う。
いつにない呼び捨ての声かけが緊急性を表していた。
首にかけていたヘッドホン型の耳栓を装着し、そのうえから手でおさえつける。
《声》がきこえた。
言語はない。朽ちた教会から連鎖して響く鐘の音のようでもあり、死者が出た家から朝日がのぼるとともに羽ばたく鳥のさえずりのようでもある。
ただ、それは、シグマが腹の底、折り重なった腸の底をえぐってひきずりだす。
――憎い、憎い、憎い。この世の全てが恐ろしい。いつ傷つけられるの。家族でさえやるんだからおまえらなんか。気が休まらない、うるさい、全部消えてしまえ――
それでも必死にヘッドホンで耳を塞げば、痛みすらともなう精神への苛みは弱まった。
抑えきれない涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったおもてをあげ、《声》がした方向を睨む。
ベッドだ。イデがその巨躯を狭苦しそうにおさめている。
その顔色はいつにもまして青白い。肌は冷や汗でぐっしょりと濡れ、銀髪が頬にはりついていた。
寝返りをうちながら、しきりに「やらない」「できない」「やめろ」と魘されている。
純白の人影が彼の枕元にいた。
しみひとつない羽毛を思わせる華やかな白の輪郭は甘くとろけている。儚い形骸を明確に捕らえることはできない。
しかしあかりもつけていない部屋のなか、陰影すらも存在しない立ち姿は、明らかに異常だった。
もとより暗闇から来たるものであるかのように。
闇のなかの黒であるかのように。
イデの頭上から顔を覗き込む白は『影』であった。
「シグマさん、貴女は下がって。貴女は耳が良すぎる」
ネヴは上着の内ポケットに手を入れ、煙草をとりだす。
彼女に喫煙趣味はない。逆にむせるし強い臭気が苦手だと避けている。
村についたばかりのとき検めた、魔除け用の煙草だった。
火をつければ、通常の煙草より遙かに早い速度で煙りが室内に充満していく。
簡易的な護摩炊きである。
燃やされるものは煩悩の表示、火は知恵の象徴だ。
知恵によって煩悩を焼き、人を高い境地へと導く法であり、祈りの内容には息災・増益――降伏などが含まれる。
煙を受けた影は、見つめ続けていたイデから目線を外した。
腰をまげた姿勢のまま、首だけが真正面をみる。
頭部もまた白い燐光の集まりだ。目も鼻もなければ、顔立ちや表情めいたものは一切読み取れない。
輪郭だけは人そのものだ。一点だけ人とは異なる部位もある。頭の両側からわずかにでっぱった四角い突起だ。
悪魔か牛を思わせる二本のツノ、何を意味するのかはわからない。
煙が増すにつれ、イデが咳き込む。
反比例して頬に赤みがさしていく。
だが影はそれ以上動かなかった。
じぃ、と今度はネヴを見ている。
「やはりこの程度では弱いのか」
ちっと舌打ちをし、ネヴは更にポケットをまさぐる。
煙草以上にピンと来るモノがないのか、次第にネヴから余裕が失われていく。
焦りのあまり舌なめずりをしてふっくらとした唇から、真言めいたものを唱えるも、影には光の色合いひとつ同じままだ。
やがて影は飽きたようにうつむくと、再びイデに近づいた。
今度は顔だけではない。
やけに細長い腕を持ち上げる。
それだけではない。最初からあった二本の腕があがるほどに、銅の部位から分裂したかのように新しい影の腕が増えいく。
増えた腕はナメクジの尾に似ていた。のたうちまわる腕達がイデの両頬を包もうとのばされる。
シグマは両目を乾くほどに見開く。
逃げたくてもできないのだ。
耳を襲う《声》に耐えるのに精一杯で身動きひとつとるのにも脂汗が吹き出る。
(このままでは後輩くんが取り込まれる!)
証拠のない確信があった。
そこに新しい音が加わる。
硬質で小規模な爆発。
ブーツの低いヒールで、フローリングが踏み砕かれんばかりに蹴られる音だ。
ネヴである。
居合抜きを思わせる凄まじい速度。
衣服の白と青が残像の線を残す。
「私の身内に入るなァぁッああ! この外道がァ――ッ!」
咆哮とともに、ネヴの手袋をはめた手は白い影をビンタした。
人間であれば間違いなく倒れ伏すだろう、肌を破らんばかりの勢いだった。
そも物理的な肉体を有していないのか、頬を打つ乾いた音は響かなかったけれど。
影は、黒板消しをかけられたチョークのように霧散して吹き飛んだ。
「……前から激しかったけど、ここまでだった?」
鬼気迫るネヴの後ろ姿に、シグマから本音がこぼれてしまう。
同時に、今はもう吐き気がしないのにはっとした。
「……やったんですか!?」
「いいえ。あれは本体の分身みたいなものでしょう。手応えがありませんでした」
シグマの様子でネヴも影が去ったのを察し、肩を下げる。
「前々からちょっとイデさんの様子がおかしいな、とは思ってはいたんです。でも軽く視てみても、疲れ気味かな、ってぐらいだったですよね」
「ネヴちゃんの魔眼でも視きれない……ってこと……?」
「村人のは視えましたよ」
ネヴの魔眼は精度だけなら相当のものだ。
それが通らないということに背筋が泡立ちかけたが、すぐに否定される。
もっともネヴ自身混乱しているらしい。考えをまとめるため、また呟きはじめた。
「もしかしたらイデさんが特別に執着されているのか。何故? ならば本当の能力を隠していたのか。いや、どうしてこのタイミングで、彼に? やはり成長するタイプなのか」
いいながらネヴはイデの寝ているベッドに近づく。
膝をついて彼にはりついた髪をはらい、脈を測る。そこでようやくネヴの険しかった表情が和らぎ、笑顔が浮かんだ。
「うん。異常なし。よく耐えきりましたね。大変よろしい」
「……案外我慢強いんですね……」
直接の対象でなかったシグマでさえ、あれほどの圧力を受けたのだ。
イデの負担がどれほどであったか、想像もつかない。
安堵の息をついて彼を見下ろしていると、イデがうっすらと目をあけた。
暗闇でエメラルドグリーンの瞳が苦しげに瞬く。
「あ、イデさん! あたま大丈夫でしたか!?」
「……だ、った」
「イデさん、なんて?」
悪夢にうなされた起き抜けのかすれた声で、イデは何かを伝えようとする。
シグマでも聞き取れなかった。疲弊のあまり、言葉にすらなっていなかった。
ほとんど舌が動かないのを自覚したイデは、ネヴの腕を掴んで引き寄せ、彼女の耳を自分の口元へ引き寄せる。
ネヴの目がスッとイデの唇に向く。
変わらず声はでなかったが、代わりにネヴが話し出す。
「『子ども、だった……あの、声の主は……』」
「……ネヴちゃん、読唇術もできたんですか」
「目だけはいいので。アルフに、万能型じゃなくていいから長所を伸ばせって死ぬほどたたき込まれました」
ネヴは、なお話そうとするイデをベッドに押し戻す。
拳をグーに握って「起き上がったら寝かすぞ」と脅せば、いやいやイデは目を閉じる。
数十秒もしないうちに弱々しい寝息がしはじめた。
ネヴもまた汗をかいているのだろう。
鬱陶しそうに顎の下を拭う。冬だというのにビクトリアを除いて全員汗だくだ。
ふりむけばビクトリアは腕まくりをして部屋を出るところだった。
よく見なければ気づかないほど丁寧に隠された球体関節が目に入る。
少しして聞こえる、蛇口から水が流れ出る生活音。
周りの様子をみて風呂をいれにいったようだ。メイドというのは何も外見だけでないらしい。
ようやく異常な空間から脱したことを実感しはじめる。
「で。ネヴちゃん。どういうこと……?」
「――子ども。強い影響力をもつ存在。子どもっていうのは生命力、イコール、感情が強いからあちら側と繋がりやすい。そのうえ想像力豊かなくせに自我は未熟……つまり怪異からすればご馳走みたいなものなんですよねえ」
心底ナシであって欲しい推測ではあったんですが、とネヴは今までで一番深い溜息をついた。
「私が見誤ったかもしれません。もしかしてこれは『神降ろし』が顕現しているのかもしれない」
ネヴ達のいう『神』。
それは無意識の海に住まう、無数の人間の無意識と想像力がこごって生まれた怪物をさししめす。
基準は、人間の意識では観測しきれないほど強大にふくれあがった存在であることである。
認識しきれないこそ、通常は広大な海に住まい、現世に浮き上がることはない。
あくまで怪異は人間の意識を通じて受肉するのだから。
金魚鉢のなかに鯨が入らないようなものだ。
されど。されどごく希に、神の影が現われることがある。
神の一側面を抽出した化身。
似通った性質をもつ下位の怪異へのグレードダウン。
神の住処に接近できる精神性をもつ聖人に権能のごくごく一部が宿ることもある。
そのなかでもピンキリ、かつ凶悪とされるのが『神降ろし』だ。
もしも金魚鉢に、極小化されたとて鯨が入れば、当然、もといた金魚は死んでしまう。たえきり、小神としての意識と同居できることは天文学的な確率だ。
大抵は異なる結末を辿る。
概ねは偉大なる意識にむしばまれるショックで心身が壊れきり、容れ物を失った神が海にかえる。
壊れるなかで、ごくごく希に、哀れで奇跡的な被害者がいる。
『神の容れ物』としてたえきるか、肉体が残ってしまうものが。
研究上、比較的『容れ物』になる個体は、既に中身を失ってしまっているカラの肉や子どもが多いとされる。
単純に入り込みやすいからだ。飲み込めるメモリの容量が大きいからだ。
(何よりおっかないことに)
通常、『神降ろし』が出現する事件は、精鋭である封入チームが行う。
名前こそ緩いが、実際は極地に度の過ぎた怪異を収容する任務を請け負う。
対するネヴとシグマ達は収容チーム。あくまで重要度の低い仕事をこなす。
今の白い影の様子を見る限り、今から封入チームを待って間に合う保証はなかった。
「……実力を超えた仕事になるかもですね……惨事よ、これって」
「連絡はしますが。間に合えばいいんですけどねえ」
最悪、この小さな村にシグマでは想像もつかない地獄が訪れる。
「ああ……始末書の気配がする……」
シグマは天を仰ぎ、怒りと胃液を抑えた。
「ああ、でも、目標は決まりましたね。探す範囲がぐっと狭くなった、手間も被害も少なくなる……『子ども』ってね」