第十二話「よどんだ夕食」
ベルは顔が火照っているのを誰にも見られたくなかった。
見られたら必ず理由をきかれてしまう。
どうして夜に出歩いていたのか?
知られるのは、いずれ出て行く客人ふたりだけでじゅうぶんだ。
駆け込むように家に入り、玄関をしめる。
(あ、やっちゃった!)
感情のまま力任せに閉じた扉は悲鳴のような大きな音をたてた。
(家を抜け出してたのがばれないように、こっそり閉めてたのに。これでもうばれちゃう)
今夜は厄日だ。
びくびく振り返れば、おじがエプロンで手を拭きながら迎えにきたところだった。
「……おじさん、ただいま」
気まずい。愛想笑いもうまく出来ている自信がない。
案の定、叔父は人のいいハの字眉の笑顔を向けた。
「ダメじゃないか。ベル。こんな時間に出歩いたら」
「パパとママに会いたかったんだもん」
一度疑われたらごまかしても無駄なのは先ほど学習したばかりだった。
機嫌をとって無理にニコニコとする叔父と目を合わせずそっぽを向く。
いつまでも父母の帰る頃を教えてくれない叔父のせいだとなじる。
叔父はますます困り、正論を重ねた。
「こんな夜中に帰っては来ないよ。それより君が危ないことをするほうが悲しむだろう」
「ふーん」
焦る叔父の脇のしたをくぐりぬける。
腰回りの肉づきがよい叔父の動きは鈍い。
食卓には既にカミッロが座らされていた。
ひとつしたの可愛い弟だ。
皮を剥いだ幹に似た色をした髪を指で梳く。
カミッロの灰色の瞳はぼんやりと虚空をうつし、物体としてそこに在った。
「カミッロ。ご飯食べようね」
ああ、だの、うう、だの。たった二言の返事もない。
カミッロの両腕は重力に任せるまま、ちからなくぶらんと垂れさがっている。
ベルはできるだけ優しく弟の手をとった。さめざめと青い静脈が痛々しい。
膝の上で手の甲を重ねさせ、できるだけ楽な姿勢にしてやる。
以前にも増して痩せて貧しくなった弟の体は軽い。
しかし逆らわないのと同時に動かないので、彼のありのままの体重がベルの幼い手にのしかかる。手をあげさせるだけでも大変だった。
「今日のお夕飯はパンとシチューだよ。お野菜がいっぱいはいってておいしそうだねえ」
なるべく話しかけながら、弟の頬に手を寄せる。
乾ききっている肌から、何故かじとりとした熱が伝わってきた。
血流というのがよくないらしく、元々低体温だったカミッロだが、近頃は生ぬるいと冷たいの中間のような奇妙な触感がする。
(どこがどう悪いのかなあ。なんていうお医者さんに見せたらいいんだろう)
冬に入った時期だったか、一度風邪を酷くこじらせて寝込んで以来、カミッロはずっとこの調子だった。
以前村に立ち寄った医者がくれた薬を試しても一向によくならない。
顎の角度をななめにあげ、色のない唇を半開きにして眠たい目を開けているだけ。
ベルはなんとなく「この子はこうしてあげたらいいだろうな」とあれこれやってやっているが、周りの大人達もすっかりお手上げで、どう扱えばいいかわからない様子でいる。
(だからカミッロに酷いことをいうやつらがでるんだわ。こういうことにはおじさんって全然やくにたたない)
先日、カミッロの悪口をいってきた男の子を思いだしてイライラが蘇ってくる。
横目で睨めば、おじは大きなからだを縮こめて顔を伏せた。
ベルはカミッロに聞こえないよう、心の中で舌打ちをした。
おじにこれ以上八つ当たりしても仕方ない。
テーブルのシチューをできるだけ手元によせ、ルーの部分のみをスプーンで掬う。
次に空いた片手の親指をカミッロの半開きの口にもぐりこませ、こじあける。
バランスが難しく最初は何度も失敗した。
だが大事な弟を汚したり火傷をさせたり危険にさらすなんて耐えられない。
わずかに広まった隙間から器用にスプーンでシチューを流し込む。
「ちゃんと食べれたねえ、えらい! イイコイイコ」
食事を与えても、今のカミッロはそのまま放置すると嚥下せずに飲み込まない。
最初は本当に大変だった。
しかし口のなるべく奥に食べ物をいれてやり、顎を押さえてやると飲み込むのを発見した。
ベルはそれがカミッロが生きている証拠だと思っている。
大きめの野菜はスプーンで潰す。万が一、のどにつまってはいけない。
それを長い時間をかけて何度も繰り返す。
必要量の食事を与えるだけですぐにでも寝なければいけない時間だ。
ベルが弟の看病を譲らず、また叔父も耐えられないので、叔父は同じテーブルでひたすら無言で食事をする。
たまに食事が失敗すれば掃除をしてくれる。
叔父はずっと二人の姉弟を潤んだ目で見つめて、そういう時は仕事が早い。
食卓に響くのは食器がこすれる音とベルがカミッロに呼びかけるしゃべり声だけだ。
この時間が二週間続いていた。
カミッロが全てのミルクとパンとシチューを飲み込んだのを確認して、叔父に声をかける。既に日常になり始めた光景が終わる合図だ。
「おじさん、カミッロをベッドに運ぶのを手伝って」
「ああ、いいよ。危ないから離れてね」
叔父はベルに呼びかけられる時、いつもほころぶように笑う。
胸をなで下ろす。
嬉々とした感情を隠しきれず、先ほどまでの貝が閉じたような沈黙が嘘のように軽い動きでやってきて、カミッロの膝の下に手をいれてくれる。
それがまた癪に障る。
とはいっても流石にいくら工夫して、観察して、思いやってもベルではカミッロをベッドまで運べないのでうまく同居していくしかない。
最初は決して嫌いでなかった叔父だが、早く両親に会いたい気持ちが一層強まってしまう。
やりすぎなくらい慎重にカミッロの体をベッドに寝かせ、毛布をかけ直してやる叔父の広い背中に、ベルは何度目かの問いを投げかける。
「おじさん。パパとママ、いつ帰ってくるの」
熊のような背中がビクと震える。
その気になればちゃんと動いていた口は何も言わなかった。
「おじさん」
「……大丈夫。帰ってくるよ。気にしすぎないで。心配しすぎて体調を崩したほうがお父さんもお母さんも悲しむさ。いっぱい楽しいことをして、毎日遊びなさい」
「してるよ、ちゃんと。あたしもカミッロも」
「ならそれでいいじゃないか。そうだ、近所のジナステラさんのところへは行ったかい。赤ちゃんが生まれたんだよ。ほんの数年前までは君達もあんな丸くてほこほことした生き物だったんだ。とても可愛いんだよ。明日は見に行かせてもらったらどうかな」
「いいよ、別に」
強引に話題をそらそうとする叔父に唇をとがらせ、ベルは寝支度を始める。
子ども部屋には二つベッドがあり、カミッロが不自由な今は二つのベッドがぴったりよりそってくっつけられている。
一度はカミッロが嫌がったため、カミッロは一人、ベルは両親と眠っていた。
また姉弟で仲良く同じベッドで眠れるのは嬉しい。それも弟が健康でなければ素直に喜べない。
寝る前にすべきことを手早く済ませ、己のベッドに潜り込む。
目を開けたままのカミッロの瞼を手のひらで閉じてやる。
数十秒、船をこいでゆったり待っていると、弱々しい規則的な寝息が耳朶を打った。
軽く腹のあたりをぽんぽんと撫でてやる。
ベルの夜が終わっていく。
我慢しきれず、あっという間に眠りに落ちていく意識の片隅で、玄関が開く音が聞こえた気がした。