第二十四話「バーニョ・ディ・ソーレ」
自らの心を満たすすべを知らぬものは、底に穴の空いた桶のようなものだ。
あるいは、いくら喰らえど満たされぬ胃袋。
特に、その食餌が『他者の幸福』に限るのならば、ことは悲惨だ。
満たされないくせに他者を満たし、なお足るを知らず。食べる。食べる。永遠に食べる。
幸福に食い足りなければ、次は悲痛を食う。悲痛で飽食しなければ、また幸福を得る。
無限に生産と消費を繰り返す。
言い訳しようもなく、ネヴィー・ゾルジィの本質は獣である。
思考から生まれた『本能を超えた欲』を抱え、あるがままの世を踏み荒らすさが。際限なく人間を食い荒らす、狂った獣の志であった。
ネヴの白い衣服が、精神の海で光の膜のように輝く。
頬が薔薇色に染まる。イデとアルフの靴底がゆるやかに地に降りた。
「ネヴ。帰るぞ」
ひとこと、はっきり声をかける。
聞き違えようのない言い方だったはずだ。
しかし彼女の黒い瞳は夢見心地に揺れて、正気に見えない。
「聞こえてんのか? オイ」
「喜んでください。あなたは今まで通り生きてさえいればいい。あなたの人生は肯定される」
「…………」
「イデさんは可愛く苦しんでくれればいいんです。私はそれさえあればあなたを、人を愛せるから。できないことは全部私がやってあげるから大丈夫! やりたいのにできないことを目指してのたうちまわってくれれば、それで最高!」
狂念に溺れる少女に、イデ達は彼女の生まれを思い出した。彼女の母は魔を操るものであった。
魔女。
もとより魔女は、その技能をもって人を助言し、癒やす能力をもつものを指していた名だ。
ときに神霊を降ろし、祝福を迎え入れ、災禍を予言した超常の人。
人々のそしりに応え、厄災を振りまき、病毒を振りまく悪夢に変質した怪奇。
環境の生んだ歩く災害。人理を揺るがす、感染する暴走心―――魔女の怪物。エマとドラードが脅威としたものは、結局出現してしまった。
「人間ってやっぱり凄い!頼もしい! かっこいい! こんな生き物と同じ構造を持ってるなんて私も凄い可能性があるのかも! って思えます。貴方は人類の希望です。正確にいえば、私が人類を救いたいと願えるという意味での希望かな?」
愛は相手を包み込んで傷を癒やし、守る。
その凍って縮こまった心を温めようとするものもある。
ある意味、相手の心を変える――破壊し、浸食する性質をもつ、ともいえる。
イデは声を低くして問う。
「そのためなら俺達もってことか? 随分手厚い歓迎だったな」
アバターの行動は自立しているとはいえ、シグマにいたっては取り返しのつかない大怪我を追った。
ダヴィデはもとから嫌われていたからわからない。正気でも殺しにかかっていた気がする。
しかしネヴの反応は予想外のものだった。
ぎょっと目を見開いてのけぞり、よく覚えている彼女の顔になる。
「えッ!? もしかして加減間違えちゃってました? すみません。まだ育成中で扱いになれてなくって。少し能力を見せて安心してもらうつもりだったのですが……おおん……」
「おおんじゃねえよ馬鹿」
いつもの怖いようで間の抜けた彼女だ。
「流石に全員の目を借り続けるとか無理だって。空間いじくって時間のばしたところで、こちとらこの異能を使い始めて一ヶ月だぞ。だから必死で練習して能力育てて、一番いい使いこなし方を勉強してるんですよ今ぁ」
顔を赤く染め、羞恥と反省で身をよじる。
大仰なリアクションに懐かしさすら覚えた。
微妙に脱力した時、ネヴがポンと手を叩いた。
「でも、逆に考えましょう! ここまできたら多少『手厚く』いくのもありかもしれませんね」
彼女が人差し指をつきだし、空中を撫でるように滑らす。
イデとアルフの間に、指の動きに応じて、ペンで引いたかのような線が入った。
そして割れる。
「全てをご用意できるまで、眠っていて頂けますか?」
今度は両手を出して、横に開く。
線を中心に、イデがいた側とアルフがいた側が別れた。
二人で目を合わせたがどうしようもできない。
「さて。アルフはこちら。イデさんはこちらにしましょうか」
アルフが取り残された方をさす。
四角い箱状に切り取られた海が上昇する。イデは青く輝いてのぼっていく箱を歯を食いしばって眺めた。
「あら。大丈夫ですよ。殺しませんから。というか、殺せる気じたいはしないですし」
精神の海の底は、イデとネヴだけになった。
内面の荒々しさと反対に、両足を交差した優雅な立ち姿で、イデに微笑みかける。
「ここまで来るまでに色々頑張ったのでしょうね。よろしければ、お話を聞いてもいいですか?」