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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第三章 羊喰らいの丘
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第二話「井戸水の価値」


 夏は冷たく、冬は暖かい。

 井戸水とはふつう、そういうものだ。

 だがクリスティナがくまされた水はいつも冷たかった。指が凍えてとれるのではないかと思うほどだ。


 小さな頃、クリスティナとベアトリクス(ビィ)が住んでいた一軒家の裏には井戸があった。

 でこぼこした長方形の石で組まれた、簡素なつるべ式の井戸だ。


 クリスティナとビィの姉妹は異人の子であり、例に漏れず裕福ではなかったけれど。家族の住んだ小さな町は、先祖の努力あって復興が進んでおり、水道が敷かれていた。


 蛇口をひねれば水がでる。

 かつては人が絶えなかったという井戸は、もうすっかり利用価値のないものとして忘れられつつある。

 クリスティナとビィの父は、その井戸から毎日五回ずつ水をくませた。


 よわい五歳の頼りない体幹で、深く掘られた穴から水がたっぷり入った桶を引き上げる。

 毎日、欠かさず五回。大人でも雨水のはった壺をひっくり返すのに苦労するのだから、姉妹の疲労ぶりは大変なものだった。


 それでも父は必ず姉妹に水をくませた。雨の日も、風の日も。特に寒い日はいつもよりおけが重くて、何度も転んで土まみれになった。


 何のために水をくむのか?

 姉妹にそれを教えてくれる人間はいなかった。理解するきっかけもなかった。

 くんだ水を使わず、そのまま井戸に戻す。そこまでが父の命じた作業だったからだ。


 かたわら、調理と掃除といった家事もあらかた姉妹に任せきり。

 父はといえばほとんど毎日働いた。

 かといって、姉妹は「父は仕事で忙しいから、仕方ないのだ」とは思わなかった。


 たまの休みは一言かけもせず、朝から他の町まで出ていく。父の素性を知らぬ「友人」と遊びにいって夜遅くまで帰らない。

 つまるところ、子どもに感心のない親。そんなところだ。


 母のほうも大差ない。

 桶を抱えきれず転んだ時、偶然近くに母がいると姉妹はそろって母を見上げた。

 助けを求めて。今日こそはと期待して。

 一緒にもつれて泥に埋もれる我が子をだきあげてくれるのでは、と。


――そんなところで何してるの?


 ビィと同じ色の目、クリスティナと同じ色の髪をした母は、決まって、他人と接するような距離を崩さなかった。一歩たりとも縮めなかった。


 ベアトリクスの髪が父とおそろいで、クリスティナの目が父に似ていることを直視したくなかったのかもしれない。


 母は周りに「いきおくれ」ともみくちゃにされ、流されるように父と結ばれた。

 比較的金はある、だが人望はない男と一緒になって。世間体のために夫婦らしく子を成そうとして、何をしたか。


 思い出したくなかったのだろう。

 姉妹が七つになる頃、母は「愛せる人にやっと出会えた」とおきてがみをしていなくなった。


 ビィはただ受け入れたが、クリスティナはそうできなかった。

 母が出て行った夜、クリスティナは父を激しくなじった。


「あんたなんか、ただのくずだ。あんたのおまけのわたしたちは、母さんに、あんたのついでに捨てられた!」


 元々父に対して、愛情といえるものはなかった。

 母を慕う気持ちも日に日に弱まってはいた。

 それがこの件をきっかけに、爆発したのだ。


 クリスティナは、きっと母が、一度も自分たちの手は握ってくれなかったのに、愛した男の手はかたくとったのだろうことを思うと、悔しくて虚しくて仕方がなかった。


 父も母も、ただ大きく成長しただけで、酷く滑稽な存在なのだと侮蔑の念すら抱く。

 ただその晩は、父は姉妹の予想を超えて愚かだった。


 血走った目で我が子をにらみつけ、むくつけき腕を伸ばす。

 生理的に心臓がきゅっとしまる。反抗すれば痛みを喰らう。学習したパターンだった。


 プライドをずたずたにされた父の顔は、酒気も手伝って赤らみ、悪鬼の如く。

 常にも増して膨らんだ怒りの熱が、姉妹にあたる。


(いつもより酷いことをされる)


 覚悟もできないまま目をつぶった時、クリスティナを押しのけて、ベアトリクスが前にでた。


「お父さん、違うの。隠れてあたしがそういってたんだよ。お父さんはお母さんに愛想つかされた。所詮お父さん自身が好きになる人なんていない、その程度の人だって」 


 その日を。

 その日、その光景を――クリスティナは忘れない。

 何度も夢のなかで繰り返す。


 恐怖と混乱で、細かな光景はおぼろげだ。衝撃のみが全身を千々に裂くように残っている。

 夢を見るたび味わうのは、父の足にすがりつき、止められずに、雨のぬかるみのなかを引きずられる苦い味。


 俵担ぎにされ、暴れる姉。

 そして、桶を投げ込むように井戸に落とされた栗色の髪。

 

 ベアトリクスはこうして下肢の自由を失った。



 空がいかように陰る日も、クリスティナは只管に後悔を重ねる。

 ベアトリクスは以前にも増して、顔を輝かせて笑うようになった。

 不器用な妹への励ましは、かえって素直な謝罪と救いを難しくさせた。


 己の行いを振り替えらず、何事もなかったように日常に戻ったのは只一人。

 父だけだ。



 しばらくは姉妹も、今まで通り父に奉仕する日常を果たしていた。

 うまくいかなくなったのは、母がいなくなって二年。九歳の時である。


 父に従っていたのは、逆らっても何もできないと嫌がおうでも学んだからだ。

 それでも一度過剰な理不尽を味わった姉妹にとって、父への不信感は高まる。


 歳を重ね、知恵がつくほど、父が父ではなく、たまさかその位置におさまっただけの他人に見えてくる。

 抑えきれず成長期に突入した反抗心で、従順さは加速してひび割れていった。


 先に言い出したのは、またもクリスティナだった。


「もう我慢できない。逃げたい。無理ならせめて、あいつを酷い目に遭わせたい」


 仕返し――大袈裟にいってしまえば、復讐の雛。

 ベアトリクスにとっては気乗りしない提案のようだった。

 しかしクリスティナの小さな心臓は、「もうだめだ」ときしみをあげている。


「でも、クリスティナ。あたしはこの足よ」

 言いよどむベアトリクスは、座ったまま戸惑ったように妹を見上げる。

 かつての苦い記憶で、でた言葉を喉奥にひっこめそうになる。

 姉をこんな目に遭わせた自分が何を――という気持ちはあった。


 恥をのんで、クリスティナは傷だらけの指で町を指す。

 その先には誰もいない。彼女が示したのは町の住人すべてだ。


「お姉ちゃん、待ってても誰も助けてなんかくれないよ!」


 近所の住民には、姉妹が意味のない労働をさせられているさまをみたはずだ。

 たまに朝早く顔を合われば、みんながみんな気まずそうに顔をそらして行ってしまう。

 恐らく、姉妹のような人間がいるとは思いもせず「この町には幸せな人間しかいない」と思っている人間すらいるはずだ。


「あいつが死ぬまで待つにしても、いつまでよ!? 何十年も生きたらどうするの? 大人になるまで耐えられない!」

「クリスティナ」

「親も、幸せそうな他人も、誰もわたし達を助けなきゃって思ってくれないの、惨めだよ! だったらせめてわたし達ぐらい、わたし達を助けようとしたっていいじゃない!」


 涙ながらの訴えに、優しく愛想笑いを浮かべていたベアトリクスの目が見開かれる。


 お互い直視したくなかった現実を、あえてくちにだしたのだ。

――わたし達の命には価値がない。価値があると見られていない。


 みんな遠回しに見るだけ。どうでもいい命より、我が子や自分自身といった大切にされた大事な命のほうを守るのだ。


 姉妹に声をかけようとする子どもを、鳥かごで囲むように引き寄せる母親の腕を見るたび、胸が締め付けられた。


 姉妹には「あなたが傷ついたら大変だ、よくないことだ」といってくれる人はいない。

 誰も大切にしてくれないのに、どう誇りを持てばいいのだろう。


 復讐に意味はないだとか、悲劇が巡るだけとかは、取り返さなくても十分に幸せが余る奴の台詞なのだ。

 姉妹はからっぽだった。


「仕返ししようよ」


 逃げられる可能性は限りなく低い。

 だからささやかでも仕返しをしよう、と三度ささやく。


 そうしなければ生きていけない。

 刻々と心が腐るのを感じる。そのうち希望の種を与えられても育てられないクズになってしまう。


 忌々しい血肉のみならず心まで父と繋がった生き物になる前に抗いたかった。

 こうと決めたらゆずれない頑固な双子の妹に、諦めてビィはくにゃりとちからなく笑む。


「仕方ないなぁ。あたしも悪戯好きだし、乗ったげる。ちょっとだけよ?」


 「仕返し」の内容を考えたのはビィだった。

 クリスティナとしては父を徹底的に痛めつけたかったが。

 姉妹が味わった苦しみのぶんだけ怒りをぶつける。

 父の行いは不当なものであり、彼さえいなければ、姉妹にはもっと幸せな今があったのかもしれない。


 姉妹が得られるはずだった幸福には、父に罰を与えられる程度の価値があったと証明したかった。


 しかし、その点においては今度はビィががんとして首を縦に振らなかった。


「結局あたしたちが弱いのに変わりなんてないんだから。怖いのは怒られることなんだから、近づかなきゃあいいのよ」


 ビィが提案した内容はささやかなものだ。

 ただただ父から姿を隠す。一切視界に現われない。


「たったそれだけ?」

「そうよ。見つかった時のために、家事はしようね。お父さんが来る前にご飯も用意して、洗濯も掃除もぜんぶやっちゃうの。そうしたらきっとすっごくは怒らないって」


 忙しいことは慣れきっていたから、そんなに苦ではない。

 ビィが仕返しに共感してくれただけでも随分ためこんだストレスが軽くなったから、クリスティナも頷いた。

 

 意外にも父は、最初のうちは隠れる姉妹を探すことはしなかった。

 生活に不便が生じなければそれでよい。姉妹などどうでもよかったのだ。

 

 おかしくなり始めたのは仕返しを始めて二週間ほど経った頃。

 父が怒鳴って家中を探し回るようになった。


「どこだ、ふざけやがって」「いるんだろ!」「返事をしろ、いるんだろ!」


 いるんだろ、とがなりたてて、家捜しのようにあちこちひっくり返す。


――どうしてこんなに怒るの?


 ちゃんと家事はしたのに。

 父が帰る前に食卓はきちんと整えていた。いつだって湯気のたった料理が彼を迎えたはずである。

 少しでも機嫌良くしていてくれるようにと、ビィが気を使ってできたてを用意したのだから。


 洗濯物だって完璧だった。父の目を盗んで、脱いだままちらされた服を回収し、素早く干した。父の足音がすればすぐに逃げたが、生乾きだったこともない。


 全く。唯の一度も。一瞬だって。

 姉妹は父に姿を見せなかった。


 怒声が興奮しすぎて裏返る。どこだ、いるんだろう、誰か(・・)

 異様な様子が恐ろしくて、クリスティナはますます息を殺して身を隠した。


 不思議と一度も見つからなかった。

 仕返しをし始めてから、何故か音をよく拾えるようになったせいか。

 怒りと同じだけ暴力に怯え、必死で父の気配を探るうち、いつのまにかそうなっていた。


 そんな日々が一年ほど続いて。

 気がつけば、父の音が全く聞えなくなった。

 代わりにキィ、キィ、と天井から重いものがぶらさがる音が加わった。

 出所は父の部屋だ。


 湿り気の混じった音は生理的に気持ち悪く、近づこうにも近づけなくて。

 そうこうしているうちに、見知らぬ人達がたずねてきた。

 ビィが何故かほっとしたように相好を崩し、赤毛の男の手を握ったのが妙に印象に残っている。


 クリスティナは音の正体を、今も知らない。


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