第三十七話「フェデルタの出現」
アルフが真っ先にしたのは、ネヴを攻撃対象から外すことだった。
長い足を活かしてひといきに、ダヴィデの隣に寄り添う。
これでネヴの対策は完了だ。
残酷なことをする、とイデは引いた。
「うっわ……」
わざわざ見なくてもわかる。
今頃ネヴは目を細めているに違いない。怖くて見られなかった。
ネヴは身内に甘い。アルフはネヴにとって最も長い付き合いのある身内だ。
アルフはネヴの自らを盾に利用した。ネヴの愛情を利用した。
他人の慈愛を踏みにじって使う。ネヴの数ある地雷のなかでも最たるものだ。
「許しますよ? あなたのことはよく知っていますから。覚悟の献身でしょう」
イデが予想したよりも声音は穏やかだった。
「でもその木偶は殺します。理由がないですものね。私の弱点で、気に入らないし。存続を許す理由がありません」
手のひらにパシンパシンと鞘を打ち付ける。動物でいうところの威嚇であろう。
(今のネヴは、ほとんど存在じたいが暴力だ。自分の領域であれば空間ごとひねり潰しに来てたわけだが……アルフを巻き込みかねない今なら、ダヴィデを守れるか?)
元々アルフとイデが純粋なパワーでネヴに勝つなど不可能なのだ。
更に賭けを重ねたところで、0に0を掛け算するのと変わらない。
ダヴィデはカミッロを狙う。彼は形なき民衆のしもべだから。
アルフの望む勝ち筋は二つ。
ひとつ。
ネヴがダヴィデをひとまず諦め、カミッロと潰しあう。
宿主の唯一の執着だったベルは危険な状態で、ネヴの領域に侵入させられた以上、彼女が優勢だ。
カミッロが壊れ、ダヴィデが固執をやめる。ネヴがダヴィデを殺すより先に、ダヴィデがネヴを写す。
ふたつ。
その他。ネヴが手こずっている間にカミッロを倒す。
(カミッロの方は───)
空間がとどろく。
空を覆わんばかりの牛と人の混ざり物のような怪物が吠えた。
姿は『牛と人』のみを要素としてとどめ、人々のイメージを反映して微細な変動を続けている。
イデの脳内を読み取ったようなタイミングでの咆哮だった。
実際読まれているのだろう。
「ありゃ無理だな……」
アルフがネヴの方を狙っている間に、アレをなんとかしてくれと言われても無理だ。
見れない夢を見れるほどの蛮勇と気力が残るぐらい心が無事なら、ネヴはああなっていない。
(頼むからネヴ、諦めろ。諦めてくれ)
イデの思考を読んでいないはずのネヴは、アルフの方へ歩みを進めた。
ネヴが他人の希望どおりになるわけがなかった。彼女はいつも右斜め上をいく。
しかし手には愛刀。これならネヴの新しい能力たちも意味がないのでは、と思えば。
ネヴが斬りかかっていた。
居合い抜きという技術の領域ではない。
空間に関する操作。瞬間移動である。
ネヴを後ろから羽交い締めにでもすればいいのかなどと考えていたイデは、思わぬ挙動に目を剥く。
しかしアルフは余裕さえある動きで回避する。
「もう見たことがあるよ!」
「あら、そうでした。ではこちらで」
微笑を浮かべたアルフの足下が浮き上がった。
彼だけではない。背後にいたダヴィデごと、ルービックキューブを回すように回転する。
アルフ自慢の上着がひらりと優雅なシルエットを描く。
「おお!?」
「私も学習したのですよ。実質、斬撃が速くなる程度じゃ意味ないなって」
これにはアルフも動揺した。形のいい唇が僅かに引きつったが、宙にいる体勢のまま銃口をネヴに向ける。
間髪いれずに銃声が連続した。およそ三回、身体を無理矢理にひねった不自然なポーズながら正確な連射のはずだった。
「足? それとも武器を持った手をお狙いで?」
「どっちでもいいのに、うまくいかないね……」
「本気ではありませんから」
全て届かなかった。一発目は刀で斬られ、二発目は位置をずらされ、三発目は軽く避けられた。
「お互いうまくいきませんね。わかりあえたら、それが一番いい結果なのに」
ネヴの手がダヴィデにかざされる。
「親子喧嘩なんてそんなものですか」
続いて彼女はこういった。ひとまず寄せますか、と。
バターブロンドの髪を所在なさげに遊ばせていたダヴィデが、「く」の字に曲がる。
アルフが咄嗟に上着を脱ぐ。
「高かったのにッ」
空中で抵抗できないダヴィデが押し出されたのと、どちらが速いか。
飛び出す勢いでネヴに近づいていく彼の腰に、上着を投げて巻き付けた。
アルフはダヴィデを引き寄せようとした。
足場さえあれば違ったはずだ。瀟洒でいて鍛えているアルフなら、踏ん張って動きを止められた。
あるいはここが現実で、捕まれる柱やものがあったなら。
「悲しいですね」
ネヴはアルフごとダヴィデを目の前に連れ出す。
白刃が舞う。アルフお気に入りの渋い赤の袖がちぎられ、巻き取る。
グイと万力のような握力で手首ごとひねった。
柄を握っていたネヴの手がぶるぶると震え、アルフと拮抗する。
されど少女と男ではアルフに勝敗があがった。
白い手袋をはめた指が、一本、二本と剥がれ……
「そうでした。新しい能力なもので、忘れていましたよ」
アルフの後方から、まっすぐな刀身がのびた。
ネヴがたった今、床に落としたのと同じ形、同じ大きさの刀身。アルフの時が止まったようにかたまる。
現実は現在進行形だ。ダヴィデの美しい胸から天に向かって、切っ先が堂々と上へ上へと背を伸ばす。
「便利ですよね、分身って」
島に来てから何度か見かけた能力。分身、アバター。
他者の認識を借りて、各自の能力をもった偶像を作る異能。
「これって私の分身も作れたんですねえ。そりゃそうか、私を知っている人達と私を知る私がいれば」
「まあ、やっぱりそうなるよな」
だからいったのだ。アルフのたてた作戦は成功しない。
アルフの異能をイデは知らないが、恐らく他者に特定の作用を働かせられる類いの能力ではないとは察しがついていた。
彼らしくない作戦だった。
彼らしい親心がそうさせた。
イデもイデらしく、等身大の自分を受け止めたまま、何もできない今が過ぎていくのを待つのだろうか。
そんなわけはない。頭のつま先、ちょっぴり程度は変わっている。
でなければこの島に来るものか。
(ならもう一、二回は気張るしかねえか)
正直死ぬより嫌だが。それでどうにかなるのなら、安いものなのだろう。
イデは頭上を泳ぎ、ネヴに攻撃を阻まれ続けている怪物を見上げる。
アルフが気づいて何か声をあげている。聞こえないふりをした。
「イデさん?」
何もできるはずのない人間が動こうとしている。
少女の首が疑問に傾く。
(よかった)
イデはちゃんとこの破天荒な少女のことを理解できていたらしい。
ネヴならば絶対にイデ達の思考を読まない。
他者の存在性を見る魔眼の能力の性質上、感情の波からおおよそ予測がつくだけだ。
その気になれば島民たちをああも弄べるのに、そこまでしかやらないのは、プライバシーの侵害だから。
悪魔と化す覚悟をしたたつもりでも、他人の内心に踏み込むというタブーを恐れている。愛した人間達に対してそれができないという弱点。人間である以上つきまとう醜さ。
───イデにとって何より心惹かれた、優しさ。
イデはネヴの人間性に賭けた。彼女はイデの心を読まない。
だがカミッロは読む。
イデは頭のなかで、カミッロに呼びかけた。
(オレを殺してくれ。あんたでも今ならそれぐらいできるだろ)