第二十九話「宵闇のバッカーノ」
指が鳴る。
灯りのスイッチを切り替えるように、ささやかに。
しかし、イデ達は、「ぱちん」というたった一音の恐ろしさを知っている。
広大な白い海が暗闇に包まれた。
「《匣》」
ネヴの一言とともに、足場の感覚が消失した。
イデ達を奇妙な浮遊感が襲う。
彼女は機械のように、工程を歩んでいく。淡々と。粛々と。
その行動原理は、どこまでも人間らしくおぞましい高潔さに満たしながら。
「宿星の再観測開始。模型世界、着工開始」
世界がガラガラと砕ける。砕けた海がガラガラと回転する。
砕けた海のしぶきは物質に変化した。
物体はパーツだ。一体感はない。
公共施設を思わしき階段から、木々といった自然物、古びた建物の壁まで、多種多様な光景のかけらが無差別に舞った。
闇が少しずつ晴れていく。浮かぶパーツたちは、狂ったように激しく流動を行う。
ネヴはイデ達に背をむけて、上下逆さまになった階段のうえを歩いていた。
「降りて」
浮遊感が消える。
逆らいようのない、肌の粟立つ落下の気配。
実際には、暴力的な転落の衝撃は訪れなかった。
鼻腔を、くすぶる煙と外気の匂いが通り抜けた。イデにとっては郷愁を喚起させられる、絢爛と退廃の燻りである。
イデ達は新しく組み替えられた光景を見て、息をのむ。
「俺の街?」
「ここは……首都、か?」
見間違えようがなかった。
たったひとつ残った国、バラールの首都。
中心は薔薇もかくやの輝きと才覚に満ち、貧困と凡夫は隅の隅へ追いやられる魔都。
異なるのは、天にまばゆく輝く純白の月だけだ。
その時、この世のものとは思えぬ叫びが空を貫く。長大な獣の遠吠えだ。
イデとシグマは咄嗟に、敵を警戒して背中合わせになった。ドラードも送れて背を合わせる。
ネヴのアバターに比べると、本物のドラードは震えて頼りない。
都じゅうに響くのではないかという吠えが、遠くでおきたのか、近くでおきたのか。
そんな予想をたてる必要はなかった。
眼前に、獣が現れたからだ。
傷んだ毛並みをもつ、大のおとなをゆうに超える巨大な狼が。
シグマが舌うつ。
「飛び移る狼!」
既に、狼は遺体となって収容センターに遺体が保管されている。
死した獣の影は、いま獲物を前にして、黄金の瞳を爛々と輝かせた。
「今まであなたたちが辿ってきた旅路です。皆さんで揃って戦うには、絶好の舞台でしょう」
狼の後ろでネヴが手を振る。
獣はイデ達三人には明確な殺意を向けていたが、彼女は見えてもいないようだ。
獣憑きでもないドラードは、怪物を前に、声をひっくり返す。
「生憎、僕は伝聞で直接見聞きしたわけじゃあないんだけれどね」
「あら、もとはあなたのせいでしょう? 一度は襲われたはずですし?」
ネヴの思わぬ嫌みに、ドラードは閉口した。
一方、つまらぬ人間達のいさかいに、狼が興味をもつ理由はない。
狼が三人のなかでも選んで、イデを狙って飛びかかる。
「イデ! つったつな!」
銃声が響く。シグマだ。
シグマの服装は、デイパティウムの時のような接近戦向きの装備に変わっていた。
イデのものも、いつのまにか、あの夜と全く同じ服装になっている。
「膂力はあっても戦略は無い。まだ大したやつじゃない!」
シグマの言うとおりだった。
光景と服装が過去に戻されても、記憶と経験は違う。
狼の動作は、ネヴ達と初めて出会った事件とすんぷん違わず凶暴だ。つまるところ、力任せで、愚直なばかりである。
「本当俺ばっかり狙ってたよな、テメエはよ」
どうするかわかっていれば、対応は容易い。
イデは狼の視線を正面から受け止めた。
まばたきひとつせず視線の揺らぎをみさだめる。
舌を出した狼の、浅く獰猛な呼吸。一定だったリズムが変調するタイミングで、飛び退く。
それが、自分の首めがけて飛びかかる合図だと理解していたからだ。
すんでのところでかわす。
紙一重で過ぎ去っていく鋭い顎を横目に、恵まれた体格にそなわった両腕で、狼の喉を押さえつける。
「すぐ終わる」
一方的に襲ってきた相手だ。情があるとはいいがたい。
しかし、顔見知りを二度も三度も死なせるのは、目覚めが悪かった。
イデが狼を止めたのはひとときだった。そのあいまに、シグマが冷徹に引き金をひく。
弾切れになるまで発射された弾丸は、眼球や口内といった柔らかなところを貫き―――
光景が変わった。
濃密な土の香りが充満した、うち捨てられた穴蔵へ。
生きた命の気配は、イデ達本人のぶんしかない。
そう、生きた命は。
「今度は……デイパティウムか」
ダヴィデが守護したつもりになっていた、滅びの迫る街。死者の這いずり回る廃坑。
自己満足のかりそめの希望でまわる、くず鉄の城。
断絶の決まった魔術師の一族が、最後の夢と狂気を託した土地。
「まあ、そうなんですけれど」
みたび、少女の声がふる。
「私、あの人達嫌いですからねえ。多少はアレンジしましたよ。ルーカスさんはチュートリアルというやつで?」