第五話「夫婦の解釈」
不自然に魅了されたような精神状態――ネヴの報告を受けても、何ができるわけでもない。
二人は案内されるまま、ヴェルデラッテ村唯一の菓子店へと向かった。
店は時折ひとが一人、二人入ってのんびりと入ってくる程度の小さなものだった。
家の一階が店、一階の奥と二階が住居になっていて、妙な生活感がある。
チョコレート色のドアを押すと、取り付けられた古い鐘鈴が低く甘やかな音色を奏でた。来訪者に応じて、奥からとたとたと床板が鳴る。
間をおかず、明るいミルクティの髪をした少女が飛び出してきた。
ドライフルーツと蜂蜜がたっぷり入ったパンフォルテを皿に盛り付けて、ガタイのいいイデも物怖じしない満面の笑顔で迎える少女はベルナデッタ――ベルと名乗った。
最初は店の奥で、お菓子を摘まみながら村の管理者とのんびりと話をする予定だったのだが、ここでネヴとベルは妙に気があってしまった。
無邪気に笑いあい、村のあそこがいい、ここが落ち着くと語り合う二人に、管理者も、店の代理責任者であるベルの叔父も毒気を抜かれたらしい。
店の先で立ち話をするうちに、やれやれといった笑顔で菓子を詰め込んだバケットを渡された。
それから数刻。
イデとネヴは、ベルのお気に入りの場所だという丘にやってきていた。
ネヴとベルは寒空の下にあって、言葉と唇に花を咲かせている。
イデはといえば二人とやや離れた場所で、頼りない樹木に背を預けた。
そこだけが春が降りてきたような少女達のあいだは、居心地が悪すぎる。
どっかりと腰をおろしているイデに、ネヴが黒髪をかろやかに浮かせながら振り返った。
「イデさーん! 見て見て、虫!」
「捨ててこい馬鹿」
ちょっと見に行きたくてそわっとするのを抑えて突き放す。
今はアルフがいない。そのぶんイデがしっかりしなければならないのだ。
キャラにそぐわないとかこだわっていたら、自動的にネヴのお嬢様の皮が剥がれてしまう。それはもうめりめりと。
そんな気苦労など素知らぬ軽い小走りで、子鹿のように丘を駆け上がってくる。
「きだるいお返事ですが、体調不良ですか?」
「あんたほど無邪気じゃないんだよ、俺は。ベルは?」
「もうちょっと虫を探すらしいです。弟さんに見せてあげるんですって」
ネヴは音もなく隣に腰掛ける。
そして額の上に傘を作るように手のひらをくっつけて、村を見下ろした。
やや高いところにあるこの丘は、村のほとんどを一望できる。
木製の積み木のように散らばった家々、まだ内側に緑を蓄えておもてに出さない緑と畑達、空気まで澄んだ灰色に感じる寒さ。
寂しさや郷愁を孕んだものではあるが、確かに美しい村だった。
排煙が足りない田舎村は、イデ達が生まれる前――蒸気文明が栄える以前の世界が取り残された最後の場所なのかもしれない。
「こんなに自然豊かなら蛇もいますかねー」
「蛇か……どうだかなあ。本土じゃねえ島でなら見ることもあるらしいが」
元々活発なネヴは、都市では滅多に出会えない野生にご執心のようである。
少し下層のほうへ行けば、野ねずみや野良猫などはいくらでも見れるが、イデも蛇はおめにかかった経験はない。
そもそもかつてバラール国には蛇がいなかったという。
かつて外国との交流が多かった端の方の島ならばいるらしいと話に聞いたことがあるが……。
「つか、なんで蛇」
「鶏に似た味でさっぱりした肉って聞いたことあるんですが、心と舌がうずきますよね。一度確かめたいなと」
「あとにしろ阿呆。終わってからなら腹壊すまで食っていいから……今は箱入りのお嬢様でいなきゃいけないんだぞ」
「仕事中でも好奇心と食欲には抗えないんだもん」
「どうせまずいだろ」
「調理法次第では? 家畜だって最初から美味しいわけではないんですよ。きちんと血抜きして調理するから美味しいのです」
戯れ言をなお諦めないネヴの額を軽く指ではじいて、終わりの合図を送る。
丘の下方に、村の管理者がやってくる姿が見えたからだ。
菓子屋でベルの叔父と何かを話し合っていたのが終わったらしい。
キザに帽子を押さえてやってくる姿に既視感を覚える。
(いや、アルフならもっとこう、ナチュラルに違和感なく伊達男に振る舞うな)
社交的なアルフならばうまく奴とも話せるのに。憂鬱に思っていると、突然ネヴが顔を強ばらせた。
「イデさん、大変です……!」
「なんだよ。今更化けの皮かぶり損ねてるのに気づいたのなら遅ぇぞ」
「ではなく。そういえば、『夫婦らしく』ってどうすればいいんですかね!」
予想していた方向性とあまりに違う「今更」に絶句する。
「……村に来るまでめちゃくちゃのんびりしてたのはなんだったんだよ?」
「二人一緒にいればそう見えるかと思ってたんです。アルフと一緒の時はあんまり怪しまれたことなかったし」
それはネヴが、誰かがつきっきりで面倒を見るのが当然に見える人間だったからでは?
あわあわとあらぬ方向に向けて目を回しているネヴに、何かしら助言をしようとしたが、そこでイデもはたと気づいた。
「あー……俺もそういうのわかんねえ」
世間一般から見た普通の夫婦の具体例が、うまく浮かばない。
学校でも周りのいう両親像と自分の両親像がかみ合わないことが多々あった。
同じような出身の人間ならイデの知っている親への印象が似通っていたが、それはそれでまともとは思わなかった。
恋愛がロマンティックで甘く尊いものだと思っている人間がいるということは、そんな愛で結ばれた幸せな家庭があるということだ。
酒瓶が散らかり、怒鳴りあう夫婦が幸せとは呼ばない。
夫婦。世間体だとか流れで婚姻するのではなく、自主的に相手と結ばれるのならば。
互いに選んで、赤の他人と特別な縁を結ぶのだから、親密な仲……なのだろう。
ならば夫婦の親密さとはなんだ。
肉体関係は適切ではないだろう。
寂しさや退屈、娯楽で肌を重ねる商売や友人関係は実在する。
密着度が高いだけのスキンシップはその延長戦のようで、しっくりこない。
つまりするべきなのは、体ではなく心の距離感が近いことがはっきり伝わる行動?
わかりやすく確実な快がなくても、一緒にいるだけでプラスになる関係だ、とわかること。
思考を重ねて、イデはひとつの例案をくちにだす。
「……手を繋ぐ、とか?」
「手を繋ぐ……成程。アルフがやるみたいな迷子防止での握手じゃなく、特に何の意味もないのにやるやつですね」
頷いたネヴはおずおずとイデの手に指を絡ませた。
手袋というさまたげがあっても、彼女の手はイデのそれより一回り以上小さい。
わずかなざらつきと肌に吸い付く感触の手袋の向こうに、女性の指の存在を感じる。
固く張ったイデとは比べものにならない、ぷくりと肉づいた柔らかい指だ。
ちらと下をこっそりうかがうと、ネヴは顔を真っ赤にして変顔をしていた。
お嬢様としてアウトなので控えめにいうと、緊張なのか顎がしゃくれていた。ぎゅううとまなこをつぶりつつ、握りつぶされた小鳥みたいなうなり声を絞り出す。
「それ照れてんのか!? まさか!? 勘弁してくれよホント!」
手を握っただけでこれは、今までの経験と違いすぎてどうしたらいいかわからない。
「イデさんの握り方こそなんかぎこちないですぅ……!」
「クソ、この作戦は中止だ、中止!」
管理者がいよいよ顔が見える距離に入る直前で、ぱっと手を離しあう。
途端、ネヴはバネ仕掛けのオモチャのような勢いで隣から飛び出した。
「私ベルちゃんと遊んできますねッ!」
「おいこら!」
コンコーネのすぐとなりを、帽子を浮き上がらせる速度で抜いていった背中は見る見る豆粒ぐらいの大きさになってしまった。
「ああもう、全くあいつは」
あきれかえって非難がましいトーンで吐き捨ててしまう。
すぐに管理者がすぐそばにいるのを思い出して、とりあえず「すんません」と頭を下げる。だが彼は怪しまず、むしろ愉快そうに白い歯を見せて笑った。
「いやあ、無邪気で可愛らしい方ですね。恐れ多いのを承知で申しますと、気分を害したらどうしようかと思っていたのですが。ああして遊んでいると彼女もうちの子のようで、安心しました」
「ものは……あー、そっスね」
ものはいいようと言いかけて、必死にごまかす。おべっかなどほとんど使ったことがないのだ。
「仲がいいんですな、羨ましい。私も飾ることなく心を預けられる伴侶に出会いたいものです」
「子どもっぽ……いつでも自分に素直でいれる、(物理的に)強い奴です。敵わねぇっスわ」
「それはそれは。聞いているだけであてられてしまいそうです。今回は視察とのことですが、是非夫婦水入らずの旅行のつもりでお過ごし下さい」
「あっはい……悪いんですが、二人でゆっくり休みたいんで、会いに来るなら夜以外でよろしくっス……」
ウソは言っていない。
アルフも演技できる自信がなければ、本当のことだけ言えと言っていた。相手が勝手に勘違いしてくれるような言い回しを選べばいいのだと。
懸命に愛想笑いをしようとしている口角が、普段使わない筋肉を使っているせいで痛い。
前途多難な予感に、早く宿泊予定の家に入りたい気持ちでいっぱいだ。
せめて夜ぐらいは、演技に気力を使い込まずに作戦会議したい。
普段どれだけアルフがこのチームを助けてきたのか痛感してしまう。
コンコーネから鍵を受け取る指が震えていないかが気になった。
(こんな時、今頃シグマはどこで何やってんだ)