第十五話「晒し台(ピロリー)」
夜。冷たく、穏やかな時間。
夜。姿を隠し、守ってくれるひととき。
夜。おぞましいものが堂々と歩き回る時刻。
人が夜へ抱く印象は様々であるが、今宵の村には全ての暗闇が潜んでいた。
丘のうえ、晒し台の周りに、人が願った夜闇が煮詰まっている。
昼間と同じ服を着て。井戸端会議をする主婦達はくちもとに手をあてて顔を見合わせて談笑し。男達は気のあう友人と大きな声で馬鹿笑いをしてた。
浮き足だって晒し台をぐるぐるりと囲んでいる。肌は冬だというのに汗ばんでいた。
集団が密着することで生まれた熱で、ドーナツ状に並ぶ集団に生ぬるい風が通う。
「今日は誰だろう」
「村をよりよくするために、今日はどうしよう」
言い方は違えども、みなが気にしているのは同じことだ。
母親に肩にカーディガンをかけられ、腰元に抱き寄せられている娘が不安そうに母のスカートの裾を握る。
狂った熱が破裂寸前にふくれあがった時、一人の男が晒し台の前に出た。
中肉中背の男だ。動きは鈍く、ズボンに軽く肉が乗っている。
労働で得た筋肉のうえに脂肪をまとった中年の男だった。
明確にその年齢をうかがうことはできない。
何故なら彼がどのような人間か、如実に表すはずの顔が見えなかったからだ。進み出た男は頭から麻袋をかぶっていた。
麻袋には穴は空いておらず、代わりに黒い塗料で模様が描かれていた。黒い線が三つ。線は男が呼気を発するのに応じて歪み、笑ったり泣いたりしているように見えた。
布越しにくぐもった声が村人に問う。
「皆さん、今日の病はなんですか」
大きな木に風が吹けば、小さな葉の一枚一枚がこすれて、嵐のような音をたてる。
まさに暴風の如くあちこちで咲いていた談笑が、またたくまにしぼむ。
「皆さん。不幸になりたくないでしょう?」
話し方は粛々としていた。
堂々と話している――というより、紙面に書かれた決まり文句を読み上げているような、棒読みのそれ。
感情のこもらない音の羅列に誰かが怒鳴った。
そうだ。当たり前だ。
麻袋はうなだれる。
「本当ならこんな方法よりもっといい方法があるのかもしれないが。私達は凡人。特別冴えた素晴らしい方法なんて浮かばない。だから協力するのが大事なのです」
怒鳴ったのとは別の男が感じ入るように顎をひく。そして土仕事で荒れた手で隣にいた女性の肩を掴む。
先ほど子どもにカーディガンを渡していた母親だ。肩を掴んで離さない男を信じられない目でみあげた。
「嘘でしょ? あなた、ねえ私は尽くしたじゃない、なのに」
「……子育ては君の仕事じゃないか。なのに仕事終わりで疲れた俺に文句を言って。料理を代わりに作っても、お礼ひとつ言ってくれなかった」
「だってそんなの――」
言いかけて、母親は自らのくちを塞ぐ。
消え入るように何度も何度も「ごめんなさい」と謝る。
あかぎれのある細い手で、肩に乗せられたままの手に自らの手を重ねようとした。
ち、と大きな舌打ちが響く。
忌々しそうに妻だった女を晒し台のほうへ突き飛ばす。
「ほら。そうやって、言い訳をする。汚いんだよ、心のなかが」
母親はなすすべなく晒し台の前にまろびこむ。あげられた面のまなじりに透明なしずくが浮かぶ。
麻袋が彼女の脇の下に手を入れると、しずくは大粒の涙にかわった。
必死に手足を動かして抵抗するも、健康な成人男性の腕力にはなすすべもなかった。
麻袋の太い腕が号泣する母親を晒し台に固定する。
「かわいそうに。でも仕方がない。なおらない病を抱え続ければ、他の健康な部分まで病んでしまう。幸福であれたはずのものが汚いもので不幸になるなどあってはならないのです。だから……切除せねば……」
夫だった男が妻だった女を人差し指でしめした。
「この女は悪い女です。妻として私を敬わず、母として娘に尽くしませんでした。種を踏み潰し腐らせる、悪しき土壌です。どうか刃以て、この淀んだ体を耕して下さい」
妻だった母親の首が晒し台の穴にはめられた。
強引におさめられたせいで、長くのびていた髪が巻き込まれ、口に入る。
ぺっぺと髪を吐きだそうとするが舌に張り付いて、ますます喉の奥に潜っていく。
ますます苦しそうにあえぐ。
とるには手を使うか、誰かが助けるしかない。
だが両手もまた首の両隣に空いた穴にはめられてしまっていた。
周りで見ている人間で、彼女に近づこうというものは誰もいなかった。
代わりに差し出されたものはあった。
何人かの主婦が鞄からもたついた手つきで、布にくるんだ持ち物を取り出す。
家庭に携わるものならば誰しも持っているものである。
薄いタオルが開かれて出てきたのは、鈍い金属光沢を放つ包丁だ。
刃物を持ってきていなかった村人達は駆け足で周りを探したり、自宅に帰ったりしていった。
瓶を割って作った破片、壊れた木の枠、鍬、錆びた鎌。
おもいおもいの『鋭く尖ったもの』を持ち寄ると、一歩晒し台に近づいた。
晒し台を囲む輪が小さくなっていく。
過呼吸寸前の女の喉がヒュウヒュウと笛を吹く。
合図はなかった。それらは一斉に投げつけられた。
女の体から悪魔が飛び出して襲いかかってくるのを恐れるかのように、夢中で『刃物』は投げつけられる。
布を裂く悲鳴も耳に届かない。彼女にできていく赤い筋もまともに直視していない。
投げる。傷つく。苦しむ。そして消える。
輪に連なった多数の目のほとんどが血走っていた。
痛みという目に見える尺度を積み重ね、彼女の死というゴールへどんどん確実に近づいてく達成感に笑みまで浮かぶ。
白い目をしていたのはカーディガンを羽織った子どもだけだった。
女の悲鳴がとまる。
麻袋が高く手をあげると、ものを投げつける手もとまった。
少し間をあけ、遅れて投げられた破片も全て地に落ちてから、麻袋は女を晒し台から解放した。
全身に細い切り傷を負った女は、それでも息をしていた。
「お疲れ様でした」
麻袋が女を覗き込む。優しい声だった。虚ろな瞳の女のおとがいにふれ、かすかに月をみあげさせる。
肺に思いっきり吸い込める、冷たくて綺麗な空気を求めるように、女の胸と喉が上下した。
「すぐ楽になる」
麻袋のパン切り包丁が女の足首を切った。今度は悲鳴もなかった。
動けない女を、輪のなかから自主的に出てきた別の男達が受け取る。
「重いな」なんて呟いて、二、三人で両腕をもって引きずり、無言で丘の下へと運ぶ。
女を抱えた男達が家畜小屋に着くのをみて、男は残された娘を抱きしめる。
あの怪我で地下から出られるはずがない。
その娘は、あろうことか男の胸を突き飛ばし、男の顎のあたりを指す。
「この男は悪い男です。私を母の、妻の代わりにしました。料理を作れといい、妻の愚痴を聞いてくれと母のいないところで延々と愚痴り、自分の面倒を見させ、甘やかすよう求めました。どうか石以て、この穢らわしい体に投げつけて下さい」
皺が残るほどカーディガンを握りしめ、はっきり吐き捨てる。
男はひどくゆったりと瞬きをして、すぐ、娘を押しのけて走ろうとした。
叶わない。村人の何人かがひとかたまりになって、いまだ破片の残る地面へ男を引き倒す。
ぎゃあ、と低く短い悲鳴。まもなく、麻袋と村人達が手をとりあって男を晒し台へ導いた。
次は女よりずっと簡単だ。
石などどこにでも落ちている。動かない的ならば、投げるのは容易い。握りこぶしより大きな重い石でも、だ。
頭の蓋を割ってしまい、母と違ってその場で心臓の動きを失った父をみて、娘はへなへなと座り込む。
その枝のような四肢を抱え上げて、誰かが言った。
「この子どもは悪い子どもです。母を見捨て、父を嘲りました。子どもがこのように邪悪で在るものでしょうか?」
大人の手で簡単に覆えてしまう、母より一回り以上小さい首を台の前に連れて行く。
「あるべき純真無垢とはほど遠い出来損ないです。その子のために善良な他の家族が犠牲を払って助けてやるのかと思うと、悪夢のようです。どうか縄以て、この恐ろしい体をくくりあげて間引いて下さい」
「ああ、なんということだ」
晒し台にかけようとする村人を、麻袋は静止した。
「幼すぎて穴にはめるには足りませんよ。ちょうどあるこの木に吊しましょう」
陳腐な地獄があった。
善良な子羊の皮を被った家畜たちが我先にと鳴いている。
理論も慈愛も投げ捨て、他者の汚点を見つけて喜びの声をあげる。
――改心のチャンスを与え、偽善に酔い、不幸になるなどできない。
――我々は善きひと。賢きものである。
ピロリーを囲む村人たちは、本当はそうではないとわかっているのに、あえてそう思い込んでわらう。
だって、声が許してくれるから。
思い込んでしまった方が悩むより楽だから。いい人が楽を味わうのは、正しいことだから。
ろくに考えもせず石を投げる快感へ酔いたくて仕方がない、衆愚があった。
まつりが終わり、女子どもから先に家路につく。
残った男達はまだ仕事があった。後片付けである。
破片を土から掘り起こし、晒し台の前に花を供える。
「ああ、誰だよ、ここ泥になってるじゃないか。刃物を取り出すのが大変になるじゃないか。昼間に子どもが遊んで怪我をしたらどうするんだ、全く」
「そういうなよ。さっさと終わらせようぜ」
「おおい、こっちを手伝ってくれ。意外と下ろせないんだ」
「なんだ、結局ひとりじゃできなかったのか。だから手伝うっていったのに」
木から、ぶらんぶらん船をこぐ肉をおろしていた男が増援を求める。
助けに入った一人が見栄をはった彼の背中を叩いて笑う。
掘り起こし担当の男は作業に必死で加わらなかった。
寒さにかじかみ、爪に土の挟まった両手に息をふきかけながら、ふてくされる。
「あーあ。今日は随分派手だったなあ、一家全滅なんて滅多に見れるもんじゃねえ。こんなことなら酒でももってくるべきだったかな」