第十三話「凡俗の高慢」
「父さん。あなたはそこにいてはいけません。こちらへ」
父の姿を認めたダヴィデは、くいっと指を曲げて父を招く。
まともな理性のない老人が応えるとは思っていなかったが、イデは彼を背負う手にぎゅうとちからを込めた。
あくまで目線はダヴィデを睨んだままだ。
綺麗に微笑む顔がすさまじく気にくわない。
すると急に身体が上にひっぱりあげられる。間髪入れずに、老人の悲鳴が鼓膜をつんざく。
「きぃぎゃあああ!」
という神経を雑巾のように束ねてしぼったような絶叫に驚いて、ただでさえ手汗でぬるんだ手から老人の足がすっぽぬけてしまう。
イデはキンと痛む耳に生理的に目を閉じながらも、すぐさま天井を見上げた。
必死にばたばた暴れる素のかかとが見える。
その木乃伊めいた手は万歳の形にあげられていた。
注視すれば手首に、ピンク色のロープのようなものが絡みついている。肉でできたロープは規則正しくトクントクンと脈動しながら、老人を巻き上げる。
(連れて行かれる!)
肉ロープの行方をさかのぼって出所を探す。ダヴィデには隠す気もないらしい。すぐに見つかる。肉ロープが隠されていたのは研究室じゅうにあった実験体達だ。
ベッドの下、机の裏とあちこちからピンクの塊が湧き出して蛇のように這う。
もとを断って老人を救うのは無理だ。
イデは咄嗟に離れかけた足首を掴む。
するとまた老人が泣き叫び、イデの頬にぽたたと生暖かいしずくが落ちた。
肉ロープはイデが老人を連れ戻そうとすると、触手の数を増やして容赦なく引っ張る。
反対方向に身体を引っ張られる苦痛にわんわん泣いて許しを請う老人の声に、イデは耐えられなかった。
(ここでちぎれるぐらいなら、ロクデナシ息子でも返しちまった方がマシかっ……!)
ぱっと手を離せば、しゅるると音をたてて肉ロープはダヴィデに向かっていく。
彼の前に老人を降ろすのは、打って変わって丁寧に、ゆっくりと床に足をつけさせる。
ダヴィデは両手を広げて、にっこりと歓迎した。
「おかえりなさい」
その手でぱちんと指を鳴らす。
合図を受けた肉が大きく胎動した。速やかに集い合わさり、ダヴィデとイデ達のあいだに柔らかく弾力に富んだ格子を作る。
「クソ、鬱陶しいッ」
判断を誤ったか。
焦るイデの前に刀の柄に手を乗せたネヴが歩み出た。
「任せて下さい。檻なんぞ所詮足止めにしかなりません」
ただびとであればきりのない死肉でも、刻まれた魔術命令を直接破壊できる彼女には枯れ木の枝を手折るようなものだろう。
ネヴの第三の眼。概念そのものに物理的に干渉する魔眼。
そんなことは幼馴染みのコピーであるダヴィデも知っていた。
メチェナーデは他でもない、ネヴの眼によって没落させられたのだから。
ダヴィデは余裕すらある、ゆったりとした動作で父に手をのばす。
その、ろくに食事もとれず弱り切り、無数の皺がよった、細い首に。
傷一つない十本の指が小指から順に、花が閉じるように老人の気道を塞ぐ。
老人はポカンとした呆けた表情で、なされるがままぶら下がる。
肉ロープに全身を拘束されたせいか。理想の我が子の判断を信じているのか。
弛緩した魂の抜け殻からは、その結末を幸福と思っているのかさえわからない。
やがて老人は、やがてぎゅるんと白目をむいて事切れた。
「ふう」
ダヴィデが「一仕事した」といわんばかりに、額を拭う動作をする。
同時に老人の遺体はぞんざいに床に放られた。
理不尽に命を奪い、死ねばモノのように扱う行為に、イデは全身がかっと熱くなるのを感じた。
さっきまで背負っていた人間が、よりにもよって犠牲を払って助けた息子に殺される。
イデにはネヴの理論は理解できない。
しかし、家族という存在に抱く希望と、それに裏切られた絶望はいやというほど知っていた。
それがどうして。眼の前にいるコイツは、親の首に触れて憎しみを欠片も浮かべなかった。なぜ頼まれたゴミ出しを成し遂げたような無垢な顔で、自分の親を始末できるのだ。
ネヴがざっくりと肉の檻を切り裂く。
彼女は間一髪まにあわずに引き起こされた光景に、流石に口を真一文字に結んでいた。
その目は四肢をデラタメに放り出した老人に向いている。
一メートル程度の切りはしにされた肉は数秒のたくって、しおれる。
シグマはネヴの後ろについて、近くに落ちた肉を蹴って遠ざけていた。
イデは真っ直ぐに、カミソリのような目でダヴィデを睨む。
刺々しい視線の直線上で、ダヴィデはにっこりとイデに微笑みかける。
そして、よりにもよって心底不思議そうな顔でほざく。
「イデくん、どうして僕に憎しみを向けるんだい? 僕は君の味方なのに」
「あぁ!?」
がらの悪いうなりに、ダヴィデは困って小首を傾げた。
「だって君は、僕に守られるべき民でしょう。初めて会った時からわかっていた。僕は君の鏡でもあるからね。
ちからがなく、虐げられ。誰かの援護がなければ豊かな人生などえるべくもない……君のような人を救うのが僕の役目だ」
「外道に救われるほど血迷ってねえよ」
「外道……父さんを殺したこと? 違うよ。道を外したんじゃない、父さんの敷いたレールに従ったんだ。
だって僕は民を助けるモノ。民は守られ、自分達ではできないことをしてくれる上位者を必要としている。
でも『自分が逆らえない誰かがいる』ってストレスだろう?
民にとって、豊かで恵まれた人間は救う立場の人間であり、あくまで自分達を不快にしない存在でなければならないんだ」
悲しい誤解をした友人を説得するかのように、ダヴィデは真剣に語る。
「自分達がダメだといえば何もしない。助けろといえば助ける。責任は全てとってくれる。そして自分達の上位にたつという恵みへの義務として、劣ってはダメだ。
つまるところ、賢く、優しく、美しく、完璧でなければいけない――
こんな汚物が上にいるのだと思えば、心は離れ、治安は荒む。それは貴族として最も憂うべきこと」
「汚物……?」
「そうだよ。勿論、父さんは大切さ。よい息子は両親を敬愛するものだからね。だから献身的に介護して、誰にも会わせないよう大事に部屋で守っていた。
だというのに民は、すっかり身振りも繕えなくなった醜い父を見つけてしまった。民が恥じるモノになった父を。知られたからには、もう父は消えねばならないんだ」
清く正しく生きる民を守るため、壊れた父を掃除したとのたまうダヴィデには、やはり傲慢や嫌悪の色はない。
無感情に定められた規定通りに業務を遂行する。
父と違って決して壊れぬ精神構造をもった死体人形は、レースのハンカチで手をぬぐい、イデに手を差し出す。
「さあ、信頼して。君を苦痛から守ろう。きっと僕たちはいい友達になれると思うんだ」
「テメエみたいな腐った奴はお断りだ!」
イデは握手のための手を勢いよく振り払う。
「うん、また勘違いだ。君との間にはかなり深い誤解の溝があるね。僕は死んでいるけれど肉は腐ってない。ぴちぴちの新鮮だよ。しかし悲しいかな、君の心は決まったようだ」
これ以上、君の心が変わることはなさそうだ。
台詞の響きだけは悲しげに嘆いて、ダヴィデはぱちんと指を鳴らした。