第八話「爺を背負って」
「ダヴィデの父親? それがなんでこんなところにいるんだよ」
イデの問いかけに、シグマは震えた声でかぶりを振った。
「わからない。でも、もしかしたら《燃え尽きた》のかも……」
ナイフを構えて、シグマは老人の枕元に立つ。
老人は形にならないあえぎを漏らす。空虚に天井を見上げるままだ。彼女はそのまま老人のまぶたを指で開き、懐中灯をさしこむ。
一連の反応を試すと、シグマの顔は嫌なものを見たように青くなっていた。
「Balamは人を強制的に獣憑きの状態にする薬。獣憑きって、大体みんな自分の命を削ってまで何かに執着する人達だから。最後の理性のひとかけらまで砕ききって、その結果、こうなる人も珍しくない……無理矢理、意思力を保ち続けたのなら、尚更」
「自分のペースを無視して、過剰に頑張り続けた結果、心が壊れるってことか?」
「そう。人の心って、削れて、壊れるの。激しければ、激しいほど。一生懸命生きるのは美しいけれど、こうなるのは……怖い」
シグマは長いまつげに縁取られた目をふせ、指先で老人の額に張り付いた前髪を払う。
怪我のひとつもないはずなのに、痛みを堪えるように軽く唇を噛んでいる。
「……こんな薬、大嫌い……」
消え入るように落ちた呟きは、広い部屋のなかに吸い込まれていく。
小さく開かれた白い唇から「大嫌い」の一言に、イデの首筋に冷たい汗が伝う。
物静かに絞られた音は、廃液の海の底から湧き上がった泡のように粘ついて、重苦しい汚泥に満ちていた。
心のひびからねっとり流れ込んで、汚すような。
瞬きをするほどの時間だけ現れたシグマの憎悪に、イデは彼女もまた獣憑きであることを実感する。
(一体なにをここまで憎んでるんだ?)
疑問を覚えたが口には出さない。
多分きいてもわからない。
ネヴやダヴィデを見ていてそう思った。
彼らが命を削り、獣にちかづいてでもしたい何か。
簡単に理解できるはずがない。所詮、他人。違う人間なのだ。
イデの人生と苦しみも、違う立場の他人から見れば全く理解できないものであろう。
善人面がしたいからとわかったふりをされても、腹が立つだけだ。
「で。どうするんだ、ここから。入ってきた道は使えないだろ。爪、まだがりがりやってるし」
「ちょっと待って」
シグマは気を取り直すようにメガネをかけ直す。
そして無骨なコンバットブーツのかかとで、とんとん床を蹴り出した。
「……何やってんだ?」
「反響、してる」
あちこちで同じことを繰り返すと、今度は何もない壁をぺたぺた触り出す。
「再三きくが、何やってんだ」
「音の反響で、ここに抜け道を見つけた……正確には、向こう側に、それらしきものを。でも、入り口を開けるものが見つからない……」
「鍵がいるってことか?」
「そうかも……ピッキングしようにも、鍵穴もないから、魔術的な封印がかけられているのかも。ネヴちゃんだったらなんとかできたかもしれないけど、私は、そういうの苦手だから」
壁に耳を当て、陰気にうんうん唸る。
シグマがダメならイデだっておてあげだ。
イデは思案すると、老人を親指で指す。
「じゃあ、あとはコイツか」
「……廃人に、鍵を持たせるかしら」
「かもな。鍵は部屋を虱潰しにするとしてだよ。おいてくのか、連れてくのか。足手まといになるっていうんなら、おいていけばいい。まあ、俺が思うのは、あの扉がたえきれなくなった後の話だよ。あのゾンビども、このジジイを食ったりしないのか?」
「…………」
シグマはしばし俯いて考える。
ネクロマンシー技術のおおもとがこの老人だとしても、今は廃人状態だ。
現状、実質的に操作を行っているのはダヴィデであろう。
息子とはいえ彼もまた製造された死者。果たして、ゾンビに父への接触を禁じるような、まともな思考回路をしているのだろうか?
イデとしては他人の命より自分の命だ。老人がどうなってもいい。
だが、シグマは明らかに老人に同情している。命を預ける同行者の心証を損ねるのはよろしくない。
(本当に、それだけだから。別にこんな老いぼれ、どうでもいいだぜ俺は)
誰に向けるわけでもない言い訳をしているうちに、シグマがおもてをあげる。
「連れて、いく」
「邪魔だぞ」
「いく……!」
シグマはかたくなに主張すると、老人を背中に手を入れ、抱き起こそうとする。
「無理すんなよ」
ベッドから出された老人に、イデも反対側から肩を貸す。
しばらく何も食べていないのだろう。骨のように軽い。
「……ごめん。私には重いから、君が支えて」
シグマは比較的長身だが、イデが加わるとそれぞれの頭の位置がガタガタに並んだ。
老人の足が浮かび、宙づりになる。哀れな姿に、そのまま自分が死因になりそうで、イデは素直に老人をおぶさった。
老人が楽になると、シグマは小さく安堵の息をつく。
「じゃあ、あの扉まで連れて行って」
「鍵は?」
「こういうのは、術者の血筋、存在そのものが鍵になっている時もある。アルフさんがいってた。試してみよう」
言うとおりにして扉に近寄る。
イデのおぶさった老人が、扉の数歩前まで運ばれた。
すると、岩の壁の向こうから、異音が鳴った。歯車がかち合う「ガチン」という音だ。
がろがろと重いものが動くメロディが連なる。
たっぷり十五秒後。チリリン、と滑稽なほど軽やかな鈴とともに、何もなかった壁が横に開いた。
「なんつうか。趣味が悪いな。こんなとこにこだわるなら、部屋自体もっと改装してやればいいのに」
「デパートのエレベーター……に似てる。形だけ、富裕層らしくしようとしてるのかも。ダビデ本人には心が、センスがないから、でこぼこなんじゃないかな。きっと」
シグマの推察に、イデは成程と頷いた。
彼女はすぐさまわかったようだが、イデには鈴が何の音なのか自体わからなかったのだ。
イデが通う店には、大抵エレベーターなんてしゃれたものはなかった。昇降機が必要なほど高い建物がないのだ。あるのは工場ぐらいだろう。
前に買った商売女が話題として触れていた気がする。富裕層の男に招かれた時を思い出して無邪気にはしゃいでいた。
高級ホテルに泊まって、初めて自力ではなくエレベーターボーイにボタンを押してもらったとかなんとか。客用の、安全で美しい、高級なエレベーター。そんな感じだろうか。
いや、そんなことを思い出している場合ではなかった。
死者の巣となった炭鉱に似つかわしくない変なものに思わず力が抜けてしまった。
「……いくか。迷子も見つけないといけないしな」
「放送センターでもあればいいけどね……」
シグマが懐中灯で前方を照らし、先導する。
三人が完全に隠し通路に入ると、背後で乱暴に扉が閉まった。また懐中灯以外の一切の灯が消える。道は細く、長い。一本道が先へ先へと続いている。モグラになった気分だ。
意を決して進んでいく。
十五分ほど歩いたか。白い光が見えた。
空間を裂くように、角の有る光が出口を飾っている。
「音は?」
シグマは目を細め、進行を続けた。敵は居ないということらしい。
イデも老人を背負い直す。
新しい空間に出ると、巨大な空洞だった。しかし、老人の部屋の何倍も広い。
卵形にくりぬかれた部屋には、釘を抜かれて分解された木箱が散乱している。
静寂が耳に痛い。
むき出しの土壁。うち捨てられた塵。乱雑であるはずなのに、生の気配のない完全な静寂は、聖堂の如き神聖さを思わせる。
その奥に、白い布にくるまれて、黄金の人形が幼い少女のように膝を抱えて鎮座していた。
耳を澄ませて周囲を警戒するシグマの肩を軽く叩く。
イデが示した鎧人形に気がつくと、シグマも驚いた様子で息をのむ。
「駆動装甲……」
「前に襲ってきた女が使っていたやつだ。やっぱりあのビクトリアってメイドだったのか」
「でもこれ、あまりいいものではないね。実用的でないというか……」
「弱いのか?」
「弱い強いは無粋だよ。一応いうと、これは動く。性能もいい。兵器としては強力かもしれない。でも人が乗れるようなものじゃない。細すぎて、美しすぎる。見目と性能のために、乗り手となる人間をみじんも考えてない……
多分、アンティークの恐怖機関が内臓されてるのかな。機械自身が動けば、使えないことも……ああ、でも乗り手がいるのか。どうやって使うんだろう……」
「詳しいんだな」
そういうと、呟いて没頭していたシグマは、はっとして我に返った。
恥ずかしそうに顔を赤く染め、ふるふる首を振る。
「いや、私は。詳しくない……知り合いが乗ってたんだ。聞きかじりで覚えてただけ。私のいったこと、鵜呑みにしちゃダメだよ。きっと何かが間違ってる」
「ふうん」
曖昧に頷いて、考える。
知り合い。それが、初めて会った時にいっていたベエタなのだろうか。
「ま、ここにコイツがあるからって、俺らにどうこうできるわけでもねえか」
「……そうでもないかも……」
嘆息して次を探そうとしたイデの袖を、シグマが摘まんで引っ張った。
「音を聞いた限り、ここでもう行き止まり。帰ってもゾンビがいるし」
「……あー。もしかしてだけどな。だから『コレ』を使おうって?」
「いい勘してる。乗るのは無理だけれど、動かすことはできるよ。知り合いに、あれに触る時の注意点を教えてもらってるから……」
やっちゃいけないことをしよう。
そういってシグマは、木箱の残骸から工具箱を拾い上げた。