第三十話「貧困なアーソナ」
死者を歯車として回る廃坑は、事件解決後、ANFAによって然るべき対応を行った。
徹底した封鎖と隠蔽の魔術により、誰も山の奥深くへ辿り着くことはない。
一度は絢爛を誇った魔術師の工房は、永遠に埃を積もらせていくだろう。
シグマが這うような声でイデとドラードに警告する。
「離れないでよ、面倒だから」
ここがIFの現実なのか、虚構の匣なのかはわからない。
穴蔵は暗く、冷え切っていた。棺桶のなかの静けさだ。
その奥底から人が歩いてくる。
芯の通った真っ直ぐな立ち姿は獣ではない。しっかりとした足取りは、魂なき亡者ではありえない。
見覚えのない女性である。
バターブロンドの髪をゆるく結び、闇のなかにたたずんでいる。
瞳を閉じ、ほの明るい髪だけを輝かせるさまは、つきかけの白い蝋燭のようだ。
知らない人間だ――――しかし、彼女の側はイデ達を知っていた。
「ごきげんよう?」
青白いうすら笑みで放たれた挨拶は機械的だ。
生々しさのみを残した、作り物めいた笑顔はイデ達の知人によく似ている。
既存の人物の似姿、願いに応じて作られた仮想の人物。
「化身に代行させるほど嫌いなのかよ……」
バンシィや軍隊蟻のように、再現してしまえばよかったのに。ネヴの好みに半ば呆れる。
あれは死者を操るアバターなのだろうか。
武器を構えようとしたときだ。イデとシグマにくっついて身を縮こめるようにしていたドラードが、「ひゅっ」と息をのんだ。
「うっ……」
声にもならないうめき声を発する。
何事かと振り返るより先に、ドラードが後ろからイデの首根っこをつかむ。
「なにをッ」
「う、うえッ」
どもりながらも、強引にイデを後方へ引きずり倒す。
ひとめでみてわかる臆病さからは予想もつかない剛力だった。
文句を言おうとしたイデの頬を、熱いものがかすめた。
違う。かすめたのは、熱などではない。脳内で火花を散らす燃える刺激は、鋭利な裂傷がもたらされたことによるものだ。
イデの頬がぱっくりと裂けている。
ドラードに引っ張られたことで紙一重で回避した。傷の原因である獲物は、床に切っ先を埋め込んでいる。
木の枝ほどの太さの杭だった。土くれをあっさり貫く杭は、簡単に引き抜かれた。黒い先端が獣の牙のように揺れる。
そして、杭は元あった場所へ戻っていく。うえへ、上へ。
戻った杭は天井まで辿り着く。
そこには、女がいた。いつかの死体のように、はりついていた。
快活な色をした髪を豊かに垂らす女性の顔を、イデ達は知っている。
シグマが放心した声で、呟きを転がす。
「ビィ? お姉ちゃん?」
ビィそっくりの女性は何も答えない。
太陽の笑顔は沈み、またイデ達の頭上の闇へ帰る。
一連の動作は、人や獣というより虫じみていた。
三人は食い入るようにそれの影を見ていた。
去り際、茶髪のなかに溶けるように、甘い色をした銀糸が紛れているのを目撃する。銀糸は新たに現れたアバターの手まで繋がっている。
(死者を操る……ビィのやつも死んじまったから、か?)
しかしここにビィの遺体が利用されるはずがないのだ。
舟のなかで息絶えた彼女は、全てが終わった後に葬儀と埋葬を行うため、アルフが丁重に保護していったはずである。
炭鉱には既に多くの『気配』が蠢いている。
本来の潜在能力を開花させたネヴの異能をもってすれば、ここに現す屍体には困らなかったはずだ。ビィを使う必要など、みじんもない。
「シグマ、」
鬼気迫る感情で立ち上がり、シグマを見やった。
シグマは腐乱死体に近寄った犬でもしないだろうシカメ面をしていた。唇はかみ切らん勢いで、眉間の皺は渓谷の如く。
だが、意外にも彼女がネヴに向けた激怒は、舌打ちひとつのみだった。
「ネヴ、あんたなんのつもりなの?」
「あら。怒るかも知れないなと思ったんですが。冷静なんですね」
「怒ってるわよ。でも意味が無い。だってあんた、こんなこと好んでする性格じゃないでしょ」
「…………」
動揺したのはネヴの方だった。
高揚していた顔から表情がごっそりと抜け落ちる。
瞬きの間のことだったが、それで十分だった。
「ネヴ、あんたもしかして」
「私のすることは変わりません」
質問を重ねようとするシグマを遮る。
「やり直して、書き換える。もっといい世界に」
バターブロンドのアバターが糸をひく。
名も無き彼女の指の動きは、先端まで洗練された優美をまとう。
虚無を指で叩くため、このような場でなければ、イメージトレーニングに励むピアニストのようにも見えてくる。
操り糸も、傀儡糸というより楽器の弦の役目をもつようだ。
香水の代わりに死臭をまとうピアニストの無音演奏に応じて、土くれの影から影、洞窟の奥の奥から、招かれた屍体が這い出てくる。
「こうしてみると疑問ですよね。命って、なんだと思います?」
ネヴはピアニストの背後から、映画を撮る監督のように全体を見渡す。
仕掛みが想定通りに動いているのを見て、彼女は自分でも驚いたような声をあげた。
「あなたや私が必死で血を流して、戦い抜いても。どういった人間だったかあっさりと改ざんされ、うち捨てられる」
嘆息ひとつ、首を回す簡単な運動ひとつ。
息抜きを経て、今まで前にでてこなかったネヴがスタスタと前にでた。
腰には例の刀がいつも通りの顔でぶらさがる。
ネヴは微笑んでから腰を落とした。思い出すのは、仕事外の時間に練習として打ち込まれた一撃の数々。
「覚悟を決めて選びとったはずの選択をいった果てで、嘲笑される。冷笑される。それでもまだ戦う。まだ傷つく。必ず報われるという約束もなく、削れていく」
「それは」
何度目かの問いだ。
テストの復讐問題のように出される問いかけの意味が把握できず、間を開けたすきに、イデの眼前に白銀が迫った。
イデにはシグマのような暗闇でも戦える手段はない。
一方、経験はある。先のセンター、現実のデイパティウムでの戦い然り、何度も無明の闇に脅かされた。
であれば、対策も練る。
ましてや相手は動きをよく知る少女なのだ。
シグマがイデを補佐しようと動こうとするのを止める。
「俺は屍体どもは相手にできねえ、こっちでいい! そっちを頼む!」
居合抜きをいなし、距離をとろうとする。
イデの一歩とネヴの一歩には、体格差から生じる大きな差があり、難しいことではないはずだ。ネヴが速くさえなければ。
ネヴは低空を飛び抜ける鳥のように腰を落としたまま、つかずはなれずの距離を保つ。
「そうなるぐらいなら最初から確実に手に取れる果実をもぎとるべきだった? 甘ったるい他者から奪い、したたる果汁を舐めるべきだった?」
今度はイデの長身がアダになる番だ。
縦横無尽の斬撃は、動きの資本となる足から腰の機能性を奪ってくる。
かといって、足腰だけ意識していると、バネのきいた跳躍をして頭部を割られかけた。
「だったら、個人の尊厳なんて、確かに便利な資源なのかもしれませんね」
ネヴは言葉まで発して、息切れひとつなく余裕で連撃を見舞う。
彼女の視点から見ればイデは実に都合よく巨大なマトであろう。
「なにいってんだ」
イデの答えは逆に緊迫で震えている。
苦し紛れに、低体勢に戻った瞬間に足払いをしようとしたが、横転で避けられた。
「いつものあんたならこういってるぜ、『そんなのまっぴらごめんだ』ってな!」
だからネヴは、デイパティウムで容赦なくダヴィデを斬って捨てたのだ。
運動による声の震えと反対に、回答には確信があった。
また、ネヴが黙る。
「こんな殺しあいをして、本当は何がしたい?」
「すぐにわかりますよ」