博士のある日の出来事・1
この一幕は、かつて碩学と呼ばれた男の過去である。
名をライオネル・ドラードという。
蒸気文明の絢爛たる発展が著しいバラール国にあって、心と薬と神秘に情熱を捧げた元奨学生だ。
下層の出身ながら柔軟な理解力を活かして、チャンスをつかみ取った男だった。
それも全ては過去のプロフィールだ。
これは過去である。
かつて碩学と呼ばれた男が、その座を失い、イーデン・カリストラトフという青年にトランクを押し付けるまでの経歴だ。
これは過去である。
なかでもこの記憶は、「ライオネル・ドラード」という男の始まりの記憶だ。
** *
「ライオネル・ドラード」。そう書かれた名札を首から下げて、私は新しい職場に足を踏み入れた。
先進的にもほどがあるガラス張りの建物に入るのには勇気がいった。現実逃避に庭に目を向ければ、人工的に作られた小川がある。
下層出身の私は、いまだそうした光景に出合うと「私がいるには場違いだ」と思わずにいられない。美しい光景だが、頬が緊張でぴくぴくと痙攣してしまう。
「あんまり長居したくないなあ。って、これからここで過ごすのか……はあ……」
腕時計を見れば、午後の二時だ。
使い込んで茶色いベルトがボロボロにほつれ、黄色い中身が飛び出している。
昼食をゆっくりとってリラックスしてから来ようと思ったが、約束の三時まではまだ時間がある。
「はあ」
結局リラックスなどできなかった。
カフェでトマトと卵のサンドイッチを食べて、熱いコーヒーを流し込んだものの、気付けば肩にちからが入ってしまっているし、眼鏡をかけた目もやたら疲れやすい気がする。
今の私には何もかもが足りない。
腕時計だってそうだ。
このような古い安物をつけていては悪印象を買うかもしれない。だが、今の私にはこれしか手持ちがないのだ。
金はない。好きな研究もできない。日々を暮らすのも、そろそろ困難が見えてくる。
もっといえば、そんな状況でなければ、熱心な勧誘を受けたとはいえこんなところに再就職はしなかっただろう。
一か月ほど前に行った主張で、私はすっかり碩学落第の烙印を押されてしまった。
その主張は、まあ、最初からリスクを覚悟してはいたとはいえ、だ。
「この世界に神秘は実在する」
確かにこれまでの現在のバラール国の状況を思えば、子どもの妄想めいた主張だったかもしれない。
そもそもの原因となった友人宅へ招かれる前の私だって、鼻で笑い飛ばしていただろう。
実際、友人が青ざめた顔で「家に怪物が出る」と告白してきた時、ノイローゼを疑った。同じ奨学生上がりであった親友の彼に、精神病院を進めるべきか心底迷ったものである。
だが、私は彼の家で見たのだ。
顔のない人の顔に、黒い獅子の身体を持つ獣が、友人の家をうろつきまわるのを。
グロテスクな黄金の目を張り付けたような模様を全身に貼り付け、三百六十度ねめまわしていたのを。
無貌の獅子が友人とその子息を丸のみにした時、私は決意した。
どのような結末になろうとも、この事実を伝えるだけは伝えねば。
突如乗り込んできた妖しい一団が助けてくれなければ、私もあの獣に食われていただろう。
生き残った私にしかできないことだった。
と、まあ。かっこつけたはいいものの、転落した今となっては正義感に駆られて馬鹿なことをしたと思う日もなくはない。
私は溜め息をつきながら、カーテンもない廊下をぼんやりと歩く。
あますところなく日の光がふりそそぐ通路にある影は、私のくたびれた影法師だけだ。
待合室と思わしき場所にたどり着いたが、誰もいない。
真っ白いデスクと椅子、そして客用の革ソファーだけが堂々とした様子で飾られている。
いかにも高級そうなソファーだ。
黒い生地にはうっとりするような濡れた艶がある。軽く手を触れれば、猫の腹みたいにへこむ。
恐る恐る座ってみる。
すると黒いソファーは何の抵抗もなく私の尻を沈ませた。空に浮かぶ雲に座ればこのような感触だろうか? 夢見心地とはこのことだ。
まるで大企業の社長になった気分だ。
奨学生になり、碩学と呼ばれる程度には学問をおさめ、中流階級と呼ばれる地位になっても、ここまでの贅沢はできない。
最も、それらすべて、築き上げたもの全部を、失ってしまったのだが。
惨めな立場を思い出して、気分がまた暗くなった。
私はだらけかけた姿勢をただし、何度も読み返した手紙を取り出す。
何もできることがないので、うっかり間違えないように「新しい私の名前」を復唱しておくことにしたのだ。
「……ライオネル、ライオネル。ライオネル・ドラード。私はライオネル・ドラードです……」
ぶつぶつ呟いて、心身にその名を叩き込む。そうする必要性に迫られていた。
全くおかしな状況である。
いかにも高級なオフィス(だというのに誰もいない)、私の名前(しかも本当の名前ではない)、そして新しい職場ではニセモノの名前を名乗るように指示を出されている!
しかし、かなしいかな。提示された私の給金とやらは、干された中流階級研究者を続けることが馬鹿らしくなるぐらい待遇がいい。
そして、この奇妙極まりない状況に不安を覚えながら、期待をおさえきれない私がいる!
これはとんでもない詐欺なのでは?
幾度とない疑念に駆られる。同時に、私の頭にはここに至るまでの経緯が走馬灯のように思い出されだした。
* * *
まず、最初にライオネル・ドラードという名で呼ばれたのは、そう。
数日前のことだ。
私はそれまでに住んでいたヘリングの安アパートにいられなくなり、引き払う準備を進めていた。
手伝うものもなく、数日係で荷物を纏めていた真っ最中である。まだ片付けの半分も終わらぬのに、近所から向けられる目が冷たくなっていくのに心が擦り減っていた。
誰もいない早朝を狙い、肩からブランケットをかけ、ポストを覗き込んだ。
名前もみたくない嫌いな碩学からのあおりの手紙に、ことをしった人間からの誹謗中傷、そして請求書。うんざりする中身しかない。
そのなかに一通だけ、他と異なるものがあった。
上等な紙でできた真っ白な封筒である。
相手の住所はない。口紅のように赤いシーリングスタンプの封筒には、「ANFA」とだけ書かれていた。
両面を裏返しにしてみて、私は首を傾げる。
手紙の宛て先は、私とは違う名前だった。
手紙のなかには、書類と名前入りのカードが入っていた。
その名前がライオネル・ドラードだ。
響きは懐かしく感じる。きっとその名の由来は私と同じ故郷から来たのだろう。
しかし、これが私の新しい名前だといわれたら、ピンと来ない。
悪戯かと思って捨てようとした時、はらりと中身が落ちてしまった。
私は字が見えると、ほとんど癖で内容を追ってしまう。
途端、脳が火花をあげた気がした。
ばっと床に襲いかかる勢いで手紙を拾う。
手紙の内容は、私を「ANFA」という組織に勧誘するというものだった。
そのすべてが私を強くひきつけた。
高額の報酬。私の主張への賛同、提供可能な研究へのサポートの充実といったら!
しかし、甘い蜜には毒があるぐらい、私にだって理解できる。
それでもなお私に決断させたのは、研究してほしい対象の提示だった。
彼らは――なんということだろう――《怪異》を研究して欲しいというのだ。
* * *
怪異。怪物。異常なるもの。
なんと荒唐無稽で恐ろしく、魅力的なのだろう!
今や私が神秘に寄せている想いは、とっくに正義感だけではなくなっていた。
私が碩学になれたのは、私が真面目に勉学に打ち込んだだけでなく、幸運あってのものだと思っている。
我ながら、艱難辛苦に粘り強い以外にとりえのない平凡な男だ。
それでも一応は学者の端くれというべきか。
荒唐無稽――すなわち「わからない」ということは、「これから新しくわかることがある」ということかもしれない。
お伽噺か未開人の願掛け程度にしか思われていない神秘の世界が実在するとすれば、そこにはどれほど美しい原石が詰まっていることか!
碩学の多くが蒸気機関に携わるなかで、医療や精神医学に関心をもったのも、ひとえにその分野に未開の領域が多かったからだ。
私の知らない原石に出会える。その研磨作業ができるかもしれない。
見たい。そう思わずにいられない。
私の手で磨かれた最高の宝石を見てみたい!
おお、まさにそれこそは可能性のフロンティア! そのためになら私が多少危険なめに遭う可能性があったって――
「センセ、大丈夫かい?」
「かまッ!?」
急に話しかけられ、変な声が出てしまった。
いけない。すっかり自分の世界に突入していたようだ。
「かま……?」
「あっ、ああ! すみません、考え事をしていたもので、少しも気づかず」
「そういうことか。そのソファ、居心地いいもんな。つい開放的な気分になっちゃうの、わかるよ。家にあったら仕事があってものんびりしちゃうだろうな。悪魔の家具だよ」
話しかけてきた男は快活に笑う。
見事な赤毛に美しい顔をした瀟洒な男だった。
だが私は気づいてしまった。ベストがうっすら盛り上がっている。思わず唾をのむ。
フィールドワークもしていたが、基本的に家にこもりきりで運動不足の私には絶対にないものだ。
この男、胸筋がある……。
「えーっと。オレ、なんか変な恰好してるかな?」
「アッ、いえ、別に!」
また声がひっくりかえった。
恥ずかしい。いっそ殺せ。
顔に熱が集まっていく。それをみて、男はまた笑った。嫌味のない清々しい笑い方だ。
「そう緊張すんなよ。ここにいる奴は誰だって、何かしら暗い事情があるもんさ」
「それはそれで」
「はは、正直なお人だ。だからといって悪い奴ばかりでもないんだぜ。センセだって悪い人じゃないだろう?」
「……そうですね」
好青年とはこのような男をいうのだろう。
私の肩の力も抜けていくのを感じる。
「貴方は?」
「おっと失礼。オレはアルフォンソ。仕事じゃアルファっていう名前を貰っているけど、ホントの名前と変わんないから皆アルフって呼んでるよ」
「ここでは皆ニセモノの名前を名乗るんですか?」
「ここじゃあホントもウソも変わらないさ。理由をいえば、手紙を見た時も思っただろうけど色々アヤシイことしてる仕事だからね。一応、仕事用の名前を貰って、その名前で呼び合うんだ」
「成程。はたからみれば胡散臭い連中になってしまいますね。近所に知られたら恥ずかしい思いをするかもしれない」
「ははは。間違っちゃいないね。セーフティにもならないだろうけど。気休めってやつ?」
アルフと名乗った男は、自然な動作で私の隣に座ってきた。
「で。君の名前は?」
「アーサー……いえ、ライオネル・ドラードです」
「オーケイ、ドラード先生。仲よくしようぜ。ANFAはセンセにとっちゃあ宝の山になるだろうさ」
「そう願います。ところで、私からもたずねていいでしょうか?」
「ああ。遠慮なくどうぞ」
固い握手をする。彼の手は見た目より分厚く、かさついていた。
これは信頼できる人かもしれない。そう思いつつ、本題を切り出してみる。
「私は、今日仕事の説明をすると聞いてやってきました。そのなかで見て欲しい《患者》がいるとも……貴方がそう?」
「ん? そうか、親父さんは昔から単刀直入だからな……」
「アルフさん?」
「ごめん、こっちの話だ。そうだね、先生には怪異とその原因になった人間を研究してもらうけど、実をいうとある子の主治医にもなってほしいと思ってる。少なくともボスはそのつもりだ」
「私は子どもの主治医として雇われたのですか?」
つい不満げな口調になってしまった。
碩学としてのプライドが顔を出してしまい、慌てて取り繕う。
偉い先生だと仰がれると、無駄な贅肉がついてしまっていけない。
未来を紡ぐ子どもをなおす。立派なことじゃあないか。
「ああ。だが、ただの子どもじゃあない。普通の医者ではだめなんだ。身体の医療でも、心の医療でも適切な治療法とはいえない。
――先生お望みの、怪異繋がりの子だ」
アルフさんは両足を広げ、膝の上で指を組み、真面目な表情で私を見上げた。
「名前はネヴィー・ゾルズィ。去年、神隠しから戻って来たばかりの女の子だよ」
「神隠し……!」
東洋に伝わるお伽噺だ。私の国のチェンジリングにも似たその現象に、胸が高鳴るのをおさえきれない。
私は本当に、常ならざる世界へ触れるのだ。
アルフさんの静かな瞳には、目を輝かせる私が映っていた。
彼は私をどう思ったろう?
少なくとも私が読み取れたのは、彼がその少女に向ける心痛の色だけだった。
「なァ、先生。あの子は経歴のせいで学校にも行けないし、今も神隠しの後遺症に苦しんでる。両目を包帯で隠さなきゃ生活するのも難しいんだ。先生、頼むよ。あの子を助けてくれないか」