第二十七話「確かめられるヴォロンタ」
イデは足下をみる。
半透明の底から、水が次々とせり上がってきていた。
ネヴはぷかぷかと空中に浮いて、気怠げにどことも知れぬほうへ視線をやった。
【外】を見ているのだろうか。
「色々皆さん動いてますねえ」
足を組み、手の甲に顎を乗せる姿はくつろぎきっている。
「アルフは予想通りなのですが。ビクトリアとアンヘル姉弟は、急にどこかへ行ってしまったようで。何をさがしにいったのかしら」
「あいつらが?」
「私の新しい無意識たち……アバターが慌てて応じてますねえ。私にとってよくない行動には間違いはないようですよ。彼らは私自身、意識していないことに反応することがある――いえ。そんなことより!」
眉をひそめていた彼女が、急に笑った。
「イデさんはどうしましょうか」
ネヴは丁寧に指おり数える。
薄桃の爪を指先でゆったり撫で折る動作をみていると、時間がゆっくり流れるようだ。
「今の状況で物理的な攻撃をしたら、多分死んでしまうでしょうね。でも、あまり容赦しすぎるのもよくないでしょう。一人だけなんの試練もないなんて、イデさんに失礼だもの」
「じゃあなんだ。延々と問答を続けるか? それとも謎解き? はたまた芸でも競うかよ」
「ではそうしましょうか」
遊泳していたネヴがピタリと止まった。
はるか上からイデを睥睨する。微笑んで、人差し指と親指をつまむ形に合わす。
「手品ですよ」
パチン。小気味よい音が反響した。
明るかった海が黒に染まる。太陽を浴びた夢のなかから、夜を迎えて星を飲んだ暗闇へ移行する。
希望を与える時間が終わり、悪夢を愉しむ番が来る。
「イデさんはとっても人間らしくって可愛らしい。ただ棒が四本生えただけの肉塊に生まれた程度で人間だなんて、馬鹿な話とは思いません? なら、何をもって人と呼ぶのか」
手をかざす。今の彼女にとって、この空間を操ることは、スケッチブックにクレヨンでラクガキをするより簡単なのだ。
広げた手を下げるのに応じて、時空のガラが塗り替えられていく。
「イデさんなら、よーくご存じよね? それって、《意志》でしょう。確かめますか。殺すのは嫌だから、単純な手品で。ね?」
イデは何もせず、ひたすら彼女を見上げていた。
「少し遠回しすぎるでしょうか。でもあなたが一番長所を発揮できるのって、忍耐よね?」
◇◇ ◆
場が完全に変わった。
香るは潮でなく、鉄錆の悪臭。無機質な白い壁に囲まれて、残骸が散らばっている。
通路の真ん中に仁王立ちして、イデの前に立ち塞がっている人物がいた。
顔も隠れるような長い髪、イデよりも長い巨躯を持つ異貌の女戦士だ。
天井から声がふってくる。
「あらあら。バンシィさんと戦ったんですか? 頑張りましたね」
ネヴだ。さっと目配せするが、姿は見えない。
「お話を聞かせてくださいといったでしょう?」
「だからってコイツは……」
悠然とたつ巨女を前に、本能が必死に退避を促してくる。
触れただけで相手を塵のように圧縮し、挽き潰す暴虐の怪人。頑丈な肉体など役に立たない。
(いや。だが一度は切り抜けた相手だ。同じ事をすれば――)
「いいえ。残念ですがそれは難しいですよ」
ネヴの悪戯っぽい警告から、数秒も経たないうちのことだった。
長い髪が、ぶわりと舞った。対応しなければ。そう考えるより先に、不自然な空虚感が訪れた。
あって当たり前だった日用品がどこにも見当たらないことに似た、焦りと空虚感だ。
感覚に従って、「ない」と感じた場所を見た。
胸のしたあたりを。空気を目一杯吸い込むはずのそこは、ぽっかりと失われ、赤黒い肉の断面がひらいていた。
「バンシィさんはね、凄く臆病な人なんです。本当は自動発動型なのに、相手が人間だと、うっかり勘違いして仲間を殺しちゃうんじゃないかって、無理矢理ブレーキをかけてしまう。だから動きも精彩をかく」
イデは胸に手を寄せようとしたが、その腕もなかった。
頭がゴロリと床に転がる。逃れられぬ濃密な死の感覚で、脳がいっぱいに満ちるのに、予感があった。
まだ、終わらない。
「そうですよ。私、言ったでしょう? 死なせないっていったでしょう? 死んでほしくないっていったでしょう? それに、ただ記憶を辿るだけじゃあ味気ないですよねえ。人生って色々あるから面白いのだもの」
指が鳴る。
光景が変わる。
きっと今、ネヴはどこかで手をかざしている。イデを新しい幻想に引きずり込むために。
「更にその前は――《軍隊蟻》ですか。あの人たち、怖いですよねえ。一度暴走が始まると自分達でも止められないらしいし。収容対象達が暴れ回っていて命拾いしましたね」
現れたのは先ほどと酷似した廊下だ。違いはある。まだ破壊のあとが見られない。
遠くから階段を駆け下りる足音が、雪崩のような不吉なリズムを奏でて近づいてくる。隣にアルフはいなかった。
「クソかよ……」
イデは歯を食いしばる。
流石にイデも察した。これから行われるのは、【IF】の陳列だ。
イデがネヴを迎えに来るために積み上げてきた経緯を知るのと同時に、そのIFを経験させようとしているのだ。
(耐えるしかない)
イデには、獣たちと戦うだけの強さも智恵もない。
諦めきるだけの要領の良さも持ち合わせていない。
平凡な人間だ。そして、この女はそんな男を愛でたいと願い、最後の一線を越えたのだ。
イデにできるのは、未来を信じて苦痛を耐えることのみ。
はらを決め、襲い来る死を受け入れようとする。
狂った魔女は健気な覚悟を見て、嬉しそうに哄笑をあげた。
「あなたのそういうところが大好きですよ。さあ、楽しみましょう!」