第三十八話「恥ずべきセグレート」
世界的に有名な怪異に『吸血鬼』がいる。
吸血鬼には様々な特徴がある。うちひとつに、家人に招かれなければ家に入ることができないという弱点が知られていた。
理由は俗説によると、聖書によって悪魔は歓迎されていないところにはいくことができないからとも、家をたてる際の魔除けを無効化するために許可がいるのだともいう。
イデは自ら怪異を招いた。
ネヴの庇護が意味を失う。
頭のなかで明確に受け入れた瞬間、全身が泡立つ。
巨大な瞳がきろりと自分の方を向いたのを肌で感じた。
「やめなさいッ!」
ネヴの鋭い叱責には本心が滲んでいた。
大切にしたいと願った人を壊さないで欲しいという懇願。
カミッロは悦ぶ。嘲笑とともに、それはイデの思考に割り込んだ。
イデが真っ先に感じたのは、痛みだった。
心臓が爆発したような凄絶な激痛は、反応するという能力さえ奪う。顔を歪め、悲鳴をあげるどころか、まばたきひとつできない。
はたからみれば無表情で暴力性を受け止める。本当のところは無抵抗だった。
鯨が氷河を砕いたのをいっぱいに頬張って、息を吹きかけられたように、脳みその隅まで凍結する。
なにもできない。完全なる停止。一切の無。
世では《死》と定義する状態に陥る。身体が生きているだけで、イデはもう九割九分イキモノとして死亡した。
「させるものですか」
それでも諦められない女が一人いる。
ネヴが手を伸ばす。諦めるべきだったのに諦められなかった女は、男の分まで抗った。
イデは彼女も招き入れた。
◆◇ ◆
「思ったんだよ。あんたを止める一番確実な方法って、やっぱりオレが死ぬことだよなって」
イデは独りごちる。
不思議な気分だった。
あたりの光景は変わっている。
ネヴの作った空間からイデの精神世界に移動したのだ。
今にも消え去りそうな脆い心象風景に、イデとネヴが二人ぼっちでたたずんでいる。
「ホントにオレを助けるために、オレの心のなかに飛び込んでくるとは思わなかったがな。わかってんのかよ、ここはあんたの世界じゃない」
「精神攻撃なら、私が内側から補強して立て直せばなんとか」
「ならねえよ」
「なりませんか。何故」
「オレに生きる気が無いから。ここにいたらオレに巻き込まれて死ぬぞ。自殺行為だ」
いる場所は街。あたりにはキツい悪臭が漂っている。ヘドロと潮の匂いが混ざった最悪な臭いは、過剰な産業で穢された磯に特有だ。
ここでイデとネヴは初めて出会い、狼に追いかけ回された。
今でも嫌いな街だ。いいことなんてひとつしかなかった。
「今すぐ出て行って、あんたの身体に戻れば助かるぜ」
「戻りません。アルフといい、どうしてこんなことをするのですか。私が可哀想とは思わない?」
は、と鼻で笑う。
「あんたって性格の割に駄目男に引っかかるタイプだよな」
「イデさんは真面目で頑張り屋さんのイイコですけれど」
「馬鹿なやつ」
イデはいつだってネヴ相手には言葉を失う。
真っ正面からの好意の言葉。
「そういうところに、オレは救われたよ」
ネヴがブリキのようにかたまった。頬がみるみるうちに赤く染まる。
「だからな」
凶暴なクセに初心で純粋な彼女に、イデは心底申し訳ない気持ちになった。
これから非道い台詞をいわなければならない。
(でもしようがねえよな)
イデが幸せになれる世界にしたいと願ったのはネヴのほうなのだから。
「だから死んでくれ」
ひとつひとつ息を吸って、はっきりと言う。
照れて告げられなかった感謝を。
「オレはあんたが、ひとりの人間として、オレを人間扱いしてくれることに救われた。生まれつきの不幸を乗り越えられなくても、等身大のまま認めてくれて、前より随分息をするのが楽になった」
本当なら誰にも願いたくなかった、恥ずべき欲望を。
「オレは人間を辞めたあんたを見たくない。ブッ壊れてまで他のやつまで救おうとするあんたがムカつく」
身勝手さを。
「あんたがこのまま顔も知らないバカどもも救うための公共物になるぐらいなら、ここでオレと一緒に死んでくれ」
二人の心を反映したのか、いつのまにか二人の距離はくっつくほど近づいていた。
イデの腕がネヴを掴む。
黒髪がはね、黒曜石の瞳がイデの翡翠を写し取る。
自分の腕が華奢であることを初めて知ったような顔をしていた。
「そんな理由で?」
足場が崩れる。
根が臆病なイデは脂汗を流す。終焉が迫っている。
本能がガンガンと警告を鳴らしてうるさい。
それよりもっと嫌なものがある。イデは本能を狂気で黙らせて、ネヴを捕まえて離さない。
「もっと格好いい理由づけができたでしょう。自己犠牲で世界を救うとかいえばヒーローっぽいですよ」
「ガラじゃねえよ。オレは矮小な凡人だ。世界なんてどうでもいい。ネヴィー・ゾルズィがいなくなって世界が変わるぐらいなら、今のまま皆苦しめばいい」
「とんでもないこといいますね」
「あんたほどじゃない」
何もかも台無しにされた女のまなじりが三日月に歪む。
「やっぱりあなたは真面目ではないですか。真面目とは自分自身に正直に向き合うことです」
ネヴはイデを拒むそぶりすらしなかった。
◆◇ ◆
生は惨い。イデがいたのはそういう世界だ。
他人を助けようとは思わない程度に怠惰で。自分が助けられないのを嫌がる程度には怒りんぼで。愛を求め、心身を満たしたがる。
何もかもが不足している。諦めて穏やかに全て受け入れられないぐらいに物資も未来も楽しみも残っている、不燃焼な地獄だ。
それで希望がある。
イデが今まであると知っていて、手を伸ばせなかった世界がある。
考える脳が、たぐりよせる手段を見いだす光を拾える。
無為に散るかもしれないそれを後生大事に拾い上げ、多くの人間が立ち上がって、今に繋げてきた。
それが少女の世界だった。
願いが叶うのか叶わないのかは進んだ先でしかわからない。
しかしイデは新たに知った。
二つの世界には裏と表がある。ドブ底と天上の光のように違う。
そう思っていた世界は表裏一体で繋がっている。
そして更に表と裏の間──奥の奥、底の底で、善いも悪いも聖も邪もなく吠えたてるものがある。
生きたいと願うエネルギー。
自らの存在を許したいという根本的な願望だ。
許せないものは愛せない。自分を許せなければ自分を愛せない。
己が許されなければ、世界を許すことなんでできないではないか。
誰だって自分が生まれる世界を愛せるものなら愛したい。
そのために人は願って狂う。
誰だって願う。周囲にオマエなんか許されなくたっていいと言われる人間だって。
イデは思う。
きっと世界の側も、人間に許されたいのだろう。
だから祈りを聞き入れる。
即ち異能。欲望への祝福。
世を乱して食い荒し、血を流し、たぎる生命力を循環させる獣のシステム。
どんな許しを得られない人間にでも、ちょっぴり可能性を与えてくれる。
ちからを与えるから、どうか先を切り開いてくれ、と。
であるならば。彼の願いが叶えられないはずがない。
この幸運を取り逃がすくらいなら、世界が滅んで結構と決断した男の恋が届かないはずがない。
ましてやそれが、たった独りの女を手に入れれば済むのなら。
天は必ず願いを認める。