第二十五話「ヴィヴィアーチェ・ドルチェ」
アルフを包んだ箱が停止した。
四方の壁がゆっくりと倒れる。壁は水に溶ける紙のように、音もなく消えた。
アルフはふぅ、と大きくのびをした。
「こりゃまた気を遣ったなあ」
眼前に広がるのは、青い青い海だ。
太陽の光を浴びて水面は輝き、潮の香りが本能的な郷愁を呼び覚ます。
汚れていない海など大昔の話。不老となったアルフがまだ子どもだった時の話なのに。
海が全生命の母であるというのは真実であるらしい。
かつてネヴが神隠しにあった場所でもある。あの日以来、アルフは海際の浜が苦手だ。
あの海も収容センターと同じく、隔離されて魔術で保護された、数少ない『美しい海』だった。
砂浜の向こう側から、少女が歩いてくる。
実際には女性といっていい年齢であるはずなのに、可愛らしい顔立ちの彼女はいつまでたっても少女と形容したくなる。
赤子の頃から面倒を見てきた、育て親の欲目もあるかもしれない。
「たとえお嬢がおばあさんになっても、オレはつい、子ども扱いしちまうだろうね」
「ええ。貴方は歳をとりませんから。私も前までそういう未来が来るのかなと考えた時がありました」
軍服のりりしさを取り入れたデザインの白い服を着たネヴがやってきた。
距離は数メートルしか空いていない。腰には刀が下がり、柄を片手で押さえている。
「表では新しい異能で遊んでいるのに、オレにはそれ?」
「精神干渉の類いの異能は、アルフには通じないじゃあないですか。今思えば、だからこそ私のお目付役に選ばれたのかもしれませんね」
「そうだなあ。親父さんなら、この可能性を見越していた可能性はある」
ネヴの父親。ANFAのボス。
彼とネヴはよく似ている。双方とも、人間が大好きだ。人間が紡ぐ物語、生き様というものをこよなく愛している。
違うのは、ネヴは積極的に関わろうとすること。ネヴの父親は滅多に表に出ないことだ。
なんにせよ、今回の物語にもまた、彼は登場する気がないのだろう。
「本当はこういうのは、父親がやってやるべきなんだけれどなあ」
ふつふつと怒りがわいてくる。
ろくに生き方も知らないような歳の我が子を放って、どこの高みから見下ろしている?
アルフはかぶりをふった。
今は目の前の子に集中しなければいけない。
アルフは笑みを取り繕い、ひとつ質問する。
「これといい、幼い頃のお嬢が屋敷を駆け回っていたのは、オレをからかったのかい?」
ネヴがいぶかしげに眼を細めた。
「幼い私? なんの話です?」
「何?」
「私、嘘はつきません」
話がかみ合わない。ネヴは嘘をつかない。ごまかしなら、アルフはすぐに気づける。
微妙に沈黙が流れた。
どちらからともなく武器に触れる。
「やろっか」
「はい」
考えるより先に腕が動いていた。
どう動いたか認知する頃には、白銀の刃が眼前で止まっていた。
ネヴが繰り出したのは、至近距離からの神速の居合い。
並であれば頭をかち割られていた初撃だ。それを防ぐのは黒い警棒である。
「ネヴ。君を鍛えたのは誰だと思っているんだ」
軽く笑い声をあげた。同時に警棒を緩く回し、先端で刃を絡め取ろうとする。
ネヴは足を開いて身をかがめ、刃を引く。アルフもこっそり長い足をだして、彼女の足の甲を踏んで動きを阻害しようとしたのだが、それも華麗なステップで避けられた。
「オレは君のお目付役だぜ。君の能力をのばすためにハニエルを選び、戦闘の指導は任せたけれど。傍に居続けたし、練習の相手にもなった」
動きがわかっているのはお互い様というわけだ。
「まだまだ若い子に負けるわけにはいかないね。年の功がある」
「どうでしょう」
買ったばかりのオモチャを自慢するような無邪気な顔だ。
二撃目が放たれる。言葉の割に踏み込みが甘い。これならば難なく受けきれる――
(そう思うこと自体が怪しい)
彼女が最適の技を放っていれば攻撃される位置を守る。
頬が薄く切られる感覚がした。
「幻影を混ぜた一撃か。足下をごまかしたね」
「心を惑わすとまではいけずとも、視覚は影響が出るようでしたから」
「嫌な成長の仕方をしたなあ。偉いぞ」
相手にとって一番嫌なことをするのは大事な戦術だ。
純粋な探求者からすれば邪道の技だが、生き残るには勝てばよいのだ。
「しかし今日のオレは、久しぶりに叱らなくちゃいけない」
距離を取り合い、二人の間に空間ができる。
攻めのネヴと護りのアルフ。長引く戦いだ。だがアルフは余裕を崩さない。
「流石においたが過ぎる。仕置きの時間だ、お嬢」