第十五話「死者の現は海色の」
ネヴィー・ゾルズィは、人間が好きだ。その中にしまわれた真っ赤なモノが好きだ。
それは薄い肌の下で脈動する熱い臓腑の赤ではない。
ネヴの言う「ヒトのアカ」は、彼女自身にしか見えないモノだ。
神隠しに遭い、帰ってきた少女だけに見えるモノだ。
(ああ、足りない)
だから彼女は嘆かざるを得ない。
ダヴィデ・メチェナーデにはソレがないのだ。
認めよう。ダヴィデ・メチェナーデは怪物だ。
そうあれかしと愛を以って人に似せられ、ゆえに決して人の愛を成すことはない。
ネヴが見て来た中で最も醜怪な死だ。
(生きてはいるが、死んでもいる。どう分解すればいいのか、わからない)
しかし、斬らねばならぬ。
ネヴに選択肢はないのだ。
目の前にある獣を断つ。
魔眼が相手の真を見通せば斬り、腕が足らねばネヴが死ぬ。
できないかもしれないからと逃げられないのだ。
傷を負うのはネヴでなく、イデ達なのだから。
だからこそ危険を承知で、武器をおろす。
(これを構成するモノを視なくては。その為には、もっと彼を構成するモノに近づいて、根本から感じ取らなくちゃ。
ダヴィデの内面、ダヴィデめいた人形をかたちづくるモノ。もっともっと、彼の根源に近づく必要がある!)
深く息を吸い、瞼を閉じる。
暗闇に包まれる世界は、疑似的な無意識の海だ。
心に巣食おうとする焦燥を弾きだし、沈む。
自身を海の底へ沈めていく。
死者への恐怖――今それに囚われれば死ぬ。殺ぐ。
イデは無事であろうか――注意が散漫すれば感性の純度が鈍麻する。削ぐ。
私が集中している間にすべて終わるのでは?――悪戯に武器を構えるだけでも終わる。今は集中しろ!
沈む。
沈む。
沈む。
螺旋を描くように脳を回して、余計な感覚をそぎ落とす。
時の流れがゆるやかになるまで集中は続く。第三の目でとらえる感覚だけに埋没する。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
現実世界のあらゆる存在が、壁を隔てた部屋に移動したように遠くなっていく。
代わりに、抽象的な感性の世界へと落ちていく。
(現世からほんの少し、足を踏み外して。私の、底へ。私に宿る世界の底へ。純粋な原風景に飛び込むんだ。余計な解釈は無意味な装飾品。剥きだしの柘榴を頬張ろう)
ネヴは、彼女の世界の中心で、たったのひとり、たったのひとつになる。
全てが彼女の感性のみで構築された、ひどく脆い少女の王国。
だからこそ限界までシンプルに、ストレートに、目に映り、心身で感じ取った何もかもが全身に響き渡る。
脳が震え、イメージが脊髄に流れ込む。
華やかな花色の血液が電撃をともなって網膜の裏をはしる。
それはネヴの繊細な感覚が、見たいと望んだものを余すことなく感じ取るスイッチが入った合図だ。
最初に感じ取ったのは、寂しささえない虚無だった。
――ダヴィデのなかにはなにもない――
四肢と意識を無防備に投げだして、まどろみと陶酔のなかに落ちる。そうしなければ到達できない感覚のなかで、ネヴはダヴィデを感じとる。
(父の貴い意志を受け継ぎ、再び生を受けても。自分の意思も、願いも、経験も、なにもない。全てが書き込まれただけの上っ面。
なのに生きた体は熱い血潮の巡るまま。誤作動した情熱が人への愛を真似て、ひたすら行進を続けようとしている。めちゃくちゃに配置した歯車が奇跡的に噛みあって動いてるみたいだ)
脳は生きている。心は死んでいる。身体は生きている。魂は死んでいる。
目的はある。意志はない。意識はある。自我はない。
感じ取る情報に沈み、深度が増すごとに、あまたの印象を紡ぎあげて、ネヴの世界が新しい光景に練りあがっていく。
ネヴの感性によってとらえられた、ダヴィデの内面を視る。
彼女の視界で八重咲の牡丹のように花開いたのは、半透明の青を抱く渦潮だった。
波の騒ぎたつ音がごうと腹の底に響く。
鱗粉のようにサファイア色の飛沫が零れ、模様のように白い線が走る。
宝石の如く輝くのは彼らの誇り高さ、雪より無垢な白は一族が積み重ねてきた自信と誠実の表れだ。
(でも、変だ)
他者の精神を形としてとらえた時、それが水や海を象っているのは珍しくない。
人の中身そのものが無限であり無形なのだ。
水は生物の母でもある。親和性は高い。
だが、パトリツィオによって組み上げられたダヴィデの内面は、あまりにも奇妙だった。
概ね、意志とは必ず多少の揺らぎがあるものである。
どんなに固い信念があったとしても、だ。
喜怒哀楽の感情だとか、天気だとか、心拍だとか。精神的影響は勿論、肉体と環境。どんな些細なことでも心は動く。必ず、絶えずに。
意識して押さえつけられるものではない。
(生き物なんだから絶対なんだ。なのに、この渦は必ず同じ厚さで回転し、同じリズムで飛沫をあげ、完全なシンメトリーを保っている。そのうえ作り物だから、一人の人間のなかには両立しないような要素が幾つも組み合わせられていて、鬱陶しいほど見づらい)
ネヴは鼻から息を吸い、大きく深呼吸した。
(こりゃ壊せない。感情移入ができないもん。燃えることがない代わりに尽きることもない仮初の精神性だなんて――私の魔眼の対策をしている)
そうして、ゆっくり目を開ける。
「ふー……」
戻ってきた現実は、まだ数秒しか経っていなかった。
ダヴィデの手によって、背後には巨人がいる。
イデ達が抑えてくれているものの、彼らには不死の存在を倒す能力はない。
ネヴがやらねばならないのだ。
イデ達に極力影響を与えない致命的なポイントを見つけ。一撃で仕留めねば――
そのときだった。背後で吠え声が響いたのは。
「助けてくれ!」
ネヴはぎょっと驚く。
(まさかイデさんが?)
なけなしのプライドか、変な見栄をはるところがある彼が?
しかし心を動かされたのはネヴだけではなかった。
前を見れば、今まで不動の内面を貫いていたダヴィデの内面に激しい大波が巻き起こっている。
魔眼で視る対象をダヴィデから彼の周囲に変えれば、二色の剣が彼に向かって降り注いでいるのが見えた。
弱々しいが無数に降り注ぐ虹色の光の細剣と、分厚い刃に青い炎をまとった剣だ。
細剣は遠方から飛んできてダヴィデの頭上に雨の如く降り注いでいる。
炎の刃はイデの方から飛んで、ダヴィデの心臓部に屹立した。
炎の刃がイデから飛来した殺意なら、細剣はデイパティウムの民の声だろう。
イデに助けを求められ、ダヴィデに刻まれたルールにノイズが発生したのだ。
イデによる死の希望と、デイパディウムの民による奉仕の要求の間で、どちらを優先すべきか暴走を起こっているのが見えた。
多数決なら民が勝るが、イデがやっているのは『直談判』だ。
面と向かって近距離で放たれた希望は、強い優先順位を持っているらしい。
ダヴィデはまだ結論を出さないまま、とりあえずイデに近づこうとした。
またとない内面の揺らぎ。
初めて現れた渦の歪みをとらえた瞬間、瞳孔に風が吹き込むような感覚が走った。
「――隙あり!」
腰を落とし、柄に手をかける。
遂に、一撃を与えるべき場所が視えた。
(二人がつくった機会、逃すわけにはいかない! ここで!)
渦には必ず中心がある。
バランスを崩した波が、隠されていたそこを波のスキマにさらけだす。
精神において中心となるべきは、当然、持ち主の核!
はっきりいってダヴィデ殺しは不可能だ。
ダヴィデに彼自身から生まれた意志がないからだ。
やはり既に生きていないものを二度殺すのは困難極まるのだ。
だが斬れる。イデのおかげで、斬れるものが現れた。
彼をここまで突き動かしているのは、彼以外の想いなのだから。ダヴィデ自身にはなくとも、彼に込められた想いには《ほつれ》がある。
(即ち、ダヴィデの父:パトリツィオが息子の肉体に施した、異能の核を揺さぶる!)
もはやネヴは彼のものを完全に見通した!
放ったのは居合。
ひらめく刃が白銀の布を振ったように残像を描く。宙に白い影がうつるほど高速で繰り出される一刀。
重く、速く。瞬きをするより速く残撃が近づいたのに気付き、イデを注視していたダヴィデが顔をそむける。
彼の襟元から肉々しいカーテンが展開し、庇った。
まだ肉を服の裏地に隠しもっていたのだ。
「ネヴちゃん」
音にならなかった呟きには、言外に「無駄だ」と込められていた。
嘲りはない。淡々とした事実を機械的に教えただけのつもりだったはずだ。
聞き分けのない友達にどう説明しようか悩む顔をしていた彼は、ネヴと視線が合った途端、大きく深緑の瞳を見開いた。
爛々と光り、獲物を射抜かんとする眼光。迷いなく直進し、刃を携える気概。
己を信じ切ったものだけが持つ獣の瞳だ。
ネヴの黒い瞳が生者の虚像越しに、渦の姿をかたどった獣を捉える。
彼女はすぐさま刃を返す。肉は塵のように落ち、穢れない刃が蘇る。
室内灯を写す刀身たるや。形なきものまでも切り落とすかの如く、鋭い。
それは見る者を恐れさせる、眩さの一種であった。
「視えるとも。獣を構成するヨクとユメの境界線。数多の願望が入り混じる神秘とオカルティズムの結合物。私こそは星の二十七通りの分解に長けるもの。貴方は畢宿のものである」
ネヴは呼びかける。
血の垂れた白い頬が、吊り上った左の口角で歪んでいた。
実らぬ果実が硬直する。
魂なき意思は、黒い眼と白い刃が示す意味を正しく理解したのだ。
自らの重大な構造物をとらえられたのだと、彼に蓄積されたメチェナーデ家の記録が叫ぶ。かつて一族を滅ぼした魔眼を恐れて嘆く。
目の前にいるものの語りが、最後に残した希望への残り香さえも消すものだと悟って。
「ああ、いけない。いけないことなのだけれど――獣なのだから、よろしいでしょう――」
ダヴィデは何かをしようと指揮棒たる自らの指を振るおうとした。だが遅い。片手はシグマの投げたノミによって封じられ、身をひねるだけでも支障が出ていた。
それよりネヴの刃が食い込む方が早い。
迷いなき仁義の一閃。
獣を断つ刀にあるのは、二度とまみえぬ未知の塊に挑戦する、興奮の一撃であった。
―悔恨――羞恥――自罰――
――義務感――誇り―――――
―愛――
ばらばらに。明確に。つかず離れず複雑に重なり合って、カレイドスコープのような有様になっていた構成物を。
懇切丁寧、慈悲深く。ひとつひとつ舐って切り捨てて味わい尽くして両断して。
「――あ、れ」
最後の最後に、ダヴィデに託されたメチェナーデ家の希望は逃げ切れずに。
ダヴィデの行動規範となる基礎にヒビをいれられた。
「あ――あれ、」
白いおとがいをのけぞらせ、ダヴィデが痙攣し始める。
言葉にならぬ喘ぎが漏れ、立つこともままならずに膝を折る。
ノミで固定された片手だけが、磔刑の聖人のように掲げられた。
彼に刻み込まれた重要な命令が麻痺したことで、機械でいうところのエラーに似た状態に陥ったのだ。
「重要な白紙の交通渋滞が……斜めに走る多重構造の負債によって明日の天気予報を、あれ、あれ?」
数多の領民を切り刻んできた指が、力なく絨毯の上に落ちる。
同時に、彼に操られていた屍肉たちも活動を停止した。
頭部をかたどり始めていた肉だまりが、溶けたアイスクリームのように床を舐めていく。
美しい姿をしたダヴィデの苦しげな吐息だけが哀れっぽく続き。
「清廉潔白な三十一時間営業の永遠は前へ前へのバックを推奨――修正――ああ、だめ。短時間での修復は夢見る昨晩。命令の続行不能。ごめんなさい、父さん、みんな――」
プログラムされた謝罪とともに、眠るように目を閉じた。