第二十三話「ようやくのズヴィルッポ」
記憶にふりまわされたイデ達の意識が急速にあげられる。
エレベーターに乗ったときのような、重力に引っ張られる奇妙な浮遊感を味わう。
その後、現実のうえにゴロリと転がされた。
ダヴィデの声がふってくる。
「よかった。ひとときのこととはいえ、壊れる前に取り出せた」
イデは「もっと楽な方法はなかったのか」というために顔をあげようとした。
その目の前の床に、パタタと水滴が落ちる。水滴は深紅の色と死体人形を動かすための粘膜で、ルビー色に輝いていた。
「あんた、怪我を」
「気にしないで。必要経費だから。アンヘル姉弟とビクトリアちゃんはなにをしているんだろうね。サポートをするはずだったのに。そのうち動くのだろうけれど。ふむ」
話し方と反対に、ダヴィデは酷い有様だった。
優美だった顔立ちはどこも真っ赤に崩れている。瞳からは血の涙が流れ、白眼は見当たらない。
攻撃者はいない。以前ドラードが説明したとおり、負荷で自壊してしまったのだ。
「ダヴィデ」
「ああ、無理に話さなくていいよ。なにをいわれようと、無駄な時間を使うだけさ」
いうあいだも、耳からまで出血していた。
本人よりイデのほうが痛みを感じて渋面になってしまう。
ネヴに干渉するための代償がこれほど重いとは。
心揺らぐイデの肩を、当のダヴィデが掴む。
「彼女の居所を掴んだ。今からそこに送り込む」
ダヴィデに迷いはなかった。
「これで最後だよ。殺すでも止めるでもいいから急いでね。僕はもう壊れてしまうから」
「……わかった」
イデの静かな返事にダヴィデがにっこり微笑みかけた。
システム的なものだとはわかっていても、気持ちが和らぐ。
「では、いってらっしゃい」
◇ ◆ ◇
声が聞こえる。彼女の声が。
渦巻く母なる海のなかで、人魚の歌のように甘く。
「愛を証明しましょう」
侵入者を拒むでもなく、一層深くへ招き入れてくる。
暖かな歓迎に、イデ達は理解した。
最初から彼女はイデ達を拒んでなどいなかった。
最初からここにくることをわかっていた。
ただ、学校の成績を自慢する子どものように、無邪気に努力の成果を見せてきただけなのだ。
水底でネヴが遊んでいる。
手袋も靴も脱いで、白い足をさらけだす。深くなるほど闇が濃くなる水のなか、彼女がひそむ底は日だまりのように淡く発光していた。
ネヴはそこからイデ達にむかって手をのばす。手をさしのべる。
初めて見る手の甲は古傷でみっちり埋まっていた。
「貴方がどんなに自己否定しても、絶対に信じざるを得ないような、とびきりの愛をあげましょう」
――どうしてそんなことを?
イデの無言の問いに、ネヴが微笑んだ気がした。
「一度憎悪を知ったものは二度と何も知らなかった無垢な羊に戻れない。失われない幸福を信じられなければ、いくら完璧な幸せに包まれても、浸りきるのは不可能です。私にもその苦しみはわかる」
だから心折れる。信じる強さも、忘れ去る愚かさも、どちらも諸刃の刃なのだ。
そこでネヴは閃いた。
「ならば、幸福と不幸の両方を与えればよい。母さんは言ってた。幸せっていうのは贅沢なんだって」
不穏な響きに、心がざわめく。
ネヴは何をいっている? 人を幸せにするために、こんなことをしでかしているのではないのか。
少女はあくまで夢見心地にたゆたう。
「私の人生は常に苦痛を味わうものだった。だから世の中がずるい人と汚いものでいっぱいで、恐怖から逃れられないのを知っている。それでもたくさんの縁に恵まれて『生きるのが楽しい』と思うことができた」
ネヴの味わってきた、拒否と不寛容に痛めつけられた過去。
ドラードを通して、イデも知っていることだ。
彼女にとって優しいものは、平凡な一般市民でなく、戦う狂人だった。だからここまで壊れてしまった。
そんな彼女の辿り着いた答えがしめされる。
「永遠の幸福を信じられないのなら、刹那の喜びを与え続けます」
彼女は個人主義者だ。
彼女は刹那主義者だ。
彼女はロマンチストだ。
他人から見れば異常に見える愛と性質の全てが、最悪の方向に花開く。
「そうよね。ずっと幸せのなかにいて慣れきってしまったら、何が幸せなのかわからなくなってしまう。疑って、結局不幸になっちゃう。
だったら絶え間ない苦しみがいい。苦しみのなかでなら幸せがわかる。助けられる瞬間、貴方は素晴らしい存在なんだって教えてあげられる。
山ほどの試練と闘いましょうね。導いてあげます。死ぬまで戦いましょうね。励ましてあげます。
ずぅっと寄り添って支えて続ければ、寂しくだってない。悪意のなかにいるから、どんなに善性を信じられない人間でも救える」
「こんな都合のいい世界があるはずがない」と怯えずに、安心して幸福をむさぼれる。
壊れるぐらいに幸せな、終わらない悪夢に沈めてやろう。
「だから、あなたも。救えるわ、私。そしてあなたを救うついでに、あなたと同じ他のみんなもまとめて幸せにしてあげたいの」