第二十六話「遅れたアルモニア」
外部で待機していたビクトリアは、屋敷の前をウロウロと歩き回っていた。
ビクトリアは弱小とはいえ、憑依の魔術を習得している。
ダヴィデに手を加えられたことで、能力はようやく並の魔術師らしく強化された。
精神の動きに敏感になったビクトリアの感性は、屋敷のなかで繰り広げられる異様な攻防の余波をビリビリと受け取っていた。
「イライラするわ」
屋敷が動いた時点で、ビクトリアはすぐに飛び込もうとした。
なのにベルに止められた。正確にはベルを通じて、カミッロが制止をかけてきたのである。
「ねえ、ちょっと。私達も突入した方がいいんじゃない?」
ビクトリアにはネヴを助けたい気持ちなどさらさらない。
最初から、こうして凶悪な異能者として暴走することを警戒して、ドラードに協力したのだ。
物騒な手段ではあったが、軽々しく殺しを決断したわけではない。
精神に働きかける魔術を有していたビクトリアとその主人には、ネヴの脅威をよく理解していた。
主人がいなくなった今、ビクトリアがなんとしても代わりに役目を果たさなければならない。
爪を噛むビクトリアに、ベルは毅然と首をふる。
「カミッロは待てって。あたし達は戦えないから、残ってもらわないと」
まだ子どもだのに、ビクトリアの知らないことをわかったように言う。
賢しらな様子に刺激され、舌打ちをしたくなる。
「そのカミッロは何をしてるの」
「カミッロはネヴさんを探すって」
「屋敷のなかにいるじゃない」
「いるよ。でもそっちはあっちがやる。カミッロは古株を追うって」
要領を得ない言葉に、ビクトリアは不機嫌に口を尖らせる。
「どういう意味よ、それは」
ベルには、村人を操ったすえに地下室に閉じ込められた恨みもある。
見た目が無邪気を象徴するような年端もいかぬ少女であるのが、いっそ腹立つ。
「カミッロは、なんていうんだろ。みんなの意識の底? を感じやすいんだっていうけど」
「そう、ね。中身を思えば、無意識の海との繋がりは、我々の比ではないでしょうね」
中身はカミッロではなく、人ならざるものだ。
あちら側から来たそれには、《無意識の海》こそホームグラウンドといえる。
「でもあの女は私達の危惧通り、とんでもない怪物になったのよ。たぐいまれな素質があったとはいえ、たった一ヶ月で神降ろしに近しいほど凶悪な異能者に成長してしまった。集中して止めないと」
子どもの駄々か、また何かを企んでいるのか。
緊急事態であるのに一向に屋敷に着手する様子がないことを叱咤する。
ベルは不満に頬を膨らませた。
「一ヶ月じゃない」
「なに?」
「カミッロは『一ヶ月じゃない』って言ってるもん。もっと前からこっちにいた、って」
ビクトリアはくちごもる。意味がわからなかった。
ネヴが一ヶ月どころでない時期から、《無意識の海》にいる。
そんなはずはない。ベルの村の事件さえ、数ヶ月以内のことだ。
ビクトリアはおとなげなくベルにくってかかった。
「……いつから?」
「え?」
「聞きなさい、カミッロに! いつからあの女は《無意識の海》にいたの!」
「じゅ……十年!」
言葉を失う。自他共に直情的な質であると認めているビクトリアが。
十年もの月日をあちら側で過ごしているなど、荒唐無稽にもほどがある。
だが、この状況でそのような嘘をつく理由はもっとわからなかった。
この時、ベルとカミッロとともに残されたのがビクトリアであったのは幸運であった。
もしもこれが他であれば、カミッロの話と目的を理解するのは困難だっただろう。
「嘘でしょ」
ビクトリアは口をあてて声を震わせた。
十年という月日が述べられた理由に、思い当たったからだ。
「ドラード先生に聞いた話では、ネヴィー・ゾルズィは幼い頃に神隠しにあった」
ネヴの主治医であったドラードは、幾つかの情報をビクトリア達に与えた。
情報には、彼女の異能や危機的な精神状況をはじめ、ネヴを診察しはじめたきっかけや過去も含まれる。
神隠しは、ネヴの経緯を語るには外せない話題であった。
ビクトリアも恐れを抱える一方、こっそり興味津々に耳をたてた。
憑依の魔術を受け継いだ娘として、異なる次元との濃密な接触である『神隠し』という現象は非常に心くすぐられてしまう。
だからこそ、その場合における最悪も予想がつく。
「頭部を打ち付け、気を失い。この世ならざる世界を見て帰ってきた――本当は帰ってきていなかったの?」
興奮した口調でブツブツと仮説を並び立て始める。
「生身で《無意識の海》に渡って、何年も何年も? いや。ありえない。現に彼女はここに」
ベルが気持ち悪いものを見る目でみあげているのにも気づかない。
熱中の果て、ビクトリアは合点のいく答えを見つけ出した。
「そうか! 幽体離脱だ!」
カミッロだってもとを辿れば同じ由来をもつ。
神降ろしは通常、《無意識の海》と深く繋がった獣憑きの肉体の中身がカラになった場合に起きる事故だ。
《無意識の海》にのみいるはずの情報生命。【神】とも呼べる概念を性質として発揮する存在の一部が、カラになった肉体に入り込む。
ネヴはそれの特殊例だったのではないだろうか。
ダヴィデは、ネヴの母とダヴィデの父が仲が良かったといっていた。
ネヴの母はとても優秀な霊媒で、降霊術の名人だったという。
母親譲りの魔女(東洋風に言えば巫女ともいえる)の性質が、歪んで現れたのだ。
「降霊術。精神の操作が、間違った形で発動した。まず生身で《無意識の海》に迷い込んで、あちらで幽体離脱の要領で精神と肉体が離れ――肉体だけが帰ってきた!」
まず大地震という特別な状況。
特殊な状況と災害への恐怖心が、異質な興奮に繋がり、巫女の神がかり的なトランス状態に至った。魔術――降霊術、異なる精神と接触する異能の発動である。
運悪く混乱のさなか頭を打ち、未熟な能力が間違った発動の仕方をした。
生きたまま《無意識の海》に渡ってしまったのは、巫女の体質のせいだろうか。神と接触し、剥き身の神威を我が身に降ろしてきた異国の古き血のチカラ。
その後のことは本人も含め、誰もわかるまい。
ただ、結果として彼女は現実世界への帰還を果たした。
目の前に彼女がいれば、誰もがそう思う。
肉体に魂は宿る。生きた体と精神は常にいったいだ。常識である。
だがカミッロの言葉を信じれば、彼女は本当は帰ってきていなかった。
約十年。
精神もともに帰ったようにみえて、心はずっと《無意識の海》に置き去りだった。
強い異能も、精神が異常な状況に置かれ続けていたせいだとしたら。
人の精神を見る第三の瞳。松果体。脳のなかにあるという、進化によって失われた眼。
とある学者によれば、この世には物質と精神という根本的に異なる二種の実体が存在するという。両者が相互左右するのは、松果体の働きによるという。
かつて魂は松果体にあると考えられていた。
ネヴが怪物に成り果てたのは、不幸な要因が重なった結果だ。
知性の獲得と引き換えに失われた器官の発達。魂と物質を認識し、干渉する異能。
ANFAとい異常が飽和した場所ゆえに、通例から外れた異常すら「ただの獣憑き」に見えて真相に気づきにくい環境。
精神と肉体の作用を操ることに特化した血筋。
精神は遙か離れた場所からでさえ肉体を動かした。
そのような状態で、一般社会に馴染めるはずがない。能力の酷使もあいまり、常に莫大な負荷がかかっていたはずだ。
つまるところ、情緒不安定。躁鬱。視野狭窄。感情と思想の暴走など――。
「けれど、自覚はなかったのね。あればきっと自己申告していたはず」
事実、一応は信用されていたはずのドラードも、真相には辿り着いていなかった。
「つまりカミッロは、《無意識の海》をずっと彷徨っていた方――幼子のネヴを追いかけているの?」
「うん。肉体が《海》の深層に接触したおかげで、ようやく解放されて、はしゃいでるらしいよ」
ビクトリアはようやく得心した。
これはイデとアルフでは気づきようがない一面だ。彼らは精神干渉の異能を持たない。ダヴィデならばわかるかもしれないが。
「異能が急激に強力になったのは、肉体と精神が統一されたせいなのもあるのね。時間が経てば完全に融合するでしょうけれど、今はまだ分離の残滓が残っているのかしら」
「多分? カミッロはそういってる」
車椅子に乗った少年は顔筋一つ動かさない。
悪意の塊であるはずのカミッロが、姉を通じて返答を重ねるあたり、相当ネヴを警戒しているようだ。
ならば裏切りや嘘はないと信じていい。
「人手が足りないわ。屋敷のなかはあの三人に任せて、私達は他の要因を解決しましょう。片割れを押さえ込めれば、肉体も弱る?」
「他のアバター達もね。逆に言えば、肉体側をおさえたところで、精神側が残っていれば意味が無いかも――ってカミッロが。え、どういう意味? ぜんぜんわかんないんですけど」
ベルはネヴとレトリ島についてわからないまま、弟からのテレパシーを伝言する。
目は白黒して、不安に満ちていた。生憎、ビクトリアには優しく構ってやるつもりはない。
「私がわかってるから問題ないわ。要するに、島のアバターどもをぶん殴りつつ、幼女を捕まえればいいのよね?」
「ビクトリアお姉さんだけで出来るの? そんなちっさい背丈で」
ベルは自分とそう変わらない背丈のビクトリアを頭からつま先までながめた。
あらかさまに胡乱な目だ。
「ふふん」
対して、ビクトリアは胸をはる。
「私の金属の体はダヴィデ渾身の一作。呼べば来るのよ」
「?」
ビクトリアはベルに背をむけ、海をあおぎみた。
「きっと収容施設ってとこに回収されちゃったでしょうけれど。そろそろだわ。だって私、この島で眼が覚めたのと同時に、呼んだもの」
強く吹き付ける風を受け、眩しいものを見るように目を細める。
水平線では太陽がきらめいていた。丸い光の玉に重なるように、黄金の輝きがチカチカとまたたく。
ビクトリアは黄金を目にして口角をつり上げた。
「私、実はロボなの」
「はあ?」