第十一話「宵闇歩き」
夜九時。文明がのびるのに比例して人の一日は長くなったが、この村の人々は眠りの準備を始める頃合いだった。
ネヴは借家から見つけ出したランプを手慣れた手つきで掃除していた。
やや古びた炭化カルシウム灯だ。
容器の下にある発生室にたまった消石灰を小さな袋に入れ、新たなガーバイトを補充する。
このゴミは生物にとって有害だ。従って触れないように捨てるのが常識である。しかしネヴはその袋がしっかり閉じているのを確認すると、そのまま肩から提げた鞄にしまう。
「大丈夫です、触らないので」
スクリューバブルで水滴の量を調節し、反射板の具合を確かめる。
幸い手入れはされていたようだ。
明かりはつどって、望む方向を照らす。
これがあれば夜道を見通すのには困るまい。
「今夜はシグマさんがこの家にいてくださるそうです」
ひょいと人差し指で天井をさす。
シグマはわざわざイデ達と別行動をとり、表向きいないものとして活動している。
彼女は基本、隠れて過ごす。
今夜は最低限の防衛とぼろぼろの男を監視するためにここにいる。
不幸中の幸い、男は独身であったので、まだ異変には気づかれていないようだ。その対策も考えてくれるだろう。
「ちなみにイデさん、この村の地図はわかりますよね? 私、イデさんが覚えてくれると思って全然覚えていないので、イデさんが覚えてなかったら絶対迷子になるのですが」
「努力する気配ぐらい見せろよ。覚えてるけどよ」
呆れるイデに、ネヴは「へへ、すみません」と笑ってごまかそうとする。
カーバイトランプで手が塞がるネヴの代わりに傘をもつ。
「おもっ……何入ってんだよこれ」
「鉛」
「ああ、うん、はいはい。お似合いだぜ、お嬢様」
さくっと返ってきた物質名は物騒なものだ。
扉を押してやれば軽い足取りで外に出て、当然のようにイデのそばにくっついてくる。まるで散歩にいくかのようだ。
イデは「やれやれ」と肩をすくめ、野花のように笑う少女には重すぎる傘を開く。
雪は降っていないが風は刺すように冷たい。
寒さに強いイデと違って、ネヴはぶるりと身を震わせる。
迷ったが、半歩ほど空いていた距離を肩を引き寄せて無理矢理詰める。
「ぴゃっ!? あの、近いのですが!?」
「傘に入んねえだろ。ここらへんは少ないらしいが煤まみれになられたら困る。落ちねえぞ、ああいう汚れは」
「む、そ、そうですね……」
鼻のあたりを赤くしたネヴはぼそぼそ呟いて、手持ち無沙汰に襟元をひきよせる。
「アルフも私が子どもの頃はよく『水たまりを見つけ次第ダイブするんじゃありません! あと外を走り回るならお願いだから傘か帽子をして、洗濯物が大変だから! せめて週一だけでも!』ってよく言ってましたし、うん、そう、これは必要な距離感だと思います」
「ネヴ?」
「なんでもないです! 行きましょう、いざ家畜小屋へ!」
そういって早足で前へ進み出す。といってもイデの歩幅がだいぶ大きいので、イデがいつも通りのペースで歩いていても距離があくことはなかった。
(疲れだしたら適当に合わせてやるか)
緊迫した状況であるはずだが、不思議とのんびりとした気持ちで歩き続ける。
ヴェルデラッテ村の静かな夜が二人の心もしんとしずめているのかもしれなかった。
冷え切った夜のなかで都会にはない緑の香りが一層濃く香る。水気が強い。明日は雨が降るかもしれない。
まだ深夜には届かない時刻ながら人はいない。まばらに明かりのついた住宅を横目に、街灯のない道は静止した絵画の光景にも見える。
和やかな暗闇のなかにいるとだんだん時間の感覚が薄くなって、「どこかへいく」目的地だけがはっきりとして、なかなか着かないもどかしさが薄れていく。
余裕だとかゆとりだとかいう感情だ。
ここだけ時間が長くひきのばされたかのようだった。
最初はしゃかりきに進んでいたネヴもいつのまにか焦りのない歩き方に変わっていた。
すぐ近くにイデがいることにも慣れた様子だ。
特に会話もなかった。満たされた沈黙だった。
つかず、しかして離れず。切迫した環境のはずが心安らかになってしまう。
しかし急にネヴが「あ」と声をあげ、沈黙が破られた。
「イデさんイデさん!」
「なんだよ」
「ベルちゃん!」
「ほらあそこ!」とネヴが真っ直ぐに前方を示す。
黒いボタンのついたブラウンのワンピースは夜に紛れてみづらかったが、彼女の言うとおり、ベルナデッタがちょこちょこと向かってきていた。
ベルも二人を見つけていた。猫の形をした目をきらきらさせて駆け寄ってくる。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、もう夜だよ、どうしたの?」
「こちらの台詞です。たったひとりで危ないでしょう。ご家族のかたは?」
意気揚々と話しかけたベルは痛いところを突かれ、目が泳ぐ。
一度だけ振り返ったが残念そうに再度ネヴ達の方をむき直す。
子ども特有の直情で身を翻して逃げるには携えたカンテラが重かった。
ベルは両手に分厚いミトンをはめていた。冬の寒さを防ぐためだけでない。
カンテラのとってにはその熱を遮断するカバーのたぐいはなかった。小さなベルがバランスを崩さずに重い金属のカンテラを持つには、両手でしっかり持つしかないからだ。
「おじさまはご一緒でないのですか」
ネヴは少女を逃がさず、膝を折って問いただす。
両親が不在なため保護者代わりをしているというおじの名をあげる。ベルは目を合わせないようにして渋々話した。
「おじさんは家でお夕飯つくってくれてた。今日はお手伝いはイラナイっていわれたから、そのあいだ外にでてようと思って」
「どうしておうちでご飯を待たず外へ?」
「そ、それはぁ。えっとえっと。あっそうだ、お姉さん達もデート?」
「で、でえと!? 特別視しあう男女が逢瀬を交わすというあの……あ、いえ、違います、いえ違わないんですが! ええ、私とイデさんは夫婦ですので」
「ネヴ……」
露骨に話題をそらされたというのに、見事に言葉の端にとらわれるネヴにイデは眉間をもむ。
ネヴの肩をつかんで一歩下がらせた。
ベルが怪訝そうに眉をひそめたので、軽く髪をかきながら、家を出る前に即興で考えてきたカバーストーリーを教える。
「夜間はどんな風景になるのか調べてんだよ」
「しらべる?」
「列車。ルートによっちゃあ長距離移動車向けの夜行列車も通るかもしれねえし。大がかりな駅はつくらないにしても、物資によっては貨物列車は、っつーことも」
実際にかかる費用を考えれば怪しい話だ。
だが今はこの場しのぎができればそれでいい。具体的に聞こえる案をそれらしく説明すれば割とらしく聞こえるものだ。
「それよか、こいつも聞いてるがベルこそなんで外あるいてんだ。ガキはおうちで布団にくるまってる時間だぜ」
「そんなことないもん、まだ起きれるよ!」
「もう大人なら嘘はよくないってわかりますよね。最後にもう一度きいてもいいですか? なんのために夜に外へでたのですか?」
ベルは苦虫をかみつぶしたような顔になる。
ネヴが微笑みを浮かべながらも、辛抱強くベルと視線を合わせ続けた。
そこまでしてようやくベルは根負けした。
「パパとママのお迎え」
「お迎え? こんな時間に帰ってくるのですか」
「わかんない。っていうか、いつ帰ってくるのかもきいてない。おじさんが二人はデートしにいってるんだっていってた。でもなかなか帰ってこなくて。ちょっとさびし……暇なんだよね。たまたま帰ってきたパパとママに偶然会えたりしないかなって思って、家を出てきちゃった」
「帰ってこないんですか?」
「うん」
「いつ頃から?」
「だいたい二週間ぐらい前かなあ? たぶん。そんくらい」
心配するわりには曖昧だ。
子どもはそんなものか。朝と夜が一日の切り替わりではなく、遊び学ぶ時間か家に帰る時間の繰り返しでしかなく、月日を振り返らない。
信頼する親戚にいわれて今までは安心していたのだろう。
それがあまりにも長いものだから、突然帰ってくるのではと探し回るまでになった。
こっそりネヴとアイコンタクトをとる。
二週間前に消えたベルの両親。彼らは家畜小屋にいる可能性がある。
そしてベル達の叔父――明確な警戒対象が増えた。
「そういうことだったんですね。もしかしておじさまと一緒にいたくないのかと思ってしまって」
「そんなことないよ! おじさんはなんでもお願いを聞いてくれるし、優しいよ」
「そうですよね。意地悪をいってごめんなさい」
半ば無理矢理、告白をひきだされたベルは頬を膨らます。
「だって……パパとママがいなくて寂しいだなんて、赤ちゃんみたいってバカにされると思ったから」
「あらあら」
「も、もう知らないもん!」
言い訳をするつもりだったのか、もじもじと身をくねらせるベルに、ネヴはかえって笑みを濃くした。
片頬に手を当てて口元を緩めるネヴにとどめを刺され、ベルは耳まで真っ赤に染めて逃げていってしまった。
「……ま、これで帰るなら結果オーライだな。送り届けてまたアレコレ聞かれるのも面倒だし」
「そうですねえ。しかしあんな慌てることもないのに。家族仲むつまじくて大変結構ではないですか」
そう言われてもイデには何も言えない。
イデの家はむしろ家に誰かがいると息が詰まるような家だった。
父親は何もしない割に世の中への不満をため込んでいたし、母親は家族のために家の中でも外でも働き詰めだった。
いつ誰が爆発して殴り合うかわからない。
母親は色々心配してくれたが、日に日にやつれていくのを見るのがつらかった。
十代前半の頃は、家に誰もいないとほっとしたものだ。
親を慕うベルの気持ちはもうとっくの昔に置いてきてしまったものである。
「アンタはそうっぽいよな。親に寂しい思いをさせられたことない感じだし」
「アルフがいましたしねえ。ああ、成程。父さんと母さんはともかくアルフがいなかったら会いに行くかもしれません。納得しました」
「おいおい。まるで親はどうでもいいみたいに」
すっきりした風に頷くネヴの物言いがひっかかる。
言われてから気がついたのか、ネヴは恥ずかしそうに頬をかいた。
「いやあ。私、たぶんイデさんが思っているような人間じゃあないですよぉ」
「……家族仲、悪いのか?」
「そういうわけでもないんですが。ただ私は父と同じ家に暮らしたことがないので思い入れがないっていうか。母には間違いなく愛されてはいましたが、ただ……」
そこまで言って、ネヴは「ふふ」とごまかし笑いで打ち切った。
「さ。行きましょ、イデさん。家族の話はまた今度にでも」
鮮やかに身を翻した彼女の背は、今日の夜風のように軽やかで、冷たかった。