エピローグ
朝の十時半、空は相変わらず鈍色の曇天だ。
トリス・ルブランは管理センターの会議室で席に着いていた。
ネヴが島を蹂躙して二週間めになる。
普段は外で働いている職員がトリスに確認する。
「うん、概ね経緯はわかったよ。対応もできているようだ?」
「生き残った管理チームと安全チームによって記憶処理を施しました。カバーストーリーも流布済みです」
「居住区の損傷は局所的な地震による災害による崩壊、死傷者はそれに巻き込まれた形にしたんだね」
「生存者は病院に集めました。設備が壊れたことで衛生状態も悪化し、感染病が広がっていることにしました。炊き出しと治療の名目で一箇所に集め、効率的に進めます。感染症を理由に出入りも制限したので、このままいけば半年で概ね処理は完了するかと」
食欲の失せる青い壁紙と各部署の面々に囲まれて、トリスの無表情は一層冷たさを増す。
資料を配って淡々と説明を重ねる。
「わかった。広報と資金についてはこちらに任せておいて、うまくやっておく」
『外交』を担当する幹部はトリスに美しく微笑みかけた。
笑みの裏に何を考えているのかは知れない。
「それで、ことの中心にいたネヴィー・ゾルズィだけれど。これは本当?」
トリスの言い分をどこまで信じているのか。
恐らく半分も鵜呑みにしていまい。
資料の特定の一頁を開いて示す。ネヴの顛末に関する報告が書かれたページだ。
わかりやすく一文目に結論が記されている。
──ネヴィー・ゾルズィ『死亡』
「はい。死体は確認していません。ですが、医療チームと出した推察では、恐らく彼女は死んでいると思われます」
「ふぅん?」
「彼女はイーデン・カリストラトフが、精神攻撃を得意とする怪異に直接攻撃された際、彼の精神世界に侵入しました。ゾルズィはカリストラトフに対し、攻撃ではなく防御行動をとろうとしたため、本来の優位性を発揮できなかったのでしょう」
攻撃は一方的行動であるため、戦いになれば圧倒的パワーをもつネヴが勝つ。自分自身を心を守るという意味でも同じだ。
しかしイデを守るにはそうはいかない。
彼はネヴほど強くない。イデの精神を守るには、イデの精神に飛び込み、攻撃を打ち返すためのパワーを補うしかなかった。
イデの心を補う──一つの心身のなかに収まるという点で、同一化に等しい行動。
「彼女はカリストラトフの身代わりになったのでしょうね」
同一化しても、ネヴが入り込んだ側である以上、主権はイデにあった。
ネヴの協力を受取れば生き残れたイデは拒み、心中をはかった。
結果は、
「ゾルズィは死亡。カリストラトフ生存。報告書の通りです」
トリスに確認をとっていた幹部以外の職員が、何か言いたげに口を開きかける。
しかし幹部がパンと手を打って遮った。
「成程、わかった! こちらとしては対応ができている時点で満足だとも。今日も明日も世界は平和というわけだ。詳しい話はまた後日」
「ええ。僕の責任に関する処分は落ち着いたら行われる予定です。不満もあるでしょうが、ご協力御願いします」
机の上で紙束をそろえ、とんとんと揃える。
反省の様子が見られないトリスに渋面を作る新参と反対に、幹部は完璧な笑みを深くした。
「安心したまえ、君はボスのお気に入りだ」
「はあ」
「それに、この程度の脅威なら、既に何度も起きている。ことさら騒ぐことじゃあない」
トリスは黙って幹部を見つめる。
会議中、はじめての人間らしい動作だ。
幹部は可愛いものを見る目を向けて、扉に手のひらを向けて退出をうながす。
「そうそう。先ほどから外で赤毛の洒落者が待っているようだ。早くいってあげては? 釈明を聞きたい頃だろうよ」
「お気遣いありがとうございます。では御言葉に甘えて失礼します」
いうなり、真っ直ぐとした背筋で職員達の間を歩いていった。
他は他で話し合うことがある。ひとり会議室のドアを潜り抜けた。
無感情にノルマをこなしたトリスは、ようやっとため息をつく。
「……あの怪物」
「会議お疲れ様、トリスくん」
なかの人間に聞こえないよう小声で嘆息したトリスに、アルフが呼びかけた。
「あとにしたほうがいいかな?」
「いえ。長い質問ではないでしょう、どうぞ」
見透かしたようなトリスの言葉に、色男は方をすくめる。
二週間。その期間、アルフは事件の中心近くにいたにも関わらず、ほとんど説明を受けていなかった。
カミッロがイデに精神攻撃を仕掛けたと思った直後、ネヴも糸が切れたように倒れ、異常な出来事は収まっていった。
海は汚れ、空は曇り。島民達の混乱と壊れた島の傷痕のみをそのままに、夢のように怪奇が消えた。
イデがネヴを巻き込んだ。アルフにわかっているのはそれだけだ。
「では早速本題に。理由を聞いてもいいかな」
「なんの理由ですか」
「君がどうしてお嬢をこういうふうにしようと思ったのか、ということだよ」
単刀直入な問いかけも、トリスには予想の範疇だったようだ。
動揺もなく、一見落ち着いているように見えるアルフの憤りを受け止める。
「やはり気づいていましたか」
「ああ、君は……お嬢がああなるとわかっていて、あの事件を俺達に担当させていたんだね」
管理チームは獣憑きたちに仕事を割り振る。
アルフは自ら、ネヴに深い関係のあるドラード医師を追っていたつもりだった。
だが管理チームのトップであるトリスならば、その気になればいつでも止められたはずなのだ。
「遅いか早いかの展開でした。彼女は無意識に憤懣をためこんでいた。僕はガスだまりにマッチを投げる機会をうかがっていました。そこにカリストラフが現れた。どちらにせよ被害がでるなら、今がベターだと思ったのです」
「さっさと殺してしまうこともできたのに。あえて爆発させた理由は?」
アルフは無造作に廊下の窓を開けた。
ぼんやりとした朝日のした、階下では多くの人間が行き交っていた。
蟻のようにせわしない人の波に、アルフが指し示したい影はない。だがトリスにいいたいことを伝えるには十分だ。
「これでも世話係だからね。スケジュールは把握してる。彼らは今、教育チームでみっちり研修を受けてるよ」
「ああ。監視下のもと、二人には変わらず働いてもらうことになりましたからね。労働意識を持ち直してもらわないといけません」
二人。この場合における『二人』というのは、当然、イデとネヴに他ならない。
「トリスくんには、そこまで予想済みだったのかい。イデくんが死を目前にして獣憑きになることまでも?」
心臓が止まりかねない驚愕を、今でもはっきり思い出せる。
精神と肉体は密接に繋がっている。精神崩壊のショックで死亡したネヴを看取ったのは、他ならぬアルフだ。
イデも呼吸はしているものの目を覚まさず、病院に担ぎ込まれた。慌ただしい混乱のさなか、目を離したわずかな時間で、ネヴの遺体が消えた。
翌日、イデの枕元にケロッと座っているネヴを見た時といったら!
蘇ってきたネヴは、世界を壊すほどの情熱をすっかり失っていた。
彼女が不死身になるならともかく、あの狂騒を失うなどあり得ない。
ネヴ自身の異能の効果とは違う。原因は一つしか思いつかなかった。
命は尽きる寸前に強烈に燃え上がる。死の前に偽りは無意味だ。
理性という装飾を失った狂気が、イデに、あれほど頑健な壁となっていた常識を吹き飛ばさせた。
「イデくんが現れたタイミングを選んだのは、そこまでわかっていたから? お嬢と彼、両方を生き残らせるために、管理センターを荒らさせ、島をめちゃくちゃにさせた? 君が?」
「僕は管理チームの長です。獣憑きや怪異に関しては学んできた自負があります。相手を知り、観察し、推測をたてれば、どのような能力を得るか、推定は難しくありません」
アルフは問いかけながらも信じられない。アルフの知るトリスは自分とイデのようなギャンブラーだとはかけ離れていた。
真実、本人のいうとおり計算でそれが出来てしまうのなら、最早人間わざではない。
「意外ですか」
「ルールを破り、大勢を危険に晒してまで助けるのなら」
「正義心から行ったことではありません」
もしも廊下にトリスの補佐がいたならば、アルフを取り押さえていただろう。
表情こそ穏やかではあったが、アルフはトリスに詰め寄り、今にも襟首を掴みそうな気迫に満ちていた。
あくまでトリスは冷静に語る。
「ネヴくんの能力は強力無比だ。道理のない暴力に打ち勝てるのは、相手を上回る暴力だけというのは多々あることです。望めば得られるものでもなし、失うには惜しいでしょう」
「それだけ?」
「他の意見がお聞きになりたい?」
「嘘をつく必要なんかないだろ、そこは信じているよ。結論じゃなくて理由を聞きたいんだ」
「結論はもう言っています。暴力を得るためです。詳細をお求めなら長くなりますが」
無言が流れる。トリスは肯定と受取った。
「僕は正義のちからというものを信じています。禍福はあざなえる縄のごとしというが、幸福と不幸の帳尻は合うはずだというのは願望に過ぎません。罪に罰を与える。罪なき者は救われる――――そういう『希望的観測』は、宝くじを買って当たるのを待つようなものです。いつになるかわからない」
「…………」
「終わりが見えないことも、長い間耐えることも、心を摩耗させる。だから時と手段を招き寄せないといけない。それが正義と法律です。ですがルールでは補えない穴もあります。第一に決定に時間がかかること、第二にルールは公正であって善悪ではないこと。だからこそ使い手の善意が重要なわけですが、悪用もされる。第三に、正しい裁定を求めるからこそ、慎重で、時間がかかる」
「公的機関による救済の話ならね」
「そうです。最短で他者を救うなら、現場にいる人間が助け合うのが最大効率。その最小の単位が個人であり、この個人は人を助けたいと思える人間です。結局、人を最も救う根源的な要素は『人間性』ということになってしまう」
ネヴは凶悪だ。しかし、彼女には人を助けたいと思う人間性があった。
「今と将来を天秤に乗せて、救える数が多い方をとりました。ご理解いただけましたか」
「できないといっても、何も変わらないだろう。俺にとってもこの結果が一番都合がいい」
「そうでしょうね」
「……君は本当に言い方で損をする子だね」
今度はトリスが方をすくめる番だった。
これ以上余計なことを言わないという意志表示に、くるりと背を向ける。
「では失礼」
いつでも鋼を入れたような後ろ姿を見送る。
色々と振り回された気分だ。恐らくこれからもそうなる。アルフは開けっぱなしの窓枠で頬杖をつく。
「難儀な子だねえ」
彼はきちんと相手を選んだ。アルフに告げた説明は真実だ。一方、アルフの前ではしっかり控えた言葉がある。
「得られる駒のなかで、首輪をつけられるほうを助けたんだろうなぁ」
暴力はネヴだけではなかった。
だがカミッロに首輪はつけられない。だからつぶし合わせて壊した。
ネヴには、イデという首輪がつけられた。
二人の間にはいまや、既にお互いのなかで完成した絆がある。
ネヴの心の虚には慰めが差し出され、くすぶったまま暴走する危険は格段に下がった。なにより、その命はいまや平凡な男の手のなかにある。
イデが発現した異能は既に名づけられている。
『《甘き死よ来たれ》』。
特定の一人だけを対象として、自分が生きている限り、何度でも再現する能力。
蘇ったネヴが再現されただけの影なのか、或いは本物の彼女なのか。
その答えだけはいまだでていない。
◆◇ ◆
昼時になって、誰もいない一室。
教育チームが研修を行うために使う施設の一部だ。
ある二人のために行われている研修に、ひとまずの休憩が入っていた。
教室に似た作りをした静かな部屋の床に、堂々と転がる変人がいる。
彼女は黒い髪が汚れるのも、白い軍服のようなワンピースが汚れるのも構わず、だいのじのひらきになっていた。
「ねえイデさん、この歳になって勉強しなおす気分ってどんな気分か、わかりますか?」
「知らね」
「屈辱です。あ~、私、運動するほうが向いてるんです~! 二人そろって抜けだしませんかー!」
「オレは全然苦痛じゃない。ひとりでどうぞ」
「真面目ですねぇ!」
唇を尖らせるも、腹筋のちからでピョンと立ち上がったネヴの瞳は明るく輝いている。
「はあ、まあ仕方がないですよね。やることやりましたし」
「軽いな……」
「反省はしていますよ? 誠心誠意働きますとも。しかしあなたも災難ですね、私に巻き込まれて一緒にイチから研修とか」
「状態が状態だからな」
イデとネヴは切っても切り離せない関係になってしまった。
それを知るのはトリスやアルフ、一部の上層部のみらしい。
といっても、流石にネヴが何かとんでもないことをやらかした程度のことは広まっている。
イデが初めてANFAにきたときとは比べものにならないほど、教師役たちの教鞭は厳しい。
「今からでもイデさんの異能を解除してしまってもいいですよ」
ネヴの提案に、イデが短く舌打ちを返す。
戻ってきて以来、何度もされた質問だった。
「その話はもう終わっただろ」
「えええええ。でもイデさんがやってるのって、私の根底意識にじかに干渉するということですよ。私の異能上、イデさんもまた私からの影響を受けますし」
「いい、それで」
「いずれ境目も消えて溶け合ってしまうかもしれない」
「死ぬも同然だな。それが嫌なら心中なんかしねえ」
「……本当の本当にいいんですか?」
何度答えてもネヴは不安を打ち消せない。
いざとなったら世界を壊しにいく度胸はあるのに、イデの人生を壊す勇気はないのだ。
「私は人の幸せにすることで喜びを得る女。けれど思考停止して立ち止まり続けたものを人間と思うことができない。イデさんは私の望みに振り回されることになる。どんなに望んでも得られないものを抱えながら、燃焼しつづけるということですよ」
「オレが挫折で自殺できないのは今までの人生で証明してる。何度も絶望するぐらいのことはしてやるさ」
「可哀想な人」
「成功しなくても立ち上がるだけでいいのなら、だいぶ安いもんだろ」
「楽勝ですか」
「ラクではねえ」
「では一体どんな無茶をしてもらいましょうかね」
「容赦とかいう感情はないのか……ないか」
「あなたはこの世の誰より私に容赦されていますよ」
断言するネヴに、イデの口角が薄くあがった。雪溶けのように儚い微笑に、青い色彩が柔らかくなる。
「知ってる」
その横顔はネヴしか見られない。
これから死ぬまで、変わらない凄絶な日々を手に入れた人間の顔。
世界を満更悪くないと思っている男の顔だ。