第九話「エクセレント・ボーイ」
「ぐ、う!」
腕をかまれたネヴは、すさまじい勢いで廊下を滑って移動していた。
炭鉱内なのだから、廊下というのもおかしいが。バラール人としては小柄な体が、妙に整備された通路を蹴られた小石のように飛ぶ。
(さっきまで何もない通路だったのに、ある地点を越えてから全体が見えるほど灯りが配置されだした。重要地点に入ったってことかも)
めまぐるしい視界からなんとか情報を拾う。現状は芳しくない。
犬の牙で肌が裂けるたび、かみ直され、傷が深くなる。
(これはやばい)
犬は明らかにどこかを目指して突き進んでいる。
このまま思惑通りに連れ込まれるのはまずい。
ネヴは覚悟を固め、空いている片手で犬に手を伸ばした。
「離せッ!」
白い手袋をはめた手が鷲のかぎ爪の如く曲がる。
ごわついた毛皮ごと頭部をわしづかみ、全力で床にたたきつけた。
最も致命的な一カ所を、粘着質に、何度も、何度も。
ボウルで叩かれた卵のように額が割れ、腐った白身のような中身がとびちる。
手袋が赤にびしょ濡れになっても構わない。かち割り続けた。
ただの打撃ではない。一撃一撃すべてが、ネヴの魔眼による「動くもの」としての概念そのものにダメージを喰らわせる衝撃だった。
顔の上半身の原型が崩れ始め、ようやく犬は口をぱかりと開けて横たわった。
ネヴは皮膚がちぎれるのも構わず腕を引き抜く。一刻も早く離れたかった。肌の下で守られるべき神経が外気におかされ、眼が歪む。
バックステップで距離をとり、完全停止を確認して、ようやくネヴは息をついた。
「ふー……」
上着を脱いで、黒いシャツ姿になる。機関製の通気性に優れた一等品だ。
「うわっ」
腕の皮膚はべろりと剥がれ、瑞々しい肉色を晒していた。よくみれば牙が埋め込まれたへこみも確認できる。犬を倒した時に分泌されたアドレナリンがひくにつれ、激痛が走った。
「ぐうう。痛い、痛い、痛い。ひどい。絶対許しませんからね……!」
正直引きずられている間、高速で振り回される感覚に楽しいものがなかったと言い切れない。スリルは好きだ。しかし、それも痛みに気づかなかった間だけのこと。終われば怒りしか残らなかった。
ネヴは上着の一部をちぎり、包帯代わりにして止血する。スカートを短くするのはちょっぴり恥ずかしかったのだ。
「うう、確かアルフ、包帯持ち歩いてましたよね……いたら、ちゃんとした包帯で上手に巻いてくれるのに」
心寂しさから独り言が増える。
なんとか包帯をとめおえると、ネヴは己の頬をぴしゃりと叩いた。
気を取り直して背を伸ばす。
ネヴにとって姿勢は生命線だ。
魔眼の効力のせいでわかりづらいが、実のところ、ネヴは人より若干たくましい程度の筋力しかない。
他より比較的実戦が得意なのは、実体のない概念をとらえ、物理的に捉える目のみではない。目があっても得た情報を理解できなければ意味が無い。
しかも、いちいち頭で考えているのでは、白兵戦においては間に合わない。
ネヴの戦い方は、自分のものでもない心に、肉薄して近づける能力があるからだ。
頭で考える段階をすっ飛ばして五感・体感のレベルでとらえられる優れた感性。
全ての能力を無意識に活用できるまで、極度に集中、没頭できる才能。ある種の神がかりといえた。
その感性を極力ひきだすため、ネヴの戦い方は発勁、ひいては重心移動が生命線になっている。
筋力でなく気の力。重心移動によるエネルギーを作用する戦い方。
心に空をもつことで、心のまま、目の前の姿をありのままに理解できるように。
武術の基本であるが。丹田を鍛え、リラックスしつつ技を繰り出せる上虚下実の状態を保つ。気力を充実させて落ち着かねば、相手の深い深い部分まで、己の心を重ねて入り込み、弱点を知ることはできない。
姿勢が悪いと、骨格を支えるために筋肉に不自然なストレスがかかり、何もしなくても疲れてしまう。ネヴにとって相手を受け止める余裕のなさは生死に直結する。
いつもは、その安心材料を高めるために、頼れるアルフと一緒にいるのだが。
(落ち着け、落ち着け。アルフがいなくたってできる。私だっていい加減、自立しなきゃ。イデさんだっているんだから、もっと頼れる子にならないと)
胸に手を当ててさする。
アルフ曰く。皮膚を優しくさすると、オキシトキシンというホルモンが分泌される。「胸には神経が集まっているから、そこを撫でれば落ち着くかもしれない」とアドバイスされた。
(あれ、結局アルフいないとダメじゃない私? まいっか)
落ち着いてきたネヴは、緩やかに第三の目を開く。
心を波紋の立たない水面にして、土が欠ける音ひとつさえ拾わんとする。
「……こっちか」
狙うべきはただ一人。ダヴィデ・メチェナーデ。
その気配を見つけたネヴは、そちらへと歩み寄っていく。
刀を下げたベルトを自慢げに揺らす様子は、落ち着き払って散歩を楽しんでいるようにも映る。
ネヴは迷いなく複雑な通路のなか、通るべき道を進む。
数分も歩き続け、ようやく、目的の一室に辿り着いた。
炭鉱内では奇妙な、小綺麗な長方形の扉。金色のとってが眩しい。
抜けるような青い色に、ああ、とネヴはうめく。
(貴族の血の色か)
薄々ネヴはダビデの「基本方針」に気がついている。
周りの人間の心を反射して、その通りに動くとはいえ、ダヴィデには製造者である父親から与えられた役目があるはずだ。
自らの心と思考を持たないダヴィデが、ただ周りを反射するのではなく、その上で「どう行動するのか」を決める方針となる軸。
これからそれを対面するのだと思うと、気が滅入った。
(はいらなきゃ始まらないし、終わらない)
いいきかせ、ネヴは思い切り扉を開いた。
勢い余って乱暴になってしまう。がたんと大きくゆらいだ戸の向こうで、バターブロンドの青年が穏やかに小首を傾げて微笑んだ。
岩の壁で出来た部屋。その中に、白いテーブルクロスを敷いたカントリー風の長机と、椅子が並べられていた。
「やあ、ネヴィちゃん」
「地下のお茶会ですか」
「うん。ほら、地上だとみんな目立つから。夜はここで過ごしてるんだ。ちょっとずつ設備をととのえてる最中。この部屋も、君たちが急に来たから、机と椅子、食器しか持ち込めてない。ごめんね」
男性らしくかたばって、貴族らしく優雅な指先で、花の描かれた陶器のポットをかたむけている。
同じデザインのティーカップに、飴色の紅茶をこぽぽと注ぐ。
「どうしたの? 随分、難しい顔をしているけれど」
そういって、ネヴのいる方へソーサーをおく。
用意したからといって、ネヴが椅子に座って紅茶をたしなむとは、ダヴィデも思っていない。
「親しい客人が来たからもてなす」という形式をなぞっているだけなのだ。
証拠に、ネヴがカップのとってを摘まもうとすらしなくても、ダヴィデは名画の美女のような笑みを崩さない。
「私、貴方の件以降ずっと獣狩りをしているんです」
「そうなんだ。じゃあ、随分長いね」
唐突な切り出しにも、もっともらしく頷く。
「あのときは大変でした。夜遅くで眠いのに眼を使って、くたくたに疲れてるのにまだ集中。休もうとすると、貴方方を助けようとしているんじゃないかって疑われるんです。女の子だから甘えればいいと思っているんだろうとか、子どもだから遊び気分だとか言われたい放題。うんざりしました」
「大変だったね」
「大変だったね、ではありません。念入りに殺したのだから、丁寧に死んだおけ」
「そうだね。君の怒りは当然だ。でも、僕も自分から生き返ったわけではないもの」
会話が止まる。
君のしているのは八つ当たりだよ――そう言われているようだ。実際そうだ。
ネヴはこめかみを押す。
「ええ。貴方のお父様のせいです。彼はどこに? ききたいことがあるのですが」
「悪いけれど、会わせられない。代わりに僕が答えよう」
「ではまず第一に。お父様は生きてますか?」
「うん。息子は父親を助けるべきだからね。父が誰にも会わない限り、安心してくれていい」
「そうですか。では第二に。貴方がたの目的は? 家の再興ですか?」
「ある意味では、そうだね」
「まるで間違っているような言い方です」
「あってもいないからね」
ダビデはどこまでも爽やかなまま、よどみなく応じる。
己の行動に欠片の疑問も持たない空虚な応酬に、ネヴの顔が曇っていくのに気づいていないはずがないのに。彼女はわかりやすく顔に出るのだから。
心がないのだ。そして。
(こんなことをするのが、私の知っているダヴィデくんであってほしくないから。私の望みどおりに、心のない人形でいるんだ)
己の目が据わっていくのを自覚する。
続くダヴィデの返答が、ネヴの機嫌にトドメを刺していく。
「僕をつくった父様が望んだのは安寧だよ。君もよく知っているだろう?」
「安寧」
おかしくない言葉だ。人間、誰だって安心したい。
だが、ダヴィデの無感動な唇から吐かれるそれは、むごいくらい甘ったるく、不気味に感じた。
「僕たちメチェナーデは安寧を求め続けてきた。ネクロマンシー技術は町をまわすため以外には使わなかった。どんなにいい報酬を提示して、大きな工場で働かせるよう頼まれてもね。僕たちが魔術師として貴族の位を与えられ、預けられたこの土地を大切にしたかった」
「安寧……これが貴方の思う安寧なのですか」
ネヴは伏せた瞳で、ねめあげるように机を見やる。
皿の上にのせられたメインディッシュの魚のように、それはあった。
年端もいかない少年の裸の体。見覚えがある。
旅行者のネヴ達を面白がって、屋敷に入り込んでいた子だ。
もうしめられてしまっているらしい。首に縄の後が残っている。
「ああ、彼。そうだよ。きいてみたら、彼は近所で有名ないたずらっ子でね。いくらいってもきかず、見知らぬ人にも失礼をするから、迷惑がられていたんだ。母親も困り切っていてね」
「だから貴方が代わりに殺した?」
決定的に切り込む。ダヴィデはやはり、即座に「うん」といった。
「彼らは犬にする。誰かがイヤだなって思う人たちを役に立つ存在に変える。苦痛も味わわず、働かされているという意識すらなく、ヒトに感謝される存在になれるんだ。住民もうんと楽になる。嫌な人の尊厳が貶められるのを見て、幸福になれる人もいるしね」
「望ましくないものなら、いためつけられても仕方が無いというのですか?」
「なにをいっているの。これはみんなにとっていいことなんだ。何も考えず、感じず。みんな仲良く暮らしていける。デイパティウムの貴族としてできることをしてるんだ。貴族は人民を思いやる。父様の理想だよ」
ネヴの奥歯がガギリと鳴った。
「納得できない?」
「ええ。貴方が実行者役であるというのが最悪です」
ネヴはずっと獣狩りをしてきた。
そのなかで、彼女なりに積み上げてきた人間への思いがある。
彼女は獣憑き以外の人間を、あまり知らない。
獣狩りの職務と目のせいで、義務であるはずの学校にもいけなかった。
学校は集団生活の場だ。無数の若き命の未熟と身勝手、強さと弱さ、理想と嘲笑、煩悶が渦巻く場所。
そんな場所で、ネヴは正気を保てない。
他人を構成する精神そのものが見えるのだ。車酔いどころではない。針のむしろの中心にたって、鋭い刃をのませられ続けるようなものだ。
だから、獣憑きを追う仕事だけに没頭してきた。
そして、獣憑きはみな、灼熱の炎で鍛え、叩かれて磨かれる刀剣の如く、命と心を振るっていた。
「私は一般市民をまじまじ見たことがないからわかりませんけど。私の知る人間は、己のしたいことのために、全てをかける人達でした。酷いことをする人も沢山いたけれど、己をむきだしにする姿は美しかった。それが、何です? 貴方は?」
ネヴのいう「貴方」はダヴィデではない。
ダヴィデが反射している人間達。彼が貴族として守る住民達への怒りが、マグマのようにふきあがる。
「必要も無い疲れることをしたくない。無用な不幸を背負いたくない。だったら当たり前の思考回路です。みんな形は違っても、誰だって幸せになるために生きているはずですもの」
「そうだよ。この町の人たちは僕を歓迎している。面倒なことは全部僕たちがやる、彼らはしらんぷりをしているだけでいい」
「それが腹がたつんですっ!」
ダヴィデに言っても無駄だと知りつつ、ネヴは吠えた。
理不尽への憤怒で、心臓が燃え上がってしまいそうだ。
だって、どんなに嫌でも訴えても、ネヴの怒りは何も変えられない。
相手は無数の人間。この街にいる、獣でも何でも無い、たくさんの人なのだから。
「だって貴方がたいそう大切に語る町の人たちとやらは、もしコトがバレたら全部貴方が勝手にやった、自分達は何もしなかったといえるから、放置してるってことですよね。
つまるところ……
豊かになるために、生を全うしたはずの死者を使い潰す罪悪感も!
おぞましい手法を受け入れた自己中な人間と悪意の目を向けられることからも!
嫌いだからって他人を同調圧力で消してしまう責任も!
ちょっとでもつらい不都合を、悪意をもった人間だと白い目でみられる危険も!
ぜーんぶ何も感じない死者に押しつけて、善良な被害者面で得だけ総取りしたい卑怯者じゃあないですか!」
「うん。わかってる」
ダヴィデは悲しそうに目を伏せる。
森林色の瞳には、うっすら涙の膜が張っていた。
(どうしてこんなことをしているんだろう。どうしてこんな人達がいっぱいいて、ダヴィデみたいなのが生まれて、歓迎されてしまうんだろう)
そんなネヴのどうしようもない悲嘆を反射しているのだ。
高ぶったネヴの黒い眼にも、透明な液体がこぼれそうなほどたまっている。
ずっと座っていたダヴィデが机に片手をのせ、上半身を乗り出してネヴの頬に手を伸ばした。
その手つきにぞっとしない。アルフによく似た、幼子の頭をそっと撫でるような手つきだった。
「僕はみんなの、そして君の理解者になれる」