プロローグ
もうすぐヴェルデラッテに冬が来る。
そのとき、ベルナデッタは洗濯物を取り込んでいた。
後頭部で結い上げてさらした首筋を、涼水のような風に撫でられ、急に季節の移ろいを感じる。
ああ、もうそんな季節か。
つまらない気持ちで、ベルナデッタは色を失っていく村を見渡した。
ヴェルデラッテはバラール国の中西部にこじんまりと収まった小さな田舎村である。
農民ばかりであるものの、元々バラール国に住んでいた人間であるせいか、住み心地は悪くない。優遇されているのだろう。
自然は多いが水道もある。明かりだってつく。
都市に行くのには思い切りと金が必要だ。しかし一日数本あるバスに乗って数時間も揺られれば、いくらか街がある。たまになら洒落た買い物だって出来るのだ。
そんな村に生まれたベルナデッタは、暮らしに概ね満足していた。
ベルナデッタより少し上の女の子は、街までいかないと流行の派手なオレンジのワンピースだとかミニスカートに白タイツだとかが売っていないし、ウインドウショッピングもできないと嘆くけれど。
ベルナデッタは母の作る茶色いワンピースが好きだ。
土で汚れる手の匂いも落ち着く。
見飽きたと言われるオリーブが実る季節は、毎年出来が楽しみで胸が弾む。
といっても、冬はベルナデッタにも退屈だ。
やることはたんまりある。だが世界の色彩はどうしても少なくなる。
きのこやイノシシ肉といったごちそうをたんまり食べれるような盛大なお祭りも、秋にやったきりになってしまう。
毎日同じ仕事を繰り返すだけで、面白みがない。
「雪でも降らないかなあ」
初雪はまだだ。大人は蒸気機関の灰が混じった雪は汚いから触るなというが、ヴェルデラッテの雪はとてもそうは見えない。甘く溶けそうな白色だ。
ベルナデッタのぼやきを拾い、隣を歩いていた弟が空を仰ぎ見る。
「どうせ降るよ。湿気が多いんだから。それより雪でオリーブの木が折れないのを心配した方がいいだろうね」
弟――カミッロの冷めた言い方に、ベルナデッタは苦笑する。
カミッロはベルナデッタよりひとつ下の十一歳。背伸びしたい年頃、真っ盛りらしい。
だが彼の言うことは間違っていなかった。
このあたりの冬は冷える。ミルクをぶちまけたみたいな濃い霧が村をいっぱいにしてしまうこともある。
降るときはどさっと降るのがバラールの雪だ。
「あー。うん、でもあたし達が心配したところで、それを決めるのはお天道さまでしょ。心配したところでどうしようもないじゃん。楽しいこと考えよ」
「ベルは……いいか、ベルだもんね」
溜息交じりにひどい扱いをされた気がして、かちんときた。
前までお姉ちゃん、次に大人ぶって姉さんと呼んでいたのに、ここ最近は生意気に名前で呼んでくる。お姉様と呼べ、お姉様と。
一発思い知らせてやろうと拳をあげ、隣を見た。
そこまでいっていよいよカミッロの顔を見ると、みるみる怒りが萎む。
血色の悪い肌、遠くを投げやりに見る目力のない瞳。カミッロは生まれつき体が弱かった。
しょっちゅう風邪を引いて、今もベルナデッタと同じぐらいの量の洗濯物を重そうに抱えている。線も細くて見た目は女の子のようだ。
そんな弟を見ていると、怒りは消えて、「この程度の生意気は元気がある証拠、いいことだ」と嬉しくすらなってくる。
ベルナデッタの視線に気づいたカミッロが、うげ、とでも言いたげに眉をひそめる。
「何笑ってんの?」
「え? カミッロは可愛いなあって」
そういうと、決まってカミッロは嫌そうに口を「へ」に曲げる。
そしてふくれっ面でいじける弟に、ベルナデッタのなかに、彼を守ってあげたいというくすぐったい情がわきあがってくるのだ。
カミッロはニマニマ悪戯に微笑む姉から目をそらし、先ほどより大きな溜息をついた。
「ああ。姉さんの弟に生まれなければよかった」
ほとんど生まれた頃からの付き合いだ。
苛立ったカミッロが吐き捨てたのが本音だと、簡単にわかってしまった。
まさか弟に嫌われると思わなかったベルナデッタは、雷に打たれたように立ち尽くす。
洗濯物を入れたかごを放り投げそうな勢いで、カミッロに詰め寄る。
「え、え、なあに? あたしじゃ不満なわけ? そんなに嫌だった? そんなつもりじゃ……」
責めるような口調になるのを頑張って舵取りする。
ちゃんと向かい合おうと前に立とうとすると、カミッロはそれから逃れて顔をそらしたが、根気強く前に回り込み続けた。
やがて姉の問いかけが涙声になって、カミッロも観念したとばかりに喉を鳴らした。
「違うよ。違う。僕が悪かったよ。病弱で弟で、手取り足取り姉に助けてもらうしかない僕が情けなくなったんだ。僕は姉さん……ベルよりよりおつむがいいから、せめて先に生まれて多くを学ぶなり鍛えるなりしておけばよかった。弟なんて損ばっかりだ」
珍しく頬を赤くしてむくれる。
こうした時は年相応だ。
「はあ。本当に……兄でも他人でもいい。いっそ双子とかいいな」
「それなら歳だけは平等ね。けどあたしがお姉ちゃんよ、あんた蹴ってでもさきに生まれたげる」
「ベルはそういうだろうと思ったよ」
目を細めてやれやれと首を振ったカミッロは、そのまま先に家のなかに帰ろうとした。
ベルも入るよううながそうと振り返った薄茶色の目が、あるものを見とがめて止まった。
「あれ、コンコーネさんかな」
「コンコーネ?」
ベルもカミッロを追って、同じものを見る。
丘の上。春になればたくさんの村人が昼寝に使う、暖かな場所。
そこに、薄くタータンチェックが浮かぶベストを着た紳士がいた。
働き盛りの農夫とそう変わらない年頃だろうに、ベスト下のシャツは真っ白で土汚れひとつない。袖をまくっていても完璧な清潔感がただよっている。
ベルにとってはかなり違和感のある男だ。
「誰?」と首を傾げたベルを、カミッロはわざとらしいくらい大袈裟にばかにした。
「この村の偉い人さ。お貴族様。自分の住んでいる村なのに、そんなことも知らないの」
「知らなくたって生きていけるもん。でも、あんなところで何してるんだろ。ただの丘よ。何もないのに」
「何にもないからさ。多分、鉄道を敷く場所を探してるんじゃあないかな。随分前から都市や街には鉄道があるのに、こっちにはないって愚痴っていたって父さんがいっていたよ。
きっと都市に憧れてるんだろうね。タータンチェック、都市の貴族では『高貴な未開人』とかいうイメージで人気があるらしいよ」
「鉄道ねえ。そんなのが通るほどの場所、あるかな。動物も畑もあるのにさ。いいじゃん、野蛮人、自由人で」
若い人間には、よほど都市が明るく、村が暗い場所に見えるらしい。
ベルにはそれが不満だった。
いくら遠くに美しいものをうたわれても、足下の喜びを拾おうとしないから退屈なのだ、都市にいっても変わりはしないだろう、と思ってしまう。
「ベルは鉄道、いらないの」
そこに打ち込んだカミッロの質問は、冷たい鉄の鏃のように冷たかった。
またあの感覚だ。姉弟のあいまにある繋がりを断ち切りかねない鋭さ。心臓が凍る。
「鉄道、いらないわけじゃないの。でもそんなのが村にあったら、他の家で育ててる羊とかが入り込んだ時、大変じゃないかな。あんなに可愛いのに」
「ベルは鉄道より動物が大事?」
「うん。毛皮が気持ちいいもの。お爺ちゃん達は、太陽でぽかぽかした毛布はバツグンに気持ちがいいんだっていってた。あたしにはそっちの方が興味がある」
「そんなの、大人の戯れ言さ。日の光なんてもうない」
ただ「そうあればいいな」と夢見ただけなのに、残酷な事実の斧を降ろされる。
いくら大人ぶりたいからって、そうやって人の楽しみをぶち壊すのはよくない。
注意しようと睨んだベルナデッタは、逆に、カミッロの薄茶色の垂れ目にじっとりとねめつけられた。
「あるのは蒸気。それが事実。世界は常に変わっている。僕達も変わるべきだ。
勝手に都合のいいように周りの方が変わってくれたことなんて、なかったもの。あの人たちにはそれがわかっていない。考えてないんだ。うまくいったものを形だけまねして、同じ幸福が訪れるのを待ってるだけ。ベルはそうなるべきじゃない」
「……あんたは頭がいいわ。あたしにはちょっとわからないぐらい。あんたは鉄道が欲しいの?」
「頭がいいんじゃない、考えてしまうだけだよ。誰だってできることなんだ。鉄道は欲しくないけれど……変化を求めに行ける何かは欲しい」
「そうね。あんたが欲しいなら鉄道も悪かない。たとえばあんたが遠くの立派な学校に通ったら、成績表を持ち帰ってくるのがすごく楽しみになる。それをみせてあたしは周りの子に自慢するの。これがあたしの弟なのよって。そういう未来があるのはいいね」
「やめてよ」
カミッロは髪をかき回そうとするベルナデッタの手から逃げた。
今度は照れ恥ずかしがってではない。
話をそらすな、とカミッロは訴えていた。
「時々思うんだ。家畜と僕たちの違いってなんだろうって」
「あたし達は人間でしょ?」
「人間に生まれただけじゃないか。何も考えずに与えられた仕事をする姿が、時々家畜と同じに見える。根拠もないくせに、自分では自分は立派な生き物だと信じ込んでいるところが余計にね。あの人達は自分の願いを考えて、それを叶えようと努力したことがあるのかな」
病弱で寝床で本ばかり読んでいたせいで、考えることから逃げられなくなってしまったのだろうか。
カミッロは止めたくても止まらない様子で、水が上から下へ落ちるように話し続けた。
一区切りつくと、彼の肺活量では話の熱量に追いつかなかったのか、軽く咳き込む。
息も絶え絶え、最後に、絞り出すように吐き出す。
「僕は……家畜になりたくない」
ベルナデッタには、体を折って、丘か、あるいは遠い場所を射貫くカミッロに、どうしたらいいかわからなかった。
苦しそうだ。呼吸がしやすくなるような答えをあげたいのに、ベルナデッタには答えがない。
おろおろとカミッロをさすっていると、野太い声がかかった。
「どうしたんだ?」
「パーパ!」
ベルナデッタとカミッロと同じ薄茶色の目を持った父が、心配そうに我が子にかけよった。
カミッロはベルナデッタから体を離し、すっかり落ち着いた声音で父を見上げた。
「なんでもない。話してるうちに興奮しちゃったんだ」
カミッロは父に何も言う気はないらしい。
ベルナデッタは迷ったが、(カミッロがそうしたいなら)と口をつぐんだ。
そして父と一緒にやってきた客人を見て、お客様用のとびきりの笑顔を浮かべた。
駆け寄る前にカミッロを一瞥したが、彼はなにごともなかったようにすました顔をしている。この話は今日は終わりらしい。
なら、とベルも遠慮なくスイッチを切り替えた。
「おじさん!」
父とよく似た顔をした、日焼けした男がもう一人。
父の弟、つまりベルナデッタ達のおじであった。
おじは父より控えめに笑う。
いつも通り、おじは若い親戚に向かって両手を広げようとしたが、つらそうに顔をゆがめ、ぐ、と腹に力を入れた。
その表情がカミッロが咳をする予備動作にそっくりで、ぴんとくる。
「おじさん、風邪?」
「いや、喉が少し痛むだけだ。早めに寝付けば治るよ」
「こほこほって。カミッロみたい」
「わるかったね、咳ばっかりで」
顔をしかめるカミッロ、そしてベルナデッタの順に、父の大きな手が二人の頭を撫でた。
カミッロは優しく、ベルナデッタは少し強く掴むように。
気持ちはわかるが落ち着きなさい、ベルは不注意だぞ気をつけなさい、の意味だ。
ばつが悪くなってうつむくベルに、父は仕方がないなと言うように相好を崩した。
家を指して、先にお客人を迎える準備をするよう命じる。
「ベル、確か、この前村に遊びに来たお客さんがカミッロに風邪薬をくれただろう。戸棚においたと思うんだが、水と一緒に用意してくれないか」
「あー、あの瓶の奴? おっけー」
すぐにわかった。
この村に遊びにやってくる人間など少ない。本当に、作物を育て、家畜を育むだけの田舎なのだ。
住処のない浮浪者でも無く、そこそこ金のありそうな中年男性だったから、ほとんど皆変わり者扱いして遠巻きにして近づかなかった。ベルの家族以外。
いかにもお人好しそうな中流階級男性で、医者と名乗ったからだ。当時、カミッロは軽い風邪をひいていた。
カミッロに薬がよく効いたので、いい印象とともに記憶に残っている。
瓶にも、彼の名前が記されたラベルが貼ってあったはずだ。
ものだらけの棚じゅうを探しまわりながら、目印となる名を思い出そうと顎に指をあてた。
確か、彼の名は――そうだ。
「ライオネル・ドラード、っと」