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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第三章 羊喰らいの丘
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第三話「姉の笑顔」

『あらら。まーた難しい顔して寝てるわ、この子。まったくしょうがないなー、悪戯しちゃうぞ? ペンどこにおいたっけ。広いおでこにカワイイラクガキ書いちゃおうね、うっくく』


 うきうきと弾む声。額にかかった前髪を指先ですくう感触。

 懐かしい時間に、まどろんでいたシグマの意識が一気に冷めた。


「お姉ちゃん?」


 震える唇で呼びかける。

 氷の手で捕まれたように心臓が控えめに波打つ。

 恐る恐るまぶたを開けて、まだかすんだ視界をこすれば、なんてことはない。何も変わっていない現在があった。

 わずかに明るくなった気持ちがあっという間に沈む。


――ああ、そんなはずはない。そんなはずはなかった。


「ばかみたい……」


 椅子に座ったまま、クリスティナことシグマは顔を覆う。


 彼女がいるのは、ANFA関係者専用の医療施設だ。

 その一室に、クリスティナはこの半年ほどあしげく通っている。

 病室にかけられたネームプレートは『ベエタ』。勿論かりそめの名だ。

 つまるところクリスティナ(シグマ)の姉、ベアトリクスの部屋であった。


 この部屋で祈るように姉のそばにいるうち、眠りこけて、過去を夢見る。

 そして姉の幻聴に起こされる。

 前髪に触れたのは、開けっぱなしの窓から入り込んだそよ風だ。

 せめて最初から期待も何もできなければいいのに、毎回美しいシャボン玉がパリンと割れてしまったような感覚を味わってしまうのだから非道(ひど)い。


 以前より暗く陰った瞳で、シグマはベッドに横たわったベアトリクス(ベエタ)の顔を覗き込む。


 栗色の髪は枕に乗ったまま放られている。そろそろ櫛で梳いてあげなければいけない。

 放っておいても医療職員がやってくれるはずだ。

 しかしできるだけ、妹であるシグマの手でベエタの面倒をみてあげたかった。

 シグマは櫛を取り出して、少しだけゆるいウェーブのある髪を持ち上げる。


 ベアトリクスは動かず、穏やかに眠っている。

 頬を聖母のように緩ませて、虚ろな眼(・・・・)を天井に(・・・・)向けたまま(・・・・・)


 半年前からずっとこの様子で、一向に回復しない。

 柔らかい髪を梳きつつ、シグマはギリリと歯を食いしばった。

 ベエタがこうなった原因であるドラード博士の人畜無害そうな顔を思い出し、吐き捨てる。


「あいつさえいなければ」





 半年前、ドラードは臨床実験の許可がおりずに焦っていた。

 獣憑きは烈しさのために己を削り続ける。

 あがき戦うものとは、得てしてそういうものだ。その強い感情が「無意識の海」に繋がる。

 そういう道だという覚悟はあっても、つらい。

 成したいことを行い続ける自信と信念は摩耗し、迷いは歩む足をすくませる。


 博士がつくろうとしていたのは、一種のブースターだ。

 単純に訳すと後押し。補助推進装置。

 余計な迷いを振り払って精神を安定させ、生きやすくするのが目的らしい。

 

 ドラード博士の主張を聞いたとき、シグマはといえば「聞こえはいいが麻薬だろう」としか思わなかった。

 獣憑きは、苦しくても自分らしい生き方を選ばないぐらいなら死を選ぶ。

 元々、心を病んで薬物に手を出す獣憑きは珍しくない。医者の保証が入るか否かの違いだ。

 

 だが、ベエタは違ったのだろう。

 それで悩み苦しむ同胞の助けになるなら、と思ってしまったのか。

 ベエタは博士の協力者に名乗り出た。


 実験の時、ベエタは妹であるシグマに付き添いを頼んできた。

 だからその時間もまた、よく覚えている。

 未完成のBalam(くすり)を注射して数分、ベエタの瞳が何かを覗き込んだかのように見開かれ。怯えるように激しく暴れ出して。

 落ち着いた頃にはもう彼女は「ここ」にいなかった。


 曰く、獣憑きとしての状態が悪化したせいだという。

 薬物で《無意識の海》への鍵となる強い感情……繋がり(バイパス)が遠く深く広がりすぎたのだ。

 精神が完全にあちら(・・・)に呑まれ、肉体への戻り道もわからなくなってしまったようだ、と。気まずそうに解説された。


 今のベエタは無邪気に幸せそうな微笑みを浮かべるだけの抜け殻だ。

 意識そのものは、今もあちら側に存在している。

 夢見心地というか、そのせいで肉体も中途半端に覚醒したままなのだろう。

 目の下にはくっきりクマが浮かんで、不吉な相が浮かんでいる。

 

 いつか戻ってくると希望的観測を抱いているのはシグマぐらいだ。

 そこまで状態が進行してしまって戻ってきた獣憑きは極めて珍しい。

 シグマの顔見知りのなかでは、肉体ごと呑まれたというのに奇跡的に帰還したネヴぐらいだ。参考にならない。





 他の患者がいない個室で静寂に包まれながら、ドラード博士への恨みつらみを積み重ねていた時だ。

 いきなり無遠慮に戸が開かれた。

 病室の入口を見やれば、犬を思わせる快活な眼をした男がひょっこり顔を出す。

 人なつこい顔立ちをした男はシグマを見つけると、ひょいひょいと手を振る。


「シグマちゃん、まだここにいたんだ。アルフさんが仕事とってネヴちゃんのとこ行ったよ。シグマちゃんも行くんでしょ、ミーティングしなくていいの?」

「……ヴァンニ……何の用? わざわざそれ言いに来たの?」


 名を呼んでつっけんどんな応対をしても、(ヴァンニ)は気にせず軽い足取りで寄り添ってくる。

 シグマたち姉妹よりやや遅れて入った後輩のくせに、なれなれしい。マイペースな奴なのだ。


「や、ついでだよ。顔が見たいなって思ったから」

「お望みの顔は見れた?」

「うん。ひっどい顔。来てよかった」


 「なんだとコイツ」と軽く小突いてやろうとすると、ヴァンニの方が先にシグマの頬を摘まんだ。

 怪訝に睨むと予想外に真面目な面で、まっすぐ直視してきた。


「お姉さんのことで気ぃもんでるみたいだね。なのにこういうの気が引けるんだけど、そんな顔してる場合じゃないかもよ」

「……何?」

「もう半年だ。このまま起きなかったら、職員の権利を失って収容対象になる。原因も獣との交信深度の悪化だし。神降ろしの危険性を考えたら、じゅうぶん猶予もらってるほうだ」

「わかってッ……るよ」


 怒鳴りそうになるのをすんでのところでこらえる。

 直後、父親を思い出して自己嫌悪に襲われた。

 成長して、すぐ頭に血にのぼりやすい気質は父譲りだと自覚できてしまっている。

 ああはなるまいと気をつけるうち、モゴモゴとした話し方に変わっていたけれど。気を抜くと生まれついての気性の荒さがおもてにでる。


 所在なさげに拳を握りしめるシグマを意味ありげな横目で見つつ、ヴァンニもそれ以上追求しない。


「わかってるならいいや」

「君の……仕事はどうなの。もう行ったら?」

「ああうん、いくいく。俺も暇じゃないし。ダヴィデっていう奴をうちの管理サイトに運ぶんだ」


 パンッと膝をはたいて立ちあがる。

 上着を肩にかけた彼は、来た時と同じく颯爽とした帰り際、一度だけ振り返った。


「ねえ。俺が代わりにいってあげようか? 復讐(・・)ってやつ」

「……人のものを横取りしちゃいけないって、言われたことない? 脳みそつまって思い出せないって言うんなら、風通しよくしてあげるけれど」


 指で拳銃を形作れば、彼は歯を見せて「あはは」とウィンクを残し、今度こそ去る。

 大きく口を開いて、愛嬌のある笑顔だった。


「……楽しそうでいいな」


 素直に羨ましい。

 ヴァンニは、現在は《警備員》として働いている、《軍隊蟻ディグニティ・モジュール》という異能を有する獣憑きだ。

 ヴァンニという名もシグマと違い、コードネームではなく本名である。

 それはいずれやめる可能性を考えて働いていない――ずっとこんな仕事をするつもりであるという意思表示だ。


 他の生き方を知らないうちから獣憑きになって、したい生き方もわからないからエージェントをやっている姉妹とは根本的に違う。

 シグマ達は、黙って腐って死んでいく未来から逃げたかっただけなのだ。


 誰もいなくなった部屋で、唯一の理解者だったベエタのそばに横たわる。狭い。きっと看護師に見つかったら怒られる。

 しかし幼い頃、くたびれたベッドで身を寄せ合った日々が思い出されて、少しだけ勇気がわく。

 姉はもう励ましてはくれないが、まだシグマにはできることがあった。


「……ぜったい仕返し、しようね。お姉ちゃん……」

 

 ベエタの枕元で、ねっとり甘く喉を鳴らす。

 シグマに明るい未来のみかたを教えてくれる人間は誰もいなかった。

 学んだのは、奪われた屈辱は粘着質に抗うことで(そそ)げるということだ。


 魂の死をさしむけたものには、こちらも死を返す。

 姉の笑顔をけがしたものもドラードもまた、二度と笑えなくしてやる。

 それがシグマの生き方だった。

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