第二話「おとぎの遠吠え、もれいでる」
バラール国の空は、蒸気機関の吐き出す煙によって年中暗い。かつては清涼な空気が朝日とともに街に流れ込んだというが、今は煙たく冷えた風が起き抜けの人々の肌を泡立てるばかりだ。
その日も変わらず、灰と凍えの朝だった。
へこんだやかんで熱いココアを淹れていたイデは、窓際に人影を見た。
音もなくマグカップを机におく。
(報復か?)
とっさに浮かんだのは、三日ほど前の夜だ。
雪の降るなか、暗い道で殴られた。やったのは若いが、目の焦点が合っていない青年だ。
どうあがいても抜け出せない泥のなかで、そうなるやつは多い。
そしてこの下層では、なめられないことが命綱になる。弱いと侮られぬよう恥辱には相当のお返しが必要になる。
イデは窓から意識をそらさぬまま、キッチンに近寄り、果物ナイフを手に取った。
だが、黒い影は玄関の方まで来てから、そのままノックひとつせず来た方向へ戻っていく。
途中、窓の前で立ち止まった。影は家の中の方へ向き直って、丁寧に腰を折った。
一連の動作は洗練されている。薄汚れ煩雑とした下層の路地に見合わぬものだ。
華奢な体格、膝のあたりで手を重ねた様子、後頭部で結ばれた日もの影から、イデは影の正体が女性だと察した。
「なんだ?」
奇妙な女の人影に、イデは首を傾げてナイフを置く。
しばらく時間をおいてから、玄関に向かう。
すると玄関の下から、手紙が差し込まれているのに気が付いた。
品のあるクリーム色の封筒だ。ご丁寧に、銀色の封蝋までされている。
封筒をひっくり返したりして、細かく観察したがよれや歪みは一切ない。封蝋も完全な状態だった。
あの女が忍ばせていったものと考えるのが妥当だろう。
適当に封を破れば、見惚れるほど優美な曲線を持った字体が視界に踊った。
下層民にも読み書き程度の教育は施されるが、ここまで美しい字を書く人間がどれほどいるか。
これは「読ませる」ことで、相手に敬意を抱かせる字だ。
下層民に施される教育など、ガラクタのなかから宝が芽吹く可能性ぐらいはまいておこうというレベルに過ぎない。
「おいおい。楽しくなってきたじゃねえか」
イデの口はひとりでに嘯く。
いかにも育ちのいい人間に関わったところで、お互い見下しあっているのだから、ろくなことになるまい。
そこに思い当たって、イデはようやく、三日前に出会ったのが不良だけではなかったことを思い出す。
消毒液の匂いのする男。慌てふためきながら後で連絡をするといっていた光景が蘇った。
ため息をつき、中身に目を通す。
手紙は回りくどい季節の挨拶から始まった。一枚目の半分を使って、ようやく本題に差し掛かる。
慇懃無礼な装飾が多かったが、要点をまとめれば実に簡潔になった。
明日の午後十一時にて、街はずれの廃屋敷にてトランクと金を交換しよう。
示された金額は、今までにお目にかかったこともない。
「……ロクなことになる気がしねえが、ルーカスを呼ばなきゃなんねえか」
(全く面倒くさい。
相手が何者でも構わないねえけどよ。
こちらとしてはこの状況から抜ける足掛かりになる程度の稼ぎが得られればいいだけだ)
ここから抜け出す。
それだけの理由で、一歩間違えば厄介ごとになりそうな案件に手を出そうとしている。
中流階級の男がスラムに来て、品のいい女が手紙を持ってきて、スラムで会おうといってくる。
トランクの中身も見る気になれない。どう考えてもまともでなかった。
「魔法のアイテム入っています」といわれても、そうかもしれないと納得してしまいそうだ。
イデもまたどうしようもなく愚かなのかもしれない。だが、イデにとっては抗いがたい魅力を感じずにいられなかったのだった。
* * *
午後十一時近くを見計らい、廃屋敷にやってきたイデは、五人の男に出迎えられた。
やせぎすの男=ルーカスのみだと思っていたのに鼻白む。
「おっと、いうのを忘れてたわ」
ちらちらイデを見やる五人の間をぬって、ルーカスが悪びれない笑顔で片手をあげた。
フレンドリーを装った挨拶も、ろくに返す気にならない。
「どういうつもりだ?」
「だって、よくわからない相手じゃないか。人は多い方が安心、そうだろ」
「……ああ。わかった」
納得はしなかった。
だが追求はしない。
もともと、ルーカスがイデと協力しようとしているのか、半信半疑だった。
このやけになれなれしい男もスラムの人間であり、やはり信頼できない輩なのだという思いを強める。
「好きにしろ」
ルーカスと五人から離れるため、屋敷の奥へ向かう。
彼らを背にしてから腕時計をみれば、十一時まであと十五分あった。
すぐに終わればいいと願っていたイデの後ろから、苛立った様子の舌打ちが響く。
「チッ」
それはルーカスのものだった。
「ンだよ」
「別に。まあオタク、特定の誰かと組んだりはしねえもんな。いきなり知らないやつらを集めて、悪かったよ」
「そうか」
改めて謝罪を述べるルーカスだが、イデもそこまで怒りを覚えたわけではない。予想はできたことだ。
そっけない返事を返せば、ルーカスは表情を歪ませた。
(家に入ってきたり、なれなれしくしたり。かと思ったら裏切ったり。よくわからねえ奴だ)
どうすればいいかわからない。黙っていると、ルーカスは気を取り直して笑顔を浮かべた。
「そうか、許してくれてよかった! んでさ、ちょっといいかな。そのトランク、あと十五分もしたら渡しちまうんだろ? せっかくだから俺にも持たせてくれよ」
「駄目だ」
「ケチ! じゃあせめて、一回だけ中身を見るぐらいなら。いいだろ?」
「……俺の目の前で見ろよ」
「ハイハイ」
コトが何も起こっていない時点で、愛想を悪くし過ぎてもよくない。
それぐらいなら、とイデは首肯する。
イデの要求通り、ルーカスはイデの前でトランクを開く。
イデからは中身は見えない。
しかしルーカスは得心いった様子で感嘆の口笛を吹いた。
「要は済んだか」
物を見るだけなら数十秒もかからない。
すぐに手を差し出せば、素直にイデの手をトランクの取っ手へ滑らす。
「どーもありがとう。では、さる高貴な方々にまみえる前にクソを済ませてくる。身も心も、中身含めて綺麗にしておかないとね」
恭しくこうべを垂れるルーカスだが、紳士には見えなかった。よくて道化師だ。
「忙しいやつだ」
そういった途端だった。
大きなものが倒れる音がした。やせぎすの男が去っていった方だ。
「……流石に忙しすぎるんじゃねえか?」
あらかじめ相談していたのだろう。やせぎすの連れてきた若者たちは、破壊的な音を聴くなりぞろぞろとイデの周りに集う。
イデは大きくため息をついた。
見知らぬ下層民の若者に囲まれる。
しかもうち何人かが下に唇を歪ませていれば、どういう状況か予想がつく。
「は、テメエららしい。類は友を呼ぶとはよく言うもんだ、ルーカスもテメエらも、もう少し落ち着きを学んだ方がいい」
得られるかわからない金よりも、今、手元にある商品を確実に手に入れた方がいい。クスリなら自分たちで使い、残った分は顔見知りに高値で売りつける。そうでないなら闇市で売る。
金が得られるならそれも貰う。
消毒液の男がノコノコ現れたならば、囲んで殴って金を奪うのだ。
手に入れた金は山分けだ。言うまでもないが、懐は潤うほどよい。
ついでにいえば、簡単に取り分を増やすには、頭数を減らすのが一番だ。
「顔も知らねえオトモダチが仲よしこよしで来た時点で、そんなこったろうとは思ってたぜ」
「おいおい、負け惜しみかよ。本当にわかってたなら、その時に帰ってママに甘えておけばよかったんだよ」
「おしゃべりは楽しんだが、そろそろ疲れてきた。いいからやるならやれよ」
数で押し切れば勝てる。そう信じて、口もとを引き締めもしない面々が並ぶさまに辟易する。
「おお、怖い怖い。けどイデさんよ、あんたも同じようなもんだろ。ルーカスに何をした?」
その質問には答えない。
イデはてっきり彼らが、減らす頭数にルーカスのことも入れて、一人になったすきを狙ったのだと考えていたのだ。
若者たちは、イデこそこっそり仲間を潜ませて、ルーカスを闇討ちさせたと思っているようだが。
「テメエらの仕業じゃねえのか」
「あ? 馬鹿にしてんのか?」
スラムにも色々いるが、煽りに弱いらしい一人が顔を赤くして、懐からナイフを取り出す。返された態度に、イデは次なる犯人候補として朝方の手紙の女を思い出す。しかしながら、彼らはそんなことは知らない。
イデは軽く呼吸をして、心臓の動きを整える。
傷つけ、傷つけられる覚悟を決め、目がすわったのを自覚した。
あえなく覚悟が無駄になるとも知らず。
ドタドタを足音を響かせて、廊下の反対側からくるものがあった。
イデの記憶が確かなら、廃屋敷の裏口の方面だ。
(逃げた時のために、裏口にも待ち伏せをおいておいたのか)
イデは屋敷の中側にいて、五人の男が玄関への道を塞いでいる。イデがもっとも通りやすい脱出口は、先ほどまでは裏口だった。
ルーカスという男は非常にオトモダチが多かったようだ。そのコミュニケーション能力に舌を巻く。
同時に、待ち伏せ、ひいては奇襲も役目であるはずの人間が、どうしてこの段階でここに来るのかがわからない。
イデを囲んでいた五人も目をシロクロさせている。
「おまっ、なんで来てんだよ!?」
「お、お」
怒鳴られた新参者はまともにろれつもまわっていなかった。
イデはまじまじと新参者を観察して、冷や汗を流す。
ざっと見ただけでも悲惨な相貌だった。脂汗まみれで、歯はがちがちと不規則にかちあう。
顔面蒼白を超えて、肌は土気色だ。
並々ならぬ恐怖にさらされた人間の顔だった。
そんな顔をした新参者は、かろうじて叫ぶ。
「お、狼が、来る!」
新参者の警句を、最初は誰も理解できなかった。
反射的に何人かが失笑、冷笑、嘲笑と笑顔を浮かべる。だがイデは笑えない。
なんであっても新参者が恐怖しているのが嘘とは思えなかった。
そして、生き物の本能を蘇らせるような遠吠えが響いた。
そう時間が経たないうちに、屋敷全体が震えているのではないかと思うほどの振動が響く。
「なんだ?」
「地震か?」
幼い頃にあった第二次境界震災の記憶が蘇る。
建物が崩れ、人が下敷きになる。ようやく積み上げ始めた何かも容赦なく奪う。そこには富裕層のような欲望まみれの企みすらない。
抗いようがない一方的な破砕そのもの――それを思い出させる音だった。
他の若者たちも同じような記憶を呼び起こしているらしい。わずかに動揺が見て取れた。
誰も身動きがとれないうちに――実際は、何かできるほどの時間が経っていなかった――、この場所における『地震』が現れる。
獣だった。
青い毛なみと緑色の瞳をもった、屋根に届くほど大きな獣。
新参者は、嘘をついていなかった。
「……クソかよ」
スラムとは住む世界の違う中流階級との邂逅。
いかにも怪しい同朋からのだまし討ち。
におう、くさい、胡散臭いとは思っていたが、これはない。
イデは己の背丈を優に超す怪物を見て、自分の緊迫の糸がめちゃくちゃに絡まるのを抑えきれない。
「いくら面倒事になりそうだといっても……誰がここまでやれっていったんだよ。いつからここは夢の国になったんだ?」
信じがたい。されど、目の前にいるからには本物だ。
獣を刺激しないように、吐息を小さくして動きを止めた。
それでも獣から目が離せない。
異様なものの存在感が酸素を食らい尽くす。
獣は低く喉を鳴らし、並んだ男たちを見比べた。
食材を品定めされている気分だ。そんな状態にたえて静寂を保つには、根気がいる。
一番早く根気がつきたのは、ナイフを取り出した男だった。
形容しがたい絶叫をあげ、獣に襲いかかる。
きらりと輝いた鋭い刃は、しかし、肉をさくことなく終わる。
先端が届くよりも先に、獣が爪を振り下ろした。
男の硬い筋肉が雨上がりの土のように千切れて飛ぶ。
ナイフが起爆剤になったようにして、場の空気が一気に流れ出す。
最も獣に近い位置にいたイデは、咄嗟にまっすぐ獣の方へ走り出す。
――ギリギリだ。
新たに近づいてきた獲物に気づいた獣は、うるさい蚊を叩き落とすように右の前足をあげた。
迷いなく直進するイデに振り下ろされた腕は、垂直におちる。
そのとても柔らかそうには見えない肉球が頭上すれすれに迫った瞬間、イデは二本の足を床から離した。
――ギリギリまでひきよせて、かわす!
座り込むよりずっと早く頭上の位置が下がる。走ったスピードがのったスライディングは、ギリギリのタイミングで獣の股を潜り抜けた。
そのまま逃げようとした。
だが、後ろ髪をひかれる心地がして、一度だけ振り返る。
かろうじて逃げた獣の眼前、そこで繰り広げられ始めたのは、惨劇だった。
逃げようとした男が前脚で蹴り上げられ、天井に激突した。
彼はそのまま動かなくなる。
恐慌状態に陥り、右往左往したまま立ち往生していた男も爪でよこなぎに払われた。
彼は上下を分断されて、動かなくなる。
左右に分かれて、獣の両端を通り過ぎようとした二人がいた。どちらか一方が犠牲になれば、もう一方が助かる。コイントスのような公平な賭けだ。
獣は己の尻尾を追いかける子犬に似た態勢で回転する。
平等に、ふたりともが壁に叩きつけられた。
衝撃にもだえ苦しむ二人を緩慢な動作で順に咥えこみ、咀嚼した。骨が削られるような絶叫が夜の屋敷に木霊した。
助けて、という懇願もきっと誰にも届かない。
ここがスラムで、彼らが下層民だからだ。
悲鳴も下層民同士の喧嘩ぐらいにしか思われていない。誰も関わりたくない。通報もされずに、朝になったら浮浪者か不良がきて、ようやく無残な死が伝わる。
――何が起こってる? 金を捨ててでも、逃げるべきか。
イデはその時、自分以外の命が奪われゆく光景に、わずかに油断した。一つの存在は、同時に別の位置にある命を狙えない。
命の危機を前に消し飛んだはずの欲望が、またイデに囁きかける。
金を得るには屋敷で待たねばならなかった。
金があれば、抜け出せるかもしれない。
死力を尽くせば、十五分、いや十分、避け続けることができるのではないか?
漠然とした願掛けへの未練が脳裏に浮かんだのが、致命的だった。
獣が咀嚼途中だった二人を放り投げた。もてあそぶのに飽きたのだ。
血に染まった歯茎をもった横顔が振り向く。
まずい。思った時にはもう遅い。
揺らいだ意識の隙をつき、人の命を奪った爪がイデの片腕をかすめた。
飛び退いたものの、象げ色の爪は重い。先がかすめただけだというのに、肉切り包丁を思い切りたたきつけられたかのようにぱっくりとした傷口ができあがった。
――ああ、また俺は、くだらないことを我慢できなかったせいで死ぬんだな。
絶対的な死を知覚する。
わけもわからず、巨大な存在に蹂躙される――そういう意味では下層民らしい死に方だ。
抵抗するのも馬鹿らしくなって、意識を手放そうと倒れる。
もうあがく方法が思いつかなかった。
生を手放した相手にも、獣は確実に息の根を止めようと再び爪を振るおうと振り上げた。
甘んじて受け入れる。
まぶたを閉じかけた時、眼前に、ぬるりと何かが差し込まれた。
まるで、聖母が哀れな子に救いの白い御手を差し出したように、イデには見えた。
「ごきげんよう。裏口の方から入らせていただいたのだけれど……もう手遅れだったようですね? ああ、しかし一人はよく頑張ったようで」
控え目な鈴を思わせる声が、イデの鼓膜を震わせる。
すぐ近くから発せられた声だった。
――天使の迎えか? 俺に?
仰天して目を見開く。
そこにあったのは、これまた奇妙な光景だった。
肌がほとんど見えない白い服を着た少女が、怪物のそばに佇んでいる。
一輪の花の如き立ち姿を披露する女は、しかし、片手に武器を備えていた。ナイフとは比べものにならないほど刃の長く、剣とは異なる獲物。異国情緒ただよう装いをした武器に、イデは見覚えがあった。
昔、学生時代の頃、異文化に憧れていたクラスメイトが本を広げて話していた記憶が呼び覚まされる。
確か、カタナというのだったか。
「お忙しいところ失礼します。少しお時間よろしいですか?」
女はあくまでたおやかに問う。
反対に、獣は固まって石像になったかのように停止していた。
一方的に荒れ狂い、手当り次第に人間を蹂躙していたイキモノの武器の先から、赤いしずくがぽたりと落ちる。
その真ん前で片腕を押さえていたイデは、この光景に何もできない。異世界に迷いこんだ心地になって、ただただ呆然とするしかなかった。
何も浮かばぬ頭は動かない。無意識に自然と目がひきつけられるのは、少なくない同じ穴のムジナの命を奪った武器、赤い牙、そして濡れた爪だ。
先ほどまで死の象徴であったモノをみて、混乱は更に極まる。だが肩から力が抜けてしまう。
女が横に構えた刀に、獣の爪が受け止められていた。
暴力を受け止める姿に、情けなくも安堵した。