第十二話「聖母のかいな」
涙を流し始めた老人に、当の少女は最初こそ驚いた。
「え、ええと。おじさま?」
顔を近づけると老人はびくりと震える。おびえているようだ。
背負っていたイデだけが蚊の鳴くような「ルリ」という単語を聞き止めた。
老人の口からでたものでは、初めての意味を持っていそうな言葉だ。
「ルリ、っていってるぞ」
「ルリ? 本当に? なら、もしかして私を母と間違えているのかも」
「降霊術遣ってたっていう?」
「はい。おじさまと私がお会いするのは久しぶりですし。似てる、のかな」
ネヴは悩ましげに、折り曲げた人差し指の関節を顎にあてる。
するとびくびく震えていた老人の目に理知の光はない。
しかしどうしたことか。終始揺れていた瞳がぴたりと止まって、ネヴをしっかりと見つめ返した。
それにネヴは「ほう」と瞠目した。口元に緩い笑みが浮かんでいる。
嬉しそうなまま躊躇いがちに手を伸ばす。
そして。そっと老人の髪を撫でた。雨露にしおれた花弁に触れるかのように、ささやかに。
「尽きるまで生きた貴方に敬意を」
乱れた前髪を直されると憔悴しきって、しわくちゃの幹のようになっていた老人のしわがわずかにのびた。何歳も若返ってみえる。
知性を失う前の面影だ。あれよあれよと無理矢理にかきたてた夢で灰になる以前の姿。
本来ならば彼は、貴い血に相応しい当主であり、何十年もを積み重ねた大木の如く穏やかな紳士であるはずだったのだ。
老人は目を細め、初めて言葉らしい言葉をつむぐ。
「ルリ……生きていたのか……よかった、よかった……」
イデは老人の変化を見て、酸いたものがこみ上げてきそうになった。
たとえこうなる予定ではなかったのかもしれない。だがダヴィデが「みんなを幸せにする方法」を歪んだ形に解釈し、実行したのは老人が原因だ。彼は……きっと悪だ。イデにいえることではないが。
死者の蘇り。失われた家を立て直す頼もしい息子、愛おしい住民ともう一度、幸せな日々を。
そのために大衆が「あれは必要でない生き物だから有効活用してやろう」とみられたものが死後の尊厳と安寧までも奪われる。
イデもまた下層民、蔑まれる側の人間だ。
同じ血肉で出来ている人間を、モノ扱いする生き物がいることが恐ろしくてたまらない。
だというのに、イデはネヴが彼に優しく触れたのに怒りがわかなかった。
胸中に綿へ水がしみこむように広がったのは、あわれみだった。
例えば。例えば、イデが中層民以上の人間で。母がイデを捨てないまま息をひきとったら。見下した相手の犠牲と愛しい人間の復活を望んでいたかもしれないと思ってしまった。
憎むだけ憎めた方が楽だった。
そうさせてくれない相手にイデは舌打ちし、ネヴに「意味あるのか、それ」と非難めいたぼやきを投げる。
ネヴはイデの八つ当たりを無視するでもなく受け取り、首を傾け、眉の下がった微笑みを返した。
「さあ。私の自己満足かも。でもいいんです。私はすべてを失う危険性を孕んでまで限界に挑んだ彼に敬意の念を抱いただけ。返事は求めてない。おじさまがどう受けとろうが捨てようが、好きにすればいい」
「あいつが何人犠牲にしてても?」
「それはそれ、これはこれです。許せない部分があるからといって、素晴らしいと思ったことまで否定していたら、あれもこれもダメと目くじら立てたくなっちゃう。私はゆるせないことを潰してまわりたいんじゃあないし」
おとなしくなった老人の頭をもう一度撫でる。
「それに。みんながみんな、あいつは悪い奴だって後ろ指を指すだけだなんて、悲しいじゃないですか。彼は諦めずに頑張ったんだから」
「アンタは……」
――アンタは、どこか歪んでいる気がする。
そう思った言葉を飲み込む。
見下せる要素があるからといって、好いた行動がなかったことにはならない。とんでもない悪事になっても、願いにそそいだものを否定しない。その全力の生き様を賛美する。
ネヴが老人に優しくする理由はそこにある。
そしてネヴがイデに友人のように接するのは、きっと老人に優しくするのと同じ理由だ。
指摘したら、ネヴが「あら、貴方の言うとおりですね。私の悪いところです。反省しなくては」などといって、イデのような下層民なんてさっさと手放してしまうのではないか。
そうなるのは別に当たり前のことでなんでもないのに、言えない。
歪んだまま離れたら、彼女はルーカスのように暴れ狂って死にそうで。臓腑が冷える。
「アンタはダヴィデにもそうするつもりなのか」
「え? いや全然。全然! だってあれ人間じゃないもん! 意志がないもん! あのダヴィデ野郎を停止して、回収して、うちの管理サイトにぶち込んでやらねば気が済みません」
「おいおい。冷静になれよ、大怪我してんだぞ。いったん帰って応援よぶとかよ」
「冷静? 何のために? 私は獣憑きは大好きですが、ああいうの大嫌いなんですよ。あれは私の獲物。応援にきた他の人にとられては困ります」
シグマに目配せをすれば「諦めろ」と言わんばかりに首を振られた。
イデは頭痛を堪える仕草をした。ふりではなく本当に痛い。絶え間ない緊張に晒されたうえ、土のなかである。酸素が足りない。
「ああ、わかったよ。わがままなお姫様がうるさいからな、付合ってやるよ。なんだ、アンタが来た道を遡って会いにいきゃいいのか?」
「いや、イデさん。ここで手当を済ませたら一人で戻ります。一対一でないとだめだと言ったでしょう」
「あのなあ」
言い合いになりかけた二人を制するように、シグマがあいだへ手を差し込む。
氷の双眸は不気味な研究室にあって、冴え冴えと両方を睨んだ。
「その喧嘩は必要ない……と思う」
「必要ないとは?」
「念のためずっと耳を澄ましていた。当主の部屋に隠し通路があるなら、他の重要な部屋にも同じような通路を作っているかもしれないと思って」
「……来てるんですか?」
シグマはすうっと、研究室の一角を指さした。
そこで初めて、標本のように並べられた実験体のなかに、ひとつ異様なものが納められているのに気がついた。
大理石で出来た女神像だ。胸の膨らみで生まれた薄い布の表現は狂気を感じるできばえで、下手をすれば生身の女より柔らかそうだ。
完全な美をたたえる肢体の、胴だけがモダンアートを思わせる不自然なねじりを描いている。
遺伝子の螺旋めいたねじれは人にはない曲線美を秘めており、奇妙に艶めかしい。
瞳には赤縞瑪瑙がはめられ、神々しい目力さえ感じる。
その裏から、バターブロンドの髪がこぼれた。
瞬時に構える三人の前に、ダヴィデがゆったりと歩み出た。
「僕はネクロマンシー以外の魔術は得意じゃない。でもこの鉱山はメチェナーデ家の領地、加えて魔術師の工房だからね。君たちがどこにいるかもなんとなく把握できるんだ」
家の裏に住み着いた子猫を見つけた時の無邪気な笑顔で、ひらひらと手を振る。
出会ってから一度もほころびが生まれたことのない優しい顔が、イデにも向く。
「君たちも無事合流できたんだね。君たちは悪運が強い。よりにもよってこことは――」
小川の流れのようにさらさらと続いていた言葉が止まる。
柔らかな森林色の瞳がかちりと一点を見つめて固定された。
一ミリのずれも発生しない様は生き物のなせるものではない。
ダヴィデの役割を与えられたはずの死体人形が、その本質をむき出しにする。
視線の先にあったのは
「――父さん」
イデに背負われた老人だった。