第七話「死せる宿り木」
ネヴを追いかけて炭鉱に飛び込んだイデは、数分とたたずに停滞を余儀なくされた。
理由は単純。前が見えない。入り口から離れてしまうと、炭鉱には一切の光源がなかった。
何かと明かりの不足しているバラール国であっても、これほどの暗さは滅多におめにかからない。
バラール国から熱く眩しい太陽が失われたのは、蒸気文明の過剰な発達のせいだ。
偽物の街灯ならばあふれている。
中心から離れるほど貧しく、街灯も減っていくため、イデは暗さにはそれなりに慣れているつもりだった。
しかし、地中の闇とは比べものにならない。
外界と遮断され、狭く苦しい空間にはむせるような削った土の臭いが充満している。自然むきだしの姿であるはずなのに、自分自身以外の生命の気配はない。
炭鉱そのものが枯れた山の死骸であるかのようだった。
(懐中灯、使っていいのか?)
暗闇で灯を使えば、何者かに見つかって襲われるのではと嫌な想像がかけめぐる。
だが結局、モグラではないのだから灯なしには前に進めない。携えた懐中灯に手を伸ばす。
その手をぬるりとした湿った手が掴んだ。
スパルタ付け焼き刃中、対応できるようになるまでやると何度も何度もアルフに不意打ちを食らって床にたたきつけられた記憶が蘇る。
反射的に体が動いた。
視界の悪さのせいで逆転はできなかった。互いの腕や胸ぐらをつかみあい、膠着する。
「クソかよッ」
相手の姿は確認できない。
イデを掴む手が慣れ親しんだ五本指であるからには、人なのだろう。
だが掴んだ衣服は何年も洗われていない油まみれのボロキレといった風の感触で、気持ちが悪い。皮膚に至っては生物と思えぬほど乾ききっている。
死んだものが激しく動いて、襲ってきている。
一言でいえば、その違和だった。
早く離れたい。そう願って、力んでしまう。
(しまった)
りきんだ途端、体のバランスが崩れる。
さっと血の気が引く。
(無駄にりきんじまった!)
骨盤中央にあった横隔膜を圧縮する感覚があやふやになる。重心があがって、地に足がつかず安定が悪くなったのだ。
幸いイデの体格、すなわち体重は多い。
すぐに体勢を立て直す。
(こんなところをアルフやシグマに見られたら、面倒くさいことを言われる)
そう思ったのもつかの間。時は既に遅かった。
イデを襲っていた人の死体の動きが急に止まった。
「もう少し練習すれば、モノになる……かな。意外と胆力があるみたいだけど、喧嘩慣れしてるの?」
控えめでボソボソ呟くような話し方。近づこうか距離をとろうか、接し方を探っている中途半端な物言いの女の声が鼓膜を揺らす。
同時にゾンビが引き離される。イデは今度こそ懐中灯を手に取り、眼前を照らした。
壊れそうに白い腕がゾンビの茶色い首に巻き付いていた。
そのままシグマは首を折る。
イデが苦戦していた相手を、花を手折るようにあっさりと。……花と言うには完全に腐っているが。
渋い顔で懐中灯をかざされて、シグマは死体を地面に落としてから眩しそうに光から顔をかばう。
「そんな顔をして。私がおばけにでも見えたの……?」
「別に。一人でもどうにかなったが、一応いっておく。ありがとう」
「どういたしまして」
おばけというより人形やエルフといった形容が似合う。端麗な顔立ちだ。
イデが礼をいっても、シグマはその顔に喜びひとつ浮かべない。
タラシみたいでイヤだからそう思ったことは黙っておく。
「けど、なんでここにいるんだよ。アルフはどうした」
「一人でどうにかなるといっていたので……おいてきました」
「自信家だな、あのオッサンも……」
「ううん……あの人は無理しない主義だから。君が一人でいかなければ、そんな指示はださなかったと思うよ」
そういわれては黙るしかない。
眉間の皺を深くするイデに、シグマはおろおろと目線を下げる。
「慌てても仕方が、ない。君は慣れてないし、犬にさらわれたら、心配にもなる。ジャムがなければあのまま作戦通りにいったはず。普通、カラシニコフは滅多に弾詰まりしないんだけど……ね。よほど運が悪いらしい」
初めて会った時が嘘のような態度に、どうすればいいかわからない。
シグマも自覚があるのか、気まずそうだ。単純に懐中灯が眩しいのかもしれない。
イデはかぶりを振って雑念を振り払い、あたりを見渡した。
右にも左にも道は延びている。しかしネヴの痕跡らしきものは見つからなかった。
イデにこれ以上の手段がない以上、シグマが何かできることを祈るしかない。
(そういえば、ここに来るまでも一本道じゃなかったな)
イデはそれまで通った道の感覚から、頭のなかに仮の地図を作ってみた。
正しい自信はないが、無作為に動くよりはマシだ。
以前アルフに見せてもらった地図を思い出して照らし合わせると、いくらか増設された道もあるが、概ね合っているような気がする。
そこで、シグマに対して疑問が浮かぶ。
ちょっとしたアリの巣のようになっているというのに、シグマはどうやってここに来た?
口に出して問うて見れば、シグマはなんてこと無い風に答える。
「私は耳がいい……から。あなたがうるさく騒がなければ、ある程度の夜目は利くし、音でどこで何がどうしているのかもわかる」
「音?」
「音響の具合で、色々図るというか。今なら足音。音が聞こえてくる向きで行き先を、足音の大きさやリズムから身長や体重、体型、反響から場所の特徴と位置を把握して……とか、そんな感じで……」
「獣憑きってのは超人芸みたいなやつばっかりだな」
イデが感想を漏らすと、シグマは複雑そうに口をモゴモゴさせる。
「なかには使い勝手の悪い人もいるけど……ほとんど一日中寝てるばかりで、夢のなかでしか意識がない人とか……」
他の獣憑きの話をしたところで、シグマが急に目を見開き、早口にまくし立てた。
「早くここから離れた方がいい」
「勘か?」
「確信。呼吸音はしない。でも、上から、衣擦れの音がする」
二人そろって上を見上げた。
炭鉱に広がっているはずの、ごつごつとしたむき出しの岩壁はなく。
輪郭が闇にとける穴のなか、ぽこんと膨らんだ細いものが編み目状にはりめぐらされているように見えた。かすかな光を反射して、点々と散らばった球場のものがぬめりを放つ。
宿り木みたいだ、とイデは思った。ソレが何か、最初はわからなかったのだ。
よく見ようと目をこらす前にシグマが背中を叩く。
ハンマーで殴られたと思うほど痛い。
橋の下からさらわれて付け焼き刃をされている最中にもよくやられた。
主にランニング中。意味は「足を緩めるな」。
イデはしつけられた犬の如く、考えるより先に走り出す。
背後でボトボトと重いものが不格好に落ちる音が聞こえた。
ようやくイデは宿り木の正体を悟る。
この炭鉱はネクロマンサーの巣。痩せ細ったミイラに酷似したゾンビ達がトカゲかコウモリのように、天井いっぱいに張り付いていたのだ。
イデは必死に地図を思い出す。
(まずい。どの道いっても、最後は追いつかれる)
古い地図では、上から下へ流れていく川のように道が繋がっていた。
どこにいこうが、必ず道は繋がっている。
狭い通路で多勢に無勢。あちらは疲れ知らずの死体で、こちらは息切れし始めている生者。
じり貧だ。やがて訪れる光景の想像図にぞっとしない。
勝ち筋を探すなら、まず大量のゾンビどもから離れて落ち着ける場所に辿り着く必要がある。
既存の地図に希望がないのなら、頼れるのはシグマの耳と、地図にない増設された道だ。
「シグマ、俺は新しい道を見つけたら教える! アンタはその道の先に逃げ込める先があるか探りを入れて、教えてくれ!」
「わかった!」
二人は並列で炭鉱を走り抜ける。
イデとは随分歩幅が違うというのに、シグマは相当足が速いらしい。
イデの案内で三、四回ほど角を曲がったところで、シグマが一歩前に飛び出した。
「こっち、奥に空き部屋がある! 逃げ込めるかもしれない!」
「よし!」
シグマの示す方へ一気に速度をあげた。
ネヴの異能を目撃しているからこそ、シグマの言葉を迷わず信じる。
疲労と酸欠に意識がぼうっとし、少しずつ不揃いな足音の合唱との距離が近づいてきた頃、赤い扉が目に飛び込んできた。
「先にいけ!」
シグマの背中を前に押す。少しでも早く先へ進ませたかった。
シグマは全力疾走の直後とは思えない冷静な所作で扉を開く。
彼女が入り込むのを確認してから、イデも後ろでに侵入し即座に閉めた。
向こう側からゾンビ達が扉を掻きむしり、岩をかく。爪が折れる音が耳障りに鼓膜を揺らす。
冷たさと暑さの混じる汗をぬぐって呼吸を整える。
そして部屋に向き直ったイデとシグマは声を失った。
イデは驚愕、シグマは呆れからくる反応だ。
気の滅入るような炭鉱で、その場所は異質だった。
ひときわ大きな空洞を広げたのだろう部屋だ。
壁は手つかずのまま。
しかし部屋の中央には天蓋憑きのキングベッド。
天井からは舞踏会の方が似合いそうな巨大なシャンデリアがぶらさがっていた。ガラスが宝石のように七色に豪奢で神秘的にきらめいている。
美しいのだろうそれは、イデにはこんなところに照らされてモノとしての命を無駄遣いさせられている、哀れな屍に見えた。
他には実用的な物品が詰められた棚と家具だけの殺風景な空間が、余計にそう思わせた。
「ベッドから浅い呼吸音がする」
シグマがナイフを構えた。二人で慎重に近づいていく。
ベッドに横たわる人物を目にして、得心する。
すべからく居住空間というものは、ヒトのためにある。
部屋は生活に密接し、生活とは個人の生き方に根底をなす。
どういう部屋になるかで、人柄も如実に表れる。
ベッドにいたのは老人だった。考えずとも、彼がこの部屋の主だとわかった。
一昔前の貴族のような豪奢な服は、シャンデリアのように空虚な華美を誇示し。
痩せ細ったシミだらけの肌とぎょろついた目玉は、手つかずの壁のように荒れ、繕えない。
多くの羽毛枕の上に小さな頭を乗せ、よだれと妄言をぶつぶつ垂れ流していた。
老人を見て、シグマが苦々しげにその名を呼ぶ。
「パトリツィオ・メチェナーデ……メチェナーデ家当主、ダヴィデの父親!」