第十話「メイド・イン・シークレット」
イデは布団のなかで、うぞうぞと自らの鼻をこすった。
妙にむずがゆい。
指先にヌルッとした粘液がつたう。
その生暖かさに、イデは低血圧な溜息を吐いた。
「……ああー……うん」
ネヴと出会ってからやたら刺激的な目覚めが増えたが、今日は格別だ。
中途半端に温かい鉄くささ――猛烈に不吉な予感がする。
いやいや瞼をあげれば、視界いっぱいに知らない男の顔が飛び込んできた。
男をベッドに連れ込む趣味はない。
足蹴で男をベッドから蹴り落とせば、男はくぐもった悲鳴をあげて床に転がった。酷い声だ。喉を潰されたらしい。効率的だ。
「はー……あいつか。置いていくなら起こせよな、ったく」
一日の始まりとしては最悪だ。
男は転がったままイデをみあげてくる。
哀れを誘う姿だ。かといって助ける理由がない。
ネヴがやったからにはそうする理由があるのだし、外に叩きだしていないのなら村人には隠したほうがいいのだろう。
自力で立てよ、と思ったが改めてよくみれば手足も大概な状態だった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった悲壮な顔だ。目だけでも必死に訴えているのが伝わってくる。
しかし無視して立つ。
「なんだよ、綺麗な顔してんじゃねえか。手足と喉が潰れてるだけでたいした出血もねえし。そこでおとなしくしてろ。そうしたら悪くはならねえよ」
男は抗議のつもりか腕を振った。弱々しい。風に吹かれる細い芦のようだ。
その手首が180度まがっているのを見て、イデは今度こそ考えるのをやめた。
低血圧なイデには珍しく、ぱっちり覚めた目でリビングへ入る。
テーブルには既にネヴが椅子に座って待っていた。
彼女は深く腰をかけ、リラックスした様子だった。
ミルクの甘い匂いと香ばしい香りが混ざり合った珈琲を美味しそうに飲んでいたネヴはイデに気づくとほわりと微笑む。
「おはようございます。ちょっとてお客さんを置かせて頂いたのですけれど、よく眠れましたか?」
「おかげさまで」
「うっ……だ、だって置き場に困ったんですもの……でもなめられたら終わりだと思ってぇ」
嫌みったらしいイデにスススと遠慮がちにココアのカップを差し出す。
態度で言いたいことは伝わったらしかった。
「いやね、私もちょーっとやりすぎかも? とは思ったんです。けれど完全に舐めてきてたから。ちゃんとちからの差を教えておかないと何してくるかわからないじゃないですか。すごいストレスですよ。中途半端だと怒った子どもだーってやっぱり下にみて調子に乗る危険があるし。怖いでしょ。まあ一縷の可能性にかけるかあってファーストインパクトした後はなるべく笑顔で話して、穏やかでお互い損のない話し合いをしようと思っていたのに抵抗するから、『あ、これ、したでにでてもだめなんじゃない?』って思ってー」
「ネヴ」
「ご、ごめんなさい……あとであの人にも改めて謝ります……」
ネヴは言い訳が無駄だと悟るとさっさと余計な発言をつつしみ、単刀直入に口を開く。
「本題ですが。結構さっさと喋ってくれましたよ」
喉を潰された男への『質問』のことだ。
「だろうよ」
我慢強い性格には見えなかった。誇り高い人物にも。
せいぜいプライドぐらいなら高かったかもしれないが、鼻っ柱は粉みじんに折られていた。
「この村を襲っている『浮かれ』の正体はわかったのか?」
「正体はまだ。なにせただの村人で、まあ、あんなふうになってもどちらかというと被害者ですから。どうして自分が軽率な状態になっているのかさえ明確に認識できてないです。イデさん同様です」
「完全に自覚なし?」
「心の底ではわかっているかもしれませんが、正体はわかってないですねえ。せめてもとの人柄がわかっていれば影響力の程度がはかれたのに」
ネヴ達はこの村の奇妙な『浮かれ』の原因を妖怪あるいは伝承から生じた現象的存在だと仮定していた。
ファーゴルタという妖精がいる。
飢饉が起きると国中を歩き回り、物乞いをして食べ物を恵んでくれた人間に幸運をもたらすという。
たまさか飢饉のなかであった幸運を、天から賜った報いととったのか。
しかしネヴ達の組織の場合、これを『実際にそういう現象を起こす能力をもった生物が出現していた』――と鑑みる。
こういった現象的生物が出現した際にまず探ろうとするのは、以下の三点である。
伝搬速度。
親和率。
浸食深度。
説明されても具体的にどう認識すればいいのかつかみかねていたイデに、ネヴは「津波を警戒するイメージです」と助言した。
無意識の海からやってきて自我を呑もうとする大波だ。
速度が速ければ逃げられない。
しかし浸食深度――波のしたたかさ・大きさが低ければ濡れるのはひとときで済む。
親和率は『波が来たときにいた場所』だ。
がっつり波を受ける場所にいたり、潮水に弱い体質だったり。
これらに加えて都市伝説に特徴的なのは、特定の条件を満たすと強い強制力を発揮することだ。
ファーゴルタでいえば『飢饉中に食べ物を恵む』という狭い条件を達成した人物である。
ネヴはヴェルデラッテ村に巣くう何かが、どの程度の大波なのかを知りたがっていた。
もしもイデのベッドに放置された若い男が、もともと遊び人で高慢な男だったなら影響力はそう強くない。
《波》のもともそれなりにマイナーで小さな怪異だと検討がつく。
しかしそれを知るには、正面から波を受けている村人達を知らなさすぎる。
この方法で確かめる手段はあんまりといえばあんまりだ。
影響をまだ受けていない村人を見つけて、影響が現われるまで観察するか。
イデかネヴ、シグマの誰かが影響を受けるのを待つか。
我の強い獣憑きは《波》に対して強い抵抗力を持っているので、比較的早く結果がでる被検体はイデか村人になる。非効率的だ。
「特定条件っぽいのは? そいつを満たしちまえば問答無用なんだろ」
「それっぽいのはあったんですよねえ。話にきく、というか話を書かせた限りでは、声が聞こえるんだそうな」
「声?」
手がかりらしい証言があったというのに、ネヴの顔色はかんばしくない。
彼女は無意味にスプーンでマグカップの中身をかき混ぜる。
「そう、声。聞いた人間の内心の欲望をひどくあおるような内容の。とても淡々として朗らかな印象を受ける口調で、自分には何ができるのか、どうしてそれが許されるのか教えてくれるとかなんとか」
「あ? どっちなんだよ。元からあった欲望をあおるのか、声が提案してやらせてんのか」
「そこがイヤなところです。あの若い男性の様子をみた私の見立てでは、恐らく本人の欲望を、さも本人でなく他人が提案したかのように感じさせてるんじゃないかなあ、と」
「……ああ、成程。確かにそりゃあ質悪ぃな」
ネヴの見立てをきけば、声のやっていることはあおっているとしかいいようがなかった。
とことん自制心を甘やかし、ブレーキを緩める。
「あなたが悪いんじゃないよ」と言い訳まで用意して、結論までトントン拍子に誘導し、「そんなことをやろうだなんて悪いことだ」と冷静に己を戒める時間をもたせない。
そして決して直接的手段に手を貸さない。
企みも準備も実行も全て本人にやらせる。
どこまでも無責任だ。
誰かに許されたからといって欲望に負ける芯のなさへの嘲りすら感じた。
「声の性質じたいもかなり好みじゃないんですが、もう本当、なにからなにまであと一歩のところでハッキリしないんですよねえ」
何がそこまで気に入らないのか、この世界に入って日の浅いイデにはさっぱりだ。目で続きを促す。
「条件の話に戻りますが。吸血鬼の『許可を得なければ室内に入れない』とか古今東西の怪談で『返事をすると命を取られる』とかいうのは実にオーソドックスです。
前者は有名どころなうえに自分でOKだしちゃってるわけだし。後者は都市伝説で多いパターンで。
都市伝説ってわかりやすく危険なのと同時に、大抵解決方法もセットなんです。おまじないを覚えておけば無事で済むーとか。だから簡単な条件で異能の強力さがはねあがる」
「おう」
「でもこの声は言質をとっていない。強制もしてない。今のところ対策法の類いもなし。本当に突然声が聞こえて誘惑してくるだけっていう」
「ならたいしたことねえんじゃねえの」
「だとすると影響範囲が広すぎます。私の目が曇っていなければ、昨日いったように、既に声は村全体に広がっているんです。しッかッもッ、秋から冬にかけてという短期間でッ! アーッ!」
混乱の極みに達したネヴは、遂に頭をかかえて鴉の鳴き声めいた奇声をあげた。
「あの男性だけならともかく、欲求に素直でも未熟で複雑化していないはずの子ども、それなりの知力と責任感があるはずのコンコーネさんまで……」
「なら強い怪異?」
「うーんうーん。異能の強力さと伝搬力が見合ってないんですよねえ」
ネヴはいつもの白手袋をはめた手を開き、指折り数える。
「都市伝説なら恐怖を集めて強くなるのに全然恐れられてないでしょ、聖人を誘惑する悪魔なタイプにしては無差別過ぎるでしょ。じゃあただ広がるだけの浅い波なのかっていうのなら、どうして誰も振り切れてないの? ってところに戻っちゃう。
普通はピンポイントゆえに強力か、伝搬力が高い代わりに無効化されやすいのに。
何もかもが中途半端なんですよねえ! この怪異の特性つかみきれないぃ!」
しまいには机に突っ伏して呻き始めた。
「もやもやする! もやもやするーッ! 首魁が目の前にドンと転がり出てくれやしないですかねぇ! アルフッヘルプミィッ!」
「あー。まあよ、俺たちゃ声に従わないよう気をつけりゃいいんだ、ってあらかじめ認識できただけよかったじゃねえか」
「そうですかねえ……そうですよねえ」
イデが(むずがゆい心地になりながら)前向きな意見を言う。
ネヴはしぶしぶといったふうにおもてをあげたが、いつもなら黒い目をくりくりさせている愛らしい相貌はむすっと「へ」の字を描いていた。
アテが外れもあたりもせず、納得、同時に不満が一気にわきでていた。
(あんだけボコされたのにこんな顔をされるとは、あの男もツイてねえ奴だな)
同情心はかけらもわかないが哀れだとは思った。
二杯目の珈琲に手をつけるネヴを片目に問い直す。
「マジでそれ以外にはなんの情報もなしか?」
「そうで――ん、いや。いってましたが。どうしようかなあって」
「まずは言えよ。あんたにとっては大事じゃなくても俺から見ればオオゴトってこともあんだからよ」
起きてから三十分。目はますますきっちり冴えてきた。
曇天ごしの陽光も心なしか晴れやかだ。
血まみれ同衾の印象が強すぎたが、まだ一日は始まったばかりなのである。またしても暇を持て余すのは精神衛生上よろしくない。
手がかりはなんでも追ってみるべきだ。
「イデさんがそこまでいうなら……」
ネヴは渋々くちを開く。
「村に古い家畜小屋があるのですが、そこに人を閉じ込めているんだそうです」
「……なんだって?」
「外からやってきた人間でこそこそかぎまわっていたから捕まえたのだそうな」
「オオゴトじゃねえか!」
つい声を荒げてしまう。
助けねばならないという正義感からではない。
先にイデ達と同じようなことをして失敗した人間がいて、村人がそれを認識しているという事実におののいた。
「俺達も警戒されていたっておかしくねえぞ」
「されているかもしれませんね。しかし一応来訪理由を偽装したのが予想以上によい方に転んだようです。
その子はコンコーネさんのメイドとしてきて、怪しい動きをしたとか。あの若い男性は物盗りで疑ってました。スカラリーメイドといった下級メイドによる盗難はあとを立たないもの。その点だけは浮かれに助けられましたね。みんな楽観的になっている」
「子どものメイド?」
その点がなければ、イデも偶然時期が重なっただけの不運な被害者だと思ってかもしれない。
ネヴは実に悩ましそうに、メイドの名を唇に乗せる。
「名前はビクトリア。小柄ながら実によく働く金髪の少女だそうです」
「もしかしなくてもあのビクトリア?」
「話を聞く限り、十中八九そのビクトリア」
顔を合わせたのはあわせて一時間もない。それでもいまや間髪いれずに思い出せる。
イデの家に手紙を届け、ダヴィデの家に勤めていた少女だ。
「なんでそいつがここにいるってことは、ライオネルが関係あるのか?」
「うーん。しかし薬はもう彼女たちの手元にあるっぽいんですよね。先生もてっきりあの人達のところにいるものだと思い込んでいたのですが。こっちに戻ってこないし。うーん」
みたび渋面をつくるネヴの眉間を、そうじゃないだろとつつく。
「あのな。だからなんでそういうことをいわねえんだよ」
「今いったところでどうしようって思ったんです」
「いくら何かと狙われているからってなあ」
「ち、違います! そーいうのじゃありません!」
個人的な恨みで見捨てる気なのだとなじられ、遺憾の意を示す。
「だって、ホントなら知ってもいないはずの捕虜? を助けだすなんて一発で一気に怪しまれちゃうじゃないですか。助けたところであの子、私達には何にも話してくれないと思いますし」
確かにビクトリアを助けるメリットはこれといって見当たらなかった。
「だから後回しでいいと思ったんです」
助ける気がなかったわけではない、と締めくくるネヴに、今度はイデが首を振った。
「まあ別に助けろって言ってるわけじゃねえんだよ。やっこさんがああだこうだされる気もしねえしよ」
「はい?」
「ネヴ、あんた、『見た限りの村人全員が影響を受けている』っていっただろ」
「えー、はい。大なり小なり一人残らず」
「で、疑わしい人間が閉じ込められている場所があるわけだ」
「…………」
「全員が影響を受けているんじゃなくて、影響を受けなかった人間が表にでてこれてねえってのはねえのか。もしかしてだけどよ」
自分で言いながら「いやまさかそんな荒唐無稽な」と目を泳がせてしまう。
だが本人の自虐に構わず、ネヴはキラキラと目を輝かせ、ぽんっと手のひらを叩いた。
「よし! 行きましょうか家畜小屋! 村人を探しに! こうしちゃおれませんね!」
「いや夜にいけよ? 昼は流石に見つかるだろ。古い家畜小屋に何のようだっていわれたらおしまいだぞ」
「……また夜まで待つんですかあ……」