第三十三話「無きて有るシェリエレ」
イデもネヴの言うことはよく理解できてしまった。
まるで納得はいっていないのだが、もはや躊躇っているのは一人だけらしい。
ネヴは「いつでもこい」といわんばかりに立っている。
真っ先に仕掛けるなら、血気盛んなビクトリアであるはずだ。
わずかな心配とともに横目で様子をうかがう。彼女は予想に反し、一歩ひいてアルフに囁いていた。
「あなた、離れている間に何か知らなかった? アンヘル姉弟とか……ダヴィデとか」
「会ってないね。ダヴィデくんとは離されたままだ」
「そう」
不透明な返答に、ビクトリアの顔色は冴えない。
せっかちな彼女は、聞きたいことだけきくと今度こそネヴに躍りかかった。
アルフが止める間もない。
子猫のような風貌に相応しい、素晴しい跳躍だった。
大きな黒い双眸が、飛び上がる獣を冷たく睥睨する。
本来はそんな目でみていいものではない。軽業じみた身動きを支えているのは、重厚な機械の骨格なのだ。
鉄骨が自発的に襲ってきているようなものだ。少女どころか成人男性の骨でも枝のように折れる。
ここが非現実とはいえ、すべてがネヴの支配下にあるわけではないのは、既にわかった通りだ。
操れないものは、例えば、強い自我。他者に抱かれた強烈な印象。
容易く揺らがない認識――――個人の能力は、本人や他者に認識されたもののままだ。
それをネヴは愛用の刀で簡単に受け流してしまった。
彼女の魔眼が、なにもかも飲込む黒で艶々と輝いている。
元より概念を視覚でとらえていた彼女だ。
今は更に進化して、直情的な攻撃など時が止まったように見えるのだ。扱うべきちからの流れも同様である。
舌打ちしたビクトリアの後ろから、アルフが銃を構える。
「うん……」
アルフらしくない、誰に向けるでもない気もそぞろな呟きだ。
次いでアルフらしく、トリガーに指をかけた。
「撃ちますか?」
「お嬢がそうして欲しいなら、といつもならいうんだけどね」
ビクトリアへの誤射を躊躇するような可愛い性格でない点は、真っ先に理解していい。
いつでも撃てる。だが撃たない。
彼が当てようとして当たらないはずもなかった。
銃口はネヴを真っ直ぐにさして、みじんもズレないのだから。
「幾つか解法じたいは浮かんでいるんだよね」
「へえ」
アルフは迷ってはいなかった。
ただ、見守ってきた娘の癇癪がいつも通りに収まるのを、なんとなく期待しているようでもあった。
「ただ、一つはとても嫌なやり方だ。勇者が魔王を倒すようにはいかないこともわかってる」
「……?」
「お嬢はあえて自覚しないようにしているみたいだけどね。だからもうひとつに期待しているんだけれど」
何故か、アルフがイデをちらと見た。
ネヴを取り巻く暴力の気配に、イデは唯一加わっていなかった。
イデは唇を血の味がするほど噛みしめるしかできない。
「イデさん」
明るさを失ったネヴが、心配そうに呼ぶ。
「大丈夫ですよ? あなたがしたいことをしてください。何もしないなら、それでもいいの……苦しまないで」
「…………」
無理だ。心苦しい。一番暴力の似合う容貌と体格で、戦う意志をもとうとすらしない。情けなかった。
無言を貫くのは、最後の理性だ。
だが、仕方ないではないか。
ネヴはイデを救おうとしている。
イデとてすきこのんで、弱く粗暴な親の子に生まれたわけがなく、すきこのんで、体格に優れた男に生まれたわけでもない。
イデのなかに、世界を守りたいという崇高な想いが宿るわけがあろうか?
世界はずっと、イデを助けるどころか、幸福な無知さのままにイデの苦悩を軽んじ、蔑み、細やかな自尊心を持つことも許さなかったのに。
ネヴを止めたいと思えなかった。
イデは前に出ない。心臓ばかりがごうごうと音をたてる。
その肩をアルフがパンと叩いた。
「ま、気が向いたら参戦して」
笑っていた。朗らかに笑って、イデを更に後ろに引っ張り込む。
優男風の手のひらは見た目よりずっと力強い。つんのめるようにして下がらせられると、自分より小さい背中がピンと伸びているのが見えた。
「さて。そうだ、カミッロと姉弟達の話だったね」
唐突にアルフが話を蒸し返す。
「ここにいないということは、彼らはまだあっち側で元気でいるんだろうねえ」
「そうですね。まだだいぶお元気そうですが」
答えたのはネヴだった。
さなかもビクトリアから右から釘打ち機を打ち込まれる。左から蹴りが飛ぶ。
「余裕ぶらないでよ!」
「そういわれましても」
それをワルツでも踊るように頭をゆらして、8の字のステップを描いて避ける。
「あなたはもうお元気じゃあないじゃないですか」
どころか、ビクトリアが片足を宙に浮かせようものなら、目にもとまらぬ速さで刃を振った。
まだ開戦から三分と経っていないのに、バネと管で出来たはらわたが、たわんで空中をただよう。
機械の体だ。常人なら死ぬ大怪我もパーツの欠損である。
まだまだビクトリアは戦えた――万全の体調だったなら。
彼女は現実の島で模造人格たちとの死闘を経て、掃討を果たしたおかげで今ここにいる。
簡潔にいえば臨死状態。もう既に一度大破して、ほぼ機能停止状態なのだ。
ビクトリアの体重をネヴが操作できなかったことと、逆の現象が起き始めている。
白い頬にダラダラと汗が滴り落ち、したたかな目が精彩を欠く。
虚像のなかから強靱な肉体が、『ダメージを受けた』ことで、どんどん現実のボロボロのスクラップに近づいてく。
「せっかくの数のアドバンテージを失う気なんですか? アルフ。何故撃たないのです」
「待機中」
「何を?」
ネヴは苛々と目を細めた。
「まさかまた追加がはいると思っているんですか? ビクトリアさんと違って、彼らは来ないですよ」
ネヴに嫌われているせいで省かれたダヴィデと、幼くとも凶悪な神降ろしであるアンヘル姉弟。
普通なら心配すべき状態だ。三人の安全より、放置された彼らの前に晒された島民達のほうを。
彼らはビクトリアと違ってどこまでも自分のあるがままだ。
アルフの端正な顔に苦笑がにじむ。
「彼らは臨死状態にはならないから、ここにはこないって?」
「招待してほしいんですか? しませんよ、嫌いだし」
「いや、勝手に来るよ」
アルフは確信をもっていった。
「だって、あの子達は……」
◆◇ ◆
ネヴとイデ達が幻のなかで見合っている時。
島まで同行したが、まだ最後の戦場に辿り着いていないものがいた。
ネヴから、生理的に性質が合致しないために、招かれなかったダヴィデ。
別にこれといった怪我ひとつおっていないアンヘル姉弟である。
「どうしようかな」
現実にポツンと取り残されたダヴィデは、しばしあたりを散歩していたのだが、数分で諦めていた。
『穏やかな青年』としてプログラムされた通りに、憐れっぽく独り言をいう。
独り言の内容も予め決められているものだ。
周囲に反射すべき心をもった人間も見当たらないので、ダヴィデは基本的な行動原理―――ノブレス・ノブリージュに従うことにした。
「やっぱり子どもだよね。将来の可能性の種だもの」
振り回される島民達も憐れだったが、優先されたのはアンヘル姉弟との再会だった。
なにせ顔見知りで、協力関係である。
見知らぬ他者より守るべき、か弱い存在だ。既に可能性が狭まった大人以上に、世界を育んでいく投資先といえる。
見張り役もいなくなったことだ。
怪物の襲撃という大規模な争いが発生したのは幸いだった。
ダヴィデは簡単に適当な遺体を見繕い、己の腕を切り、己を動かす粘菌を直接わけて、手足となる人形を作れた。
粘菌の培養には時間がかかるため、せいぜい片手の数が限界だったのが残念でならない。
襲われれば人形達に対応させ、時に盾にすれば、島も恐れることなく探索できた。
だから、思ったよりずっと容易く、アンヘル姉弟達に再会できた。
再会したとき、ダヴィデに刻まれた常識的な子どもと違い、隠れていなかった。
怯えて助けを待っているかと思っていた彼――――どちらかといえば彼女のほうが積極的だった――――は、自由で、溌剌として、解放的な明るさに満ちていた。
姉のベルは、近づいてくるダヴィデに気づくと、すぐに己に気づいて貰おうと手をあげた。
健康的な愛らしささえ感じさせる破顔に、ダヴィデの美しい微笑が消える。
「あ、ダヴィデおにいちゃん。生きてたんだ」
そういう彼女の足下に、大人がいた。
犬のように怯えてうずくまり、正気を失った目でベルに寛容を願っている。
思ったよりずっと、ずっと、最低の再会だった。
ダヴィデはすぐさま、島民の心を転写した。彼らは悪魔にそそのかされたように矮小さにつけ込まれたすえ、精神を破壊されていた。
どこにでもいる平凡で無力でなんの取り柄もない小市民達は、小市民ゆえに、蹂躙され、弄ばれ、なんの意味もなく尊厳を奪われたのだ。
領主たれと作られた死体人形は悟った。
この天使のような幼子達こそは、絶対に存在を許してはならぬ不倶戴天の敵であると。