第六話「隠匿と管理」
影と影のあいだに潜んで、シグマは音もなく村のなかを進む。
永遠の灰色雲が空と太陽のあいだを遮っているとはいえ、昼時である。
それでもシグマには奇妙な自信があった。
気配を探り、身を隠すことにおいて、シグマのそれは野生の獣に匹敵するだろう。
シグマは、ネヴ達がそろそろ到着して動くだろう時刻になると、適当な敷地に侵入した。
古くて高さのある物置小屋を選んで、慣れた手つきでピッキングする。
アルフから丁寧に教わった鍵開けは既に芸術の域だ。小さな器具で数秒いじくりまわすだけで、小気味いい金属音をたてて鍵が外れた。
「……よし」
背中に一メートル以上ある黒いナイロン生地のバッグを背負い直す。
手頃な凹凸をめざとく見つけ、慎重に、かつ素早く足をかけてのぼっていく。
聞えない程度の声量で「よいしょ」と呟いて、シグマは梁の上に辿り着いた。
次に頭から全身に海松色のコートをすっぽりかぶる。
わずかな日光をとりいれるための窓は、目だけがだせる程度の小狭い長方形だった。都合がいい。
体勢を整えたら、最後に願掛けだ。
シグマは胸もとに手をあてるとうなだれた。
銃器の手入れでガサガサな指を、なるべくおごそかに組む。
そして小さな声で、魔術の起動ワードを唱えた。
「神の名をみだりに唱えてはならない――」
にわかに服の下に隠れているロザリオが熱をもってむずがゆくなる。
ロザリオ内部に仕込まれたシリンダーがまわりはじめたせいだ。
ロザリオの大きさは約4センチほどある。分厚い。
はっきりいって見てくれの悪いこれは、管理チームがシグマに合わせてよこした開発チームお墨付の魔術礼装である。
人の可聴領域では聞き取れない賛美歌を発する装置だという。
ANFAは主にコントロール部、管理部、機動部で構成される。
管理チームはその名の通り、管理部の核である。
獣憑きや怪奇に関わる物体を収容・管理、研究するのが仕事だ。
内容は多岐にわたるが、収容施設内の監視、各チームからあげられた報告の総合、緊急時の指示とオペレーションを重要な業務とする。
的確な指示のため、ANFA内で収容した異常存在について最も知り尽くしている。
同じ管理部――収容施設と職員を守る警備チーム、収容や管理に役立つ道具を研究・開発する開発チーム、異常存在・怪奇現象・職員情報などを記録と調査を行う記録チーム――を従え、現地に赴いて異常存在を回収する機動部に対しても上位の権限を持つ。
回収係と警備員の補助もそのひとつだ。
獣憑きとはおのれのうちの獣をつうじて、無意識の海に祈りを届かせたもの。
魔術は、さながら科学が理を解き明かして道理にしあげたように、神秘を共有できる方程式へと落とし込んだものである。
魔術の心得が薄いシグマが、ロザリオの助けを借りて使用したのは隠形の術だ。
穏やかな大地があり、朗らかな風が吹き、やわい雨がふりそそぎ、果実と命をみのらせる。
その果てに人が営んでいることに思いをはせる時、人は奇跡を見るはずだ。
偶然の重なりに偉大なるなにかの存在を見いだし、人ならざるちからをもつものを「神」と呼ぶ。
つまり神の祝福は常に世に満ちている。しかし人はそれに気づかない。
無視できない強大な何かを名で呼んで、明確にしようとする。
しっかりと見ようとすればするほど見えなくなるのだとわかりもせず。
ロザリオの隠形の術は、シグマの存在もまた自然の恵みのように「実感しづらい」ものにする効果を発揮する。
シグマが自ら存在をあらわにしようとしなければ、みなシグマを「当たり前にそこにある景色の一部」として認識する。
「ふー……」
見えない神秘のベールを纏ったのを第六感で感じつつ、シグマは身を縮こまらせた。
シグマの異能、《警戒》は、父親から逃げ、追い詰めることを起源として発現したものだ。
魔術にも相性がある。獣憑きの場合、異能と合致した魔術であれば大抵なんなく扱える。
だからシグマは追跡と隠形の魔術に対して適性が高い。
ネヴは不可視を可視化する魔眼の性質上、大抵の魔術、特に精神に関わるものに適性があるが、適性が高すぎてうっかり深淵を覗きかねないため、安易に術を使えない。
アルフは逆に獣憑きとしての起源が、あらゆる魔術を使うことに適さない。
ネヴのチームで魔術礼装を扱うのはシグマだけだ。
ひとめのある場所ではやむをえないとはいえ、使うたび落ち着かない心地にさせられる。
(他にも幾つか預かってるし、もしかして今回の任務って案外面倒くさいのかな。最初任されるはずだったのが機動部の鎮圧チームだって話、本当だったらどうしよう)
脳裏に妙に忙しそうだった警備チームの軽薄男のへらへらとした面が浮かぶ。同時に姉のビィも思い出され、無意識に舌打ちが漏れた。
「……切り替えなきゃ……」
背負った無骨なバッグから、のっそり大荷物を取り出す。
重さ、三キロから四キログラム。この鉄くさい塊を抱くと、骨を覆う血肉が増えたような蠱惑的な安心感がある。
一メートルちょっと、可愛げさえある榛摺色の銃は、鎖閂式のライフルだ。
連射には難あり。問題ない。遠くから一発目を決めるにはこれでいい。
遠方からの偵察と、特殊な弾丸による援護射撃を主要な役割とするシグマの愛銃だ。
今日の目的は四つある。
魔術の効果が正しく発揮されるか――武器を持ちだしても認識されないか――実験。
地図でなく肉眼と体感による地理、建造物の把握。
交通の流れを管制できる地点の確認。
ネヴ達が活動することになったとき、援護するためにエリア全体を見渡せる場所の確保。
この屋根裏からは村全体を見渡せないが、今日中におおむねの目的を達成できるだろう。
早速スコープから村のどこかにいるネヴとイデを探す。
目標はすぐに見つかった。そのとき、彼らはタイミングがよいことに丘の上にいた。
当たり前ながら、二人がシグマの視線に気づいた様子はない。
綱渡りのような感覚になる限られた視界のなか、彼らは手を繋いだり、からだをこわばらせてギクシャクしたりしていた。
「……何やってんの、あの人達……」
いや本当なにやってんの?
尻尾に火をつけられた野生の小動物の如く、イデの手元から飛び出していくネヴを呆れた目で見送ってしまう。
(アルフさんには黙っていてあげよ。ひとつ貸しってことで)
やはりうまくいっていない様子の後輩にやれやれと溜息をつく。
そのまま、練習ついでに彼らの周囲を見渡してみる。
話にきいていたとおり和やかな村だ。
巨大なエンジンが跋扈する都会と違い、見晴らしがよい。
時代において行かれたように、不自然なほど自然を残す場所。
それは都市に成れないと諦めた土地自身が、あえてそうあろうとしているようですらあった。
何もない土地ではあるが、丘のうえには大きな木ともうひとつ、見慣れないものがある。
鋼鉄と灰の文明を拒絶を表明するかのようなそれは、以前誰かがいった任務の報告書で見かけた覚えがあった。
イデ達は木の後ろまではまわりこまなかったようだ。気づいていないらしい。
大木の後ろに、木造の傷んだ台が不気味なおもちゃめいてたたずんでいる。
「見せしめ台?」
三つ並んだ、大小異なる空の円形は、首と手を捕縛するための手錠だ。
「笑い物にする」という意味の語を関したこれは、百~二百年前なら各地の村や町で、人の集まる広場にしつらえてある代物だったらしい。
軽い罪状のものが自由を奪われ、一日から数日さらしものになる。
民衆に好かれた罪人なら同情から食べ物を分け与えられることもあるが、逆に嫌われ者なら、石は投げられ、蹴られ殴られ、最悪死に至る場合もあったという。
(気分の悪い村……)
自由を奪い、一方的に罰を与える過去の遺物。おぞましいことだ。
シグマは再び舌打ちを重ねた。