第一話「橋の下からさらわれて」
ひとつ転ぶたび、楽になれた。
ひとつ間違えるたび、苦しくなった。
でも、世にはびこる価値観でいえば、転ぶことと間違えることはとても近いところにあって。
だからいつも、物足りなくて、息苦しくて。
ただ、私は幸せになりたかっただけなのに。
* * *
巨狼の事件から一週間。イデは橋の下で暮らしていた。
イデの人生を大きく変えたこの怪奇的事件で、家が木端微塵に破壊されてしまったからである。
決してイデ自身がへまをしたせいではないから、精神的にはあまり落ち込んでいないのが不幸中の幸いだ。
それに家出をしたばかりの頃にも同じような生活をした時期がある。慣れていた。
ドラム缶で焚いた火で暖まり、湯を入れる。
かろうじて持ち出したマグカップにココアをいれるのだけは欠かせない。
曇り空が無限の天井。空の下にあるすべての空間がイデの自室。
くすんだ空気も朝は若干清らかなものに思える。
上着をはおいなおすような冷えた空気が、とろりと甘いココアの味わいを深くする。
控えめな人々のざわめきをBGMに、穏やかな時間を過ごす。
そんな生活も七日目だ。
神が仕事を終えたように、イデの休養も七日目に終わった。
朝の下層区に耳障りなブレーキ音が響く。
無謀にダイナミックな摩擦をありありと知らせる音は、自然とイデに凄まじいドライブを思い出させた。
静かに耐え忍んで生きることに優れた人間がいれば、電撃の如く生きる者もいる。
猫背で丸まっていたイデの前に、朝からきっちりと着込んだネヴが満面の笑みで現れた。
「おはようございます!」
「お、おう」
「やあイデくん、いい朝だね。今日は素晴らしい散歩日和になりそうだ。それはそうとして、ちょっと来てもらっていいかな? 来れないってことはないと思うけどね」
後部座席からアルフも出てきた。気のせいでなく顔色が悪い。
「全く連絡がないから、忘れられたのかと思ったぜ」
「ああ、すまないね。色々整理とかしていてさ」
「いいけどよ」
「早速なんだけれど出かけよう。どうせ家も壊れて大した荷物もないだろう?
新しい住処も用意した。引っ越しと説明会だ。わかったこととか、オレ達のこととか……まあ色々教えよう。君に会わせたい子もいる」
そのままイデは強引に車に押し込められる。
こんな平和な朝だというのに、何か焦っているようだ。
「いったいなんなんだよ……」
「実をいうとね、少し急ぎたい用ができたんだ」
ネヴ達の乗る黒い小型車は、天井が高く見た目より車内が広い。
だがイデが座るにはやや小さいのは否めなかった。
できる限りくつろぎつつも窮屈そうなイデに、アルフがシートベルトをつけたまま向き合う。
「先日、お嬢あてに古い知り合いから手紙が来てね」
「それが俺に何の関係が?」
「そう急がないで。これは博士に関連することでもある」
「…………」
博士。イデに鞄を押し付けた男。
途端に沈黙したイデにアルフは満足そうに微笑する。
「よし、いい子だ。
手紙の差出人は、パトリツィオ・メチェナーデ。今は亡きお嬢の母君と親交があった貴族だ。
ひいてはお嬢の主治医だったドラード先生とも面識があった。
前にお嬢から聞いたんだって? だったら察しがつくかもしれないが、このメチェナーデ家も魔術師の一族でね。
だが、へまをした。
魔術というのは、人工的に無意識の海の底から特異な力を引き出すわざでもある。
そして今のバラール国では存在してはいけない技術だってことになってる」
「つまり、へまをした魔術師の処分も《あんたら》の領分だ、ってことか?」
「その通り。そしてこれからは《君の》領分になる」
ネヴとアルフが属し、イデも加わる組織を、アルフは「ANFA」と名乗った。
《表向きは事実でない》ために真剣に扱うことのできない怪奇現象、奇っ怪な事件を、公的組織に代わって解決する組織である。
「へまって?」
「メチェナーデ家はネクロマンサーだった。バタバタ死んでいた身よりのない下層民や忘れ去られた古い民の遺体を使って、人知れぬ夜間に、領民の農作業だとか、土地の整備だとか色んな仕事をさせていた。
地元では妖精の仕業だとして、目撃者がいても見て見ぬふりをしていたんだ。冒涜的であっても直接的な害はないし、人々の助けになってたからね。
だがよそ者からすればそうはいかない。
ある日、たまさか滞在していたよそ者に作業する遺体を目撃されちゃったのさ。
何をいおうが無責任なのも相まって噂を広めてしまった。口に戸の立たぬまま尾ひれがついて、おかみもいよいよこれはまずいと懸念しだした。まあ、他の魔術師からすれば鬱陶しいズルに感じたというやっかみもあるだろうけど。
で、オレ達の出番だった。
その時かつぎだされたのが、神隠しから戻ってきて魔眼を得ていたお嬢だ。
いきなりいなくなられては、ますます怪しまれる。だったらいっそ、彼らが持っている魔術からちからが失われるよう分解しようという話になったんだ。
お嬢は魔眼を使って、彼らが長年をかけて頑健に蓄積してきた術式を解体した。風船に穴をあけるみたいにな。
時間が経つごとに、魔術的な効力は空気が抜けるように失われて、やがてただの凡人になる。息子のダヴィデの代になる頃にはスッカラカン……のはずだった」
「はずだった? まるで失敗したみてえな言い方だな」
「ああ。もしかしたら失敗したのかもしれないんだ」
イデの疑問に素直にうなづいたアルフだが、その顔は納得がいかないとばかりにひそめていた。
「近頃、そのメチェナーデ家の領地で、また動く遺体が目撃されているらしい」
「やっぱり失敗してたのか」
「いや。少なくともここ数年は、確実に彼らは力を失っていっていたんだよ。それにただ死者が動くというだけなら、解体が不完全だったともいえるが」
「まだなんかあるのか」
「むしろ、『なんか』の方が問題だ」
頭が痛いとばかりにコメカミをぐりぐりと押す。
そんな横顔さえ秀麗でさまになっている。だが、いつも余裕のある彼の悩ましげな姿に、イデはうすら寒いものを感じてしまう。
「先程、パトリツィオには息子のダヴィデがいるといっただろう」
「あー……ああ。いってたな」
アルフから聞いた話を振りかえる。
確かに言っていた。
「そのダヴィデは、魔術解体から数年後に亡くなった。別に魔術師として血筋に刻んだ技術が失われたせいで弱ったとか、そういうわけじゃないんだけど……やはり騒動が祟ったのか、弱ったすえに病にかかって、ね」
「気まずいのか?」
「気まずいさ。でも、ずっと引きずるわけにはいかない。でもねイデくん、メチェナーデ家は《ネクロマンサー》なのさ」
「…………まさか?」
「きっと君の思うまさかだと思うよ。つい最近、次期当主として亡くなったはずのダヴィデが現れたらしい。しかもただの遺体じゃあないんだ。
昼から当然のような顔で領地をまわり、ひとりひとり民をいたわるらしい。
生きていればそうなったであろうという、深い森林色の目をもつ美青年に成長した姿で、ね」
「そいつは、つまり」
アルフの語り口調は読み聞かせのように角がないが、どうにも遠回りだ。
国語のテストの気分だ。
アルフの語る情報から、彼の言いたいことを読み取る。
「死んだはずのやつが、まるで生きてるみたいに存在してる、って?
それが博士に繋がるってことは、アレか。ルーカスをああにしちまった薬が関わってるのか」
それは、イデに鞄を託した男――ライオネル・ドラードがつくってしまった恐ろしい薬だ。
仮に「Balam」と名付けられた、人の抱える獣性を刺激してしまう悪魔の薬物。
ルーカスもまたBalamの被害者である。
隠れた感情を抱えていても、彼の想いはあくまで誰しも抱えうるものだった。
この世にはこの世ならざる世界、神秘渦巻く『無意識の海』なる異界が存在する。
そして本来ならば認識すらできない領域への扉をうっかり開いてしまう人間がいた。
彼らは異界への扉から、望む望まざると関わらずに影響を受け、扉をあけるきっかけとなった《鍵》によって異能を得てしまう。
例えば、見えぬものを視る目。あるいは異形に姿を変える能力。
《獣憑き》と呼ばれる、異能の者となるのだ。
Balamは人工的に《鍵》となる獣性を喚起して、ルーカスを獣憑きに至らしめてしまったのである。
「アンタは、メチェナーデって奴らがBalamを使って、異能で失った魔術めいたことをしてるんじゃないかって考えてるんだな?」
「そんなとこ。何より」
アルフは一端、言葉を止める。
きゅっと唇を引き締め、わずかな時間、日頃は穏やかな彼の瞳に剣呑な光が灯った。
「お嬢に恨みがある奴らのはずの家が、わざわざ呼び出しをしてきたっていうのもひっかかるね……」
むしろ、それが一番気になるのだと。
押し殺すような呟きには、隠しようのない敵意が滲んでいた。
「あんた、心配性が過ぎるんじゃねえのか」
「うん? なにがだね? まあ、ともかくだ」
おっかないものを感じて忠告すれば、アルフはコロッといつも通りの明るい顔に戻る。
そして手をうって、自分で気を取り直した。パンパンと乾いた軽快な音が鳴る。
「Balamは危ない。少しでも情報を集めて、一刻も早い回収に努めたい。メチェナーデ家も気になる。手がかりにもなると思う。だからオレとお嬢は、この件を早急に調べたい。が、どうにも人手が足りないという。
だから君に、なるはやで付け焼刃をすることにした」
「俺?」
「イエス、オフコース!」
満面の笑みだが、先程のアルフの表情もある。
話を聴く限り、イデはまたネヴとともに行動することになるだろう。
アルフがイデに期待していることを予想するのは、そう難しくない。代わりも少ないお嬢様の壁のひとつであろう。
(大事なお嬢を守る、なるべく優秀な壁にしてえんだろうな……)
このなんだかんだお嬢に甘いお目付け役が、優しい指導をしてくれるとは到底思えず。
イデはバレないように注意して、こっそりため息をついたのだった。
** *
「さあ、着いたよ」
連れて行かれたのは、山奥に開かれた研究所らしき場所だった。
研究所だと思ったのは、小奇麗に整えられた森をバックに、いかにも近未来的なデザインをした場所物があったからだ。
壁のほとんどすべてがガラス張りの、正方形の建物である。
やや年季を経てガラスに傷がついているものの、十二分に珍しい。
数年前にどこかの美術館に作られたという、ガラス製のピラミッドを思い出す。
広く拓かれた庭には、小さな小川まであった。最も、今は水が流れていないらしく、干上がって底の草が外気に葉を晒していた。
「しばらく無人の予定でね。ここで君を鍛えよう。期限は一週間だ、オレの腕もなるなあ。楽しみだよ」
「お手柔らかに」
「はは」
笑っただけで返事が返ってこないのに辟易する。
慣れない光景に落ち着かず、つい上着のポケットに手を突っ込んで立ち尽くしてしまう。
すると、研究所から人が出てきた。
肩に垂れるほどの細い金髪が風にあおられ、羽毛のようにふわっと風に浮く。
金髪は迷うことなくイデ達に向かう。
近づくにつれ姿がはっきりしてきた。ベージュのダウンジャケットを羽織った眼鏡の女だ。
「やあ!」
親しみを込めてアルフが片手をあげた。
応ずるように女も手をあげ返す。
音もなく二人の前で足を止め、ぴしりと背筋を伸ばして直立した。
(俺の苦手なタイプか?)
生真面目な性格が透けて見える。
女もまた凍えるようなアイスブルーの目で、真っ直ぐ過ぎるほどに真正面から目を合わせてきた。
針金を仕込んだような直立姿勢がなければ、ガンを飛ばされたと勘違いしていたところだ。
彼女はイデから鉄砲玉のような瞳を逸らさないまま、早口でアルフに質問をした。
「彼はベエタの代わりですか?」
「いや、違うよ」
(ベエタ?)
知らない単語に首を傾げたが、二人とも教えようとはしない。
アルフがぴしゃりと返答を叩きつける。それでシグマは首肯して、謎めいた問答は終わった。
そこでようやく目線が外れる。
「イデくん、紹介するよ。彼女はシグマ。オレ達と同じANFAのエージェントだ。君に護身術を教える」
「初めまして。シグマです」
聞き逃しそうなほど小さい声に、イデは眉をしかめる。
アルフがあらかじめ名前を告げていなければ、自己紹介だとわからず流してしまっていた。
「前もっていっておくが、彼女に悪気はないよ」
「なんでこんな声が小さいんだよ。俺が喋ったらきこえねえぞ」
アルフが小声で話しかけて来たので、イデも小声で耳打ちを返す。
「シグマは超人的な聴力を発揮する獣憑きなんだ。普通の声量でも大声みたいに聞こえるらしい。なるべく小声で話してあげてね」
「ネヴみたいなやつってことか。わかった」
「そうこっそりお話をなさらなくても、心配する必要はありません。当方で対策します」
シグマは口を挟んで、自分の両耳をおおうイヤーマフを叩いてみせる。
本人からすれば気遣いのつもりなのだろう。
だがイデからすれば、ますます苦手意識が高まるのだった。
「では早速ですが、体力テストから始めましょう。自分は訓練のためにあなたをよく知る必要があります」
「……うまく付き合える気がしねえ」
「その点もご安心ください。わたしもです」
「へえ、気が合うじゃねえか」
自然と吊り上った口許が、同時に苛立ちでひきつるのをおさえられない。
アルフは睨みあう二人を見比べて、乾いた苦笑をしたのだった。