第三十五話「コシエンツァの衝突」
真っ先に悲鳴があがったのは、島民達だった。
まさか思考誘導されているとも知らず、いがみ合っていた彼らである。
そのうちの何人かが、口をおさえてのけぞった。
表情はハリガネでとめられたように引きつり、体はのけぞる。彼らは外を見ていた。ダヴィデとアンヘル姉弟のいる道路の外を。
通路というからには壁と壁の間にある。
壁の両脇から覗き込むものがいた。新しくやってきた人間達だ。
ダヴィデとアンヘル姉弟のいる道路のなかをみつめる目、目、目。
ひとめで異常とわかる。
数としては十ほど。しかし威圧感は数以上だ。
ただひとつとして正常な目はない。
生気がぬけきってよどんだ瞳がわらわらと並ぶ。目を合わせるのもはばかられる。
彼らがそこにいるだけで気持ちが悪い。沼と睨み合うようだ。底がない。
やがて一人が気づく。
「あれ、死んでるんじゃないの……?」
自らの口で「信じられない」と続けながら、まなざしが本能的な確信に鈍く輝く。
「うわあああっ」
現実を受け止めたものから脱兎の如く逃げ出した。
幾本の足がタコのようにもつれ合い、一斉に賭けだそうとした。
だが出来なかった。
通路の前と後ろ、両方が既に死体が詰まって使い物にならなくなっていた。
絶叫があがる。狭い通路に混乱が満ちる。
誰も理解できない現状への疑問に、ダヴィデが淡々と答える。
「大騒ぎの後でよかったね。こんな何気ない道のそばでも、死体が溢れている」
聞いているのはアンヘル姉弟だけだ。
彼らは逃げ惑う人の波のなか、棒立ちになっていた。その光景は、濁流に押される一本の芦のように頼りない。
ベルナデッタの愛らしい眉間が皺を刻む。
「うざっ」
応えたのはカミッロだった。
不意に逃げだそうとしたうちの数人が足を止めた。
周りの人間が不審そうに彼らを見る。当人達も驚愕をあらわにした。
「おや、たったそれだけなのかい? 可哀想じゃあないか、自由を奪ってあげないなんて」
「この島の知らないおばさんおじさんたち。あいつをどっかやって!」
返答なし。ダヴィデは無視された。カミッロに操られた島民が死体とダヴィデに飛びかかった。
ダヴィデも再び死体を操る。
死後に弄ばれる死者と、今、意識はあるのに体を他人の意志で動かされる島民。巻き込まれた二つの、どちらが不幸なのか。
生者と死者がなだれ込み、二つの波となって衝突した。
波の大きさには差がある。
死者達は統率のとれた動きで、ダヴィデを守ろうと五人ほどで円陣を組む。あっという間に詰まる人の海。
対照的にアンヘル姉弟の周りは、ぽっかりと穴が空いた。
一方、ダヴィデはもみくちゃだ。おしくらまんじゅうのなかで、ニコニコこめかみを揉む。
「ほら、おいき」
四人の死者が蛙のように跳ぶ。
円陣を力任せに押す生者を踏み台にして、姉弟に手を伸ばす。
波のなかの生者が何人か手をあげた。さながら海藻だ。無理な動きで足をつかむ。つかんだ島民は歓声のかわりに悲鳴をあげる。
「ひぎぃぃぃ」
関節がおかしなほうに曲げたせいだ。
しかも死者が関節を外して腕を長くした。無理は続く。
島民の人体の破壊と引き換えに、死者は一向に進めなかった。
「うーん、僕が死んでいるおかげで頭は乗っ取られないみたいだね。よかった。でもトドメのさしかたがわからない。さてどうしよう」
ダヴィデの死霊術では、魂を失った肉体に、命の代わりに筋肉に命令を出す粘菌を仕込む。
現在のダヴィデの手持ち粘菌は、己の肉体に注がれた分だけ。それを分けて、薄めて、作り直して使っている。
材料は無数にあっても作成数には限界がある。ダヴィデ自身の生命力を落とす行為でもあった。
「だったらさっさと死んじゃってよ」
「もう死んでいるんだってば」
なまあたたかい物量に潰されるダヴィデ。
時間も経たないうちに、麗しい腕からボキリと骨の折れる音がした。
逃げようとしても、既に人の蜘蛛巣に囚われている。
それ以前にダヴィデは逃げずに棒立ちだ。
わかっていて受け入れたのか、わからず追詰められたのか。
「やっぱり死んでると、頭も動かなくなって行っちゃうのかな?」
姉弟は後者だととった。
「あはは」
同時に笑い声があがった。ベルと、ダヴィデの哄笑だった。ベルの花の笑顔がしぼむ。
「君はカミだから実感がわかないのかもしれないけれど」
ベルは狂人を眺める時の嫌悪の目を向けた。
その時、太陽に照らされていた日差しが陰る。
「人間は潰されなくても、あっさり死ぬんだよ。守りたいのなら、ちからを与えるより警戒しないと」
陰がどんどん大きくなっていく。
そして、ベルに直撃した。
ぐしゃりと冷えた肉塊が散らばる。
冷えた肉塊。ダヴィデのゾンビだ。
こっそり通路を挟む建物の片方に登り、飛降りたのだ。
カミッロは眼前にいない、這い寄る死者に気づけない理由があった。
「君達は生きた人間の意志を侵す。読み取る。だから当然、死んでいるとダメなんだね」
死者を動かしていたのは欲望ではなく、プログラムだから。
到達した屍肉のしたで、少女がもぞりと動く。
「そんなことしても無駄だからね」
ベルは心の底から嗤った。かろうじてカミッロがなんらかの対策を測ったか、ベルの身体は返り血以外綺麗なものだった。
「いいや? 君は人だもの。腕が無事でも、体が無事でも、死ぬことはあるさ」
ダヴィデは微笑む。歪むベルの表情を憐れむように。
聞き返そうとして、ベルの両目が見開かれる。
「んんんん!」
体は無事だ。だのに、喉を押さえてのたうち回る。
「うぇ、うぇええっ! げほ、げほっ!!」
何度もえづいて、必死に咳き込む。必死になって、何かを吐き出そうとしていた。
白痴のようだったカミッロがまとっていた雰囲気が、わずかに動く。
「何が起ったかわからない?」
ダヴィデは親切なので教えてあげた。
「粘菌だよ。さっきの死体にいれていた分だ。今はその子の喉をふさいでる」
場を漂っていた気配が燃える。
炎の熱すら感じさせる、感情によく似た爆発だった。
ぐしゃり。耳障りなハーモニーを奏でて、ダヴィデの体は人間で押しつぶされた。
それがネヴ達の膠着状態を崩すなど、かけらも考えていなかった。
◆◇ ◆
ネヴ達が戦っていた異空間に、彼らが転がり込んできたのはまったく唐突だった。
ダヴィデと島民と思わしき人々がもつれ合ってなだれこんできた。
「ネヴの仕業か!?」
数多の能力を開花させた彼女の『権能』は計り知れない。
しかし、ネヴもまた驚愕と動揺の目でダヴィデ達に釘付けになっていた。
よく知るかつての彼女のように、素っ頓狂な声があがった。
「なにごとォ!?」
ダヴィデの聖女画に似た優美な顔形が損なわれている。
てっぺんからつま先まで血塗れだ。長い睫を赤い血が飾り付けていた。あれでは眼球も無事ではあるまい。
返り血も自分の血も流れたとしか思えない赤さだった。地獄の悪鬼の有様だ。
しかし何より異様なのは、人ともつれ合っているという事実そのものだった。
かつて領地たる街でネヴと接敵した時ですら、彼は優雅だった。状況把握ができていないと思うほど微笑みという優雅さを保っていた。
それが思い切り人の横頬を殴り飛ばす。腹を蹴り、距離をとらせ、下僕の死体達に追い打ちをかけさせる。
「何!? どういうこと、私あなたたちキライだから弾いたはずなのに!」
「ちょっとあっちで死にかけてね」
異変はそればかりではない。
なだれ込んできた島民達は、重大な狂いが発生したように、ぶくぶくと白い泡をはいている。
「あれ、そのひとたち島民ですよね。しかも生きてる一般人……?」
首を傾げるネヴの頭上で、『吠え声』がとどろく。
「次から次に何ィ!」
見上げると、巨大な生物が空間を漂っていた。牛とも鯨ともつかぬ。二本の獣足に見事な尾ひれ。獣の上半身と魚の下半身、そして人の顔をした異形だった。
それでネヴもようやく理解した。
「あれはカミッロのなかにいたカミ? ということは、わかりました」
聞いてくださいといわんばかりに、イデ達に向かって大手を振る。
「ベルが死にかけて、命を長引かせるためにこの異世界に連れ込み、ついでに貴方達も巻き込んだってことですね。理解できましたか!」
「わざわざ説明ありがとよ」
「イデさんのためにやらかしたのに、なにもわからないままではいけないので」
余程予想外だったらしい。黒目が憎しみを込めてカミッロを見上げる。ホラ貝のような音色でしきりに長く吠える。
イデが疑問に思うまでもなく、死にかけの人間達に対する叱咤だとわかった。粘着質にダヴィデにけしかけていたから。
ダヴィデにベルが殺されかけたのだと察するには十分だった。
「事情は概ねわかりました。なんにせよ、私の敵が増えたと。ですが多少増えたところで、私は恐れませ……聞いていますか?」
ダヴィデと島民達はネヴを完全に無視して殴り合っていた。
「どうして! あなたたちは私を倒しにきたのではないのですか!?」
「そんなことより、この根っからの悪童を排除しないと。こういった輩は反省したふりで延々、善良な市民を食いものにする」
「そちらは私の後でもなんとかできるのでは?」
「こっちの方が僕の設計理由的に、より気にくわないんだ」
「これだから……獣憑きは……!」
理屈より信念。倫理より我の在り方。
世界を壊すかもしれない災害より、眼前の害獣退治の方が大事。
職員採用を検討せず、真っ先に収容を確定されるような獣憑きは、みなそのようなものだった。