第十一話「ブルーローズの赤ちゃん」
大きな揺れに乗じ、ネヴはからがらダヴィデの手から逃れた。
しかし、離れる瞬間メスを大きく振られてしまった。
はらわたは無事だが、絶えず血が垂れる。
アルフに「返り血がついたらすぐわかるように」と着せられた白い服が毒々しい赤と黒に染まる。
彼から受けた加護のような愛が弱るようで、泣きたくなる。
逃げ込んだ先で浅い息を吐く。
ここは作業場だろう。棚には薬品と思わしき容れ物や器具がしまわれていた。丁寧に片付けているのか、肉片の類いは見つからない。
ネヴは机を物色し、適当なアルコールランプをつかむ。
よろけるからだで棚も乱暴にあけ、なかのものを落としながら補充用のアルコールを取り出した。
「アルフはいつもこうしてくれたよね……」
確かめる相手も暇もない。
ハンカチにアルコールをしみこませ、傷をふく。
あとは持たされた裁縫セットから針を取り出し、自前のライターでランプに火をともしてあぶる。火だねは便利だ。
「うう」
自分で自分を痛めつけるのは、とても怖いことだ。
痛みを与えるのも与えられるのも、一人で抱えて、全部受け止めなくてはならない。
(苦しいのも怖いのも嫌い。でも私はずっと、必死に生きる人間だけを見てきた。私もそうする方法しか知らない)
ダヴィデの会話で実感した事実を反芻し、情けなくなる。
自分の世界がどれほど貧相で、ぎりぎりのところを彷徨うものなのか。実感させられた。
ネヴの心は弱い。隠し事も苦手だ。はっきりいって子供っぽい。一人では死ぬ自信がある。
だが悪意をまともに直視してしまう魔眼のせいで、大勢に囲まれてもあっという間に押しつぶされる。
常に安心できる、限られた数の人間とだけ過ごす。職場の人間、父が与えてくれたお目付役。狭く優しい世界だ。
そして狭い世界では、刺激がなければどんどん感性が鈍磨していく。
刃を振るうための怒りがなければ、いずれ立ち止まってしまうだろう。
希望を維持するための幸福がなければ、いつか首をくくってしまうだろう。
矛盾だ。人々のなかにいれば心が壊れるが、心を生かすためには空虚な日々になってはいけない。
感性の喪失。心の麻痺。むきだしの感性によって相手をとらえる戦いをしている以上、戦闘能力においてもそれらは致命的だ。ネヴの死はいつだってすぐ目の前にある。
いくら裕福に暮らしても、胸の底にあるぽっかりとしたところから得たはずの感想が絶えず抜け落ちている気がする。
ぼんやりした時は、心と体が数センチちがうところにズレて、現実に根ざす自分の肉がどこにもないように思う。
数分後にもすべて無味乾燥な他人事に変わり果ててしまいそうで、恐ろしかった。
ネヴはひたすら今ある生の実感を求めた。
触れえるもの全てに、必死でかぶりつく。能力さえ追いつけば骨の髄までむしゃぶり尽くす。
体質のせいで世界の拡張は困難だ。餌場を探し求めて、数少ない外出の機会である仕事に熱中した。
必然的に、ネヴの「栄養摂取」の対象になるのは獣憑きになった。
自らが自らである理由を全力で追い求める人々。恐怖と未知に近づく苛烈な快感がネヴを鋭く、繊細に保った。危険な夢追い人こそがネヴにとっての愛すべき隣人の姿だった。
彼らはギャンブラーだ。利益だけを目指す。
そのせいか、ネヴは損を恐れて何もしない人間を憎らしく思ってしまう。
どんな悪事であっても、誰でもない命をなんでもない明日のために繋げ止めるだけの人々よりは、ずっと好意的だと思ってきた。
(私にも私の生き方がある。でも弱いのは事実。理解者になれると言われたとき、確かに揺れてしまった)
思春期のような幼い悩みに、自嘲の笑みが漏れる。
だが、今頃どこかを駆けずり回っているだろうイデと、心配で端正な顔を歪ませるアルフを想像する。
(いい。生きていればそのうちまた思いつく悩みだ、いま考えることはないよね)
意を決して針を傷口に差し込む。
神経を焼く苦悶に悲鳴をあげそうになる。ネヴは独り言を言うことにした。少しでも痛みからきをそらすのだ。
「終わったら、アルフにマドレーヌを焼いてもらおう。
久しぶりに青い看板の店のパフェも食べに行きたい。スポンジがふわふわで、ソフトクリームにチョコソースがかかっているのがいい。イデさんも誘おう。うんと頑張ったから、私がおごってあげるんだ」
そうだ、そうしよう。
傷を縫い終え、ぶちりと切り離す。
かがり縫いの傷口はまばらだ。アルフのきっちり均等に美しい縫い跡とはくらべものにならない。
いつもなら、常に一緒にいるアルフが代わりに傷を縫ってくれるのだが。
そろそろ本格的に合流しなければいけない。
部屋をぐるりと観察する。いくつか仕掛けがありそうだ。
(あの地震も気になるし、二人ともどこにいるんだろう。危ない目にあっていないといいけれど)
* * *
シグマが鎧人形をいじくったまではよかった。
今、何度もそばをかすめる太い黄金のかたまりから逃げ回っている。
シグマが背中から蓋のようなものをあけて、コードをいくらかいじくってからずっとだ。
三、四歳のこどもみたいに床に転がり、奔放に四肢を振り回す。
おまけに頭上から鎧人形に砕かれた岩まで降り注ぐ。
「なあオイ、あれどうすんだよ!」
「わからない」
大声に対するシグマの返答は簡潔だった。
「期待されても困る……乗るのは無理といったもの。操作はできない」
「そうかよ。それでこのままアリみたいに踏み潰されようって?」
「馬鹿な。私は暗いけれど自殺志願者じゃない……ついてきて」
手招きをしてシグマは部屋全体を襲う揺れをものともせず、駆け足で落石の間を縫うように進む。
「多分、そろそろ死体どもが追いついてくる……追いかけてきた奴らに知性があるようにはみえなかった。きっと真っ直ぐ突っ込んでくる。あとはあの人形が踏み潰すはず」
「うまく行くのか?」
「さあ。けど、あちこち穴ができてる。あれを通って出よう……こんな場所で奇械が暴れてたら何が起こるかわからない。生き残りたいなら、さっさと終わらせてしまわなきゃ」
イデ達は知るべくもないが、この場にいるゾンビは番犬と同じ使い捨てだった。
元となったのは形を保っていた埋葬された死者、憎まれてダビデに殺されたつまはじき者、自分には関係ないよそ者を都合よく利用しようと生け贄に差し出された労働者達。
シグマの予想通り、彼らに「危険を回避する」という知性と命令は与えられていない。
「振り返らないで」
シグマがイデの背中を叩く。
何も言わず、二人とイデに背負われた老人はその場をあとにする。
数分後。殺到した死体達は小鍋のなか木べらで潰される苺のようになり、ほとんど彼らを追わなかった。
** *
急増の穴の通路を通り、シグマとイデは大きな通路のような場所に出た。
土汚れも払わず懐中灯で照らす。足下で錆びた赤い線路が血管そっくりに浮き上がった。
背後の出てきた穴から巨大な虫が土をかくような音が追いかけてくる。
体の一部が残ったゾンビ達が折れた腕や歯を使って、掘り進んできているのだ。
どちらにいくか考えようとしたところで、「イデさん!」と少女の呼び声が響き渡った。
「ネヴちゃん……! よかった。見つからなくてアルフさんが半狂乱にでもなったらどうしようかと……」
駆け寄ってきたシグマにネヴは弱々しく微笑んだ。
互いに抱きしめ合う姿は年頃の少女らしい。ネヴが血まみれでシグマが土で全身をペイントしていなければ実に美しい光景だっただろう。
「随分いい格好じゃねえか。どこの男の影響だよ?」
「わあ。こういうのセクシャルハラスメントっていうんですかね。でもダヴィデよりマシです」
「何があった?」
「説明してもいいんですけれど、いいものを見つけたんですよ。こちらへ」
イデとシグマを認め、ネヴはいかめしくなっていた顔筋を緩める。
その顔でネヴは二人に背を向け、出てきた方にてのひらを向けた。
ちらりとイデのおぶった老人に目を向けたが、一瞥するにとどめる。ひとめで彼がどういう状態なのか察したのだろう。
導かれるままついていった先は、様々な器具が用意された作業室と思わしき部屋だった。
鈍色の光沢を放つステンレス製の解剖台に、拘束用の黒い革バンドが備えられているのを見つけて胸が悪くなる。
防水コンセントとシャワーも付属している。蒸気動解剖鋸を使うのに実に便利だ。
ストロボ撮影された写真が几帳面に並べられていたが、被写物を目視する前に裏返す。
「ダヴィデに襲われた時、地震が起きまして。ここに逃げ込みました」
逃走経路をきいてイデも納得する。
頭のなかの地図に照らし合わせると、鎧人形が暴れた空間はダヴィデの部屋の真下近くにあった。
「それで探してみたら、床下にも部屋が続いていたんです。ここが作業室ならここは研究室でしょう」
あげぶたの戸を持ち上げると、うっすら生臭い風が鼻孔にはいりこんだ。
臭くはないが、加工された生き物臭いかおりは違和感で鳥肌がたつ。
なかにはいって明かりをつけると、喉仏のあたりが湿られたように気持ち悪くなった。
「悪趣味ここに極まれり、だな」
「本人は趣味性なんて欠片もないと思いますよ。趣味っていうのは楽しむことです。心ある人間の特権ですよ」
「では、実用のために、これらを作ったのでしょうか」
シグマは胎児がおさめられたホルマリン漬けの瓶に近づく。
他にあったのは、ケースにしまわれて多量の管がつながれた子宮。時折ぼこりと皮膚が変形する巨大な腹。五十センチ近く巨大化したハダカデバネズミ。
下半身のみの男女が縫合された遺体などもあった。
これはまだ作業に慣れていない初期に作ったのだろう。男部位の臀部あたりに蛆がわいて、白い体躯をうねらせている。
「子作りの研究、ですかね」
「こんなもんまで作ってか? 金があるなら適当な女を雇って孕ますでも、養子をもらうでもいくらでも方法があるだろ」
いっていて自分で気分が悪くなる。
「いえ。どうやら正しくメチェナーデの血をひいた子どもでないといけないようです。ダヴィデさんのクローン……過去の複製ではなく、過去が紡がれた結果のまったく新しい命。可能性の広がりである未来としての子どもが欲しかったのでしょう」
ネヴはそっと下腹を押さえた。
それで腕に次いで出血のあとが多いのに気づいた。何故か、ぶわっと嫌な汗が吹き出る。
「アンタ、その腹――!」
「あ、大丈夫ですよ。ちょっと切られただけで。特に気絶とかもしてませんから、寝てる間に怪しい手術されて、バケモノの子がおなか破ってでてくる~なんて展開もないんで安心してください」
「……でも、聞いた話だと、お嬢に妙に執着してますよね。実用で判断するなら、幼馴染としての恋心、なんてパターンは……」
「ないないありえない。どうやら母の血筋が関係しているようです。私の母は霊媒の家系で、昔はまれに降霊会やらなにやらやってたらしいから。この世ならざるものをおろせる体なら、異形の命も宿せるかと思ったのでしょう」
「母親の意志は無視か。クソ野郎め」
父親に虐げられてきた母の寂しげな横顔を思い出す。はらわたが煮えくりかえるように熱い。そばに女がいなければ、部屋中を荒らしてめちゃくちゃにしていた。
「その倫理観のなさ、実に腹立ちますよね。せめて覚悟きめて自分の意志でやっていれば、実にいい度胸だと気持ちよく殴れるのに」
「二人とも怒るのはわか……いやわからないんですけど……わかるんですが、どうするんですか。これから」
「決まっています。ダヴィデ、ぶっ殺す! ですよ。その前にお爺さんの安全を」
そういってネヴが老人の顔を覗く。
緩んだ瞼の下で、小さい黒目をまどろませていた老人が、ネヴのきらきらした大きな瞳を認める。
すると、それまでおとなしかった老人が、ぽろ、と涙をながした。