第二十一話「アルトゥリ・ドルミーレ」
足下がぬける。
イデは目をつぶりたくなるのをなんとかこらえた。着地をするのなら、当て身をとるためにタイミングを見極めなければならない。
だが、ひとときの暗闇を経た先には、地面など広がっていなかった。
水だ。見渡す限り、白く輝く波をたゆたわせた水で満たされている。
浮遊に似た感覚とともに、体はゆっくり落下していく。
上に向かってみようと思うも、うまくいかない。
泳ぎ方がよくわからないのだ。
都市部で汚染されているのは空と海ばかりではない。川だってそうだ。
泳げるほど清浄な水といえば、手間暇かけて作られたプールぐらいのものである。
《泳ぐ》という行為じたい、富裕層のステータスとして残るのみの、失われつつある技術になりつつある。
下層民が泳ぐ機会なんて、川に死体として浮かぶ時ぐらいだ。
アルフを探せば、彼もイデと同じように緩やかな落下の最中であった。
アルフは抵抗もせず、沈んでいっていた。その目は真剣に下方を見つめている。
(何か……あるのか?)
イデもならう。
水底から無数のあぶくが浮き上がってくる。
ふわふわとした大きなあぶくのひとつが、イデ達のそばを通った。
すると明瞭だった視界がぶれ、まぶたの裏に見覚えのない幻が浮かぶ。
――見えた場所は島の集合所だ。あかね色の夕日が窓から差し込むなか、そこで知らない青年が机に突っ伏していた。
「トレモンティさん。なにも心配しなくてよいのです」
よく知る声が響く。イデはばっと目を動かした。しかし黒髪の少女はどこにもいない。
声は【トレモンティ】と呼ばれた青年のすぐ隣にいるかのように、はっきりと話した。
「もう疲れてしまいましたか?」
いたわるような響き。親友か家族の如き暖かさを感じてしまうささやきに、青年はのろのろ頷いた。
「もう疲れた」
青年は警官の服を纏っている。夕暮れに晒され、ひどくくたびれて見えた。
手元には酒瓶がある。それはただ置物になるばかりで、くちも切られていない。青年は「待て」をされている犬のように恨みがましく酒を睨む。
「体だけでいえば、まだ動けるのはわかってる。でも、朝ベッドから起きるのが酷く怠い。前に進めという簡単な命令ですらうまくできない。心がついていかないんだ」
泣き言をこぼす。ネヴはそれを何も言わずに受け止めた。
青年はふと窓の外をみやる。
時間軸は既に島に異変が起き始めた後。イデ達がやってくる前。
レトリ島で、激しい攻防戦が生じ始めた頃合いだろう。
「……でも、やめてしまうこともできない……ここでやめたら、あいつを殺してまで果たそうと願った願いを、また裏切ることになってしまう」
うなだれるトレモンティに、再びネヴが語りかけた。
「ならば《私》になってしまいましょう」
――イデはその一言で気づく。これは、本物の【トレモンティ】にあった過去の出来事だ。アバターが出現するに至った経緯である、と。
「今でこそ自分の能力を成長させるためにレトリ島にいる私ですが、もう少し安定したら、外に出ようと思っています。そうすればいずれ、全ての人々の無意識の底に私が寄り添うようになる。今のあなたにそうしているように」
「……どうやって?」
トレモンティはネヴによって、臆病な自己保身を乗り越え、理想のために戦う気力を得た。
それと同じことが島の外の人間にも起きる。
青年トレモンティは、期待と恐怖がない交ぜになった顔をあげた。
「《私》を一度でも感じればよい。そしてあなたが《私》になれば、あなたに会った人間は《私》を得る。そして更にそういった人間が他者に出会い、また《私》を知る」
それは一度起きてしまえば、もはや際限を失う感染の話だ。
否応なしに希望を持つ、不自然な現象。トレモンティとネヴは、祝福のように異常を語る。
「私は人々と繋がり、励ますことができます。困難に精神を苛まれても、孤独のなかで折れるなくなるのです。しかし、無理矢理立ち上がらせ続けることは、できますがやりません。それは貴方たち自身を踏みにじってしまう」
「じゃあどうするんだい」
「勿論、諦める屈辱も理解できます。それによって己を恥じ、憎むこともまた憂うべきこと。ゆえに、《私》の一部にします。私は貴方を裏切らない。新しい存在に貴方の願いを代行させるのです」
大丈夫。女は心底から、同情と労りをもって微笑む。
「私の愛は消えたりしません。貴方が嫌いな人間になる前に、永遠にひとつになってしまいましょうね」
――視界が切り替わる。あの奥底に落ちる大海の光景に。
はっと意識を取り戻したところに、またあぶくが迫る。そこにも、別人の記憶がしまわれていた。
イデ達はここがどこか理解した。
ここは無意識の海。ネヴが作り上げた新たなる小宇宙のなかだ。
ネヴと繋がった島民の意識と記憶が入り乱れ、イデ達を襲う。
全く異なるはずの人間達の感情がなだれこむ。果実を握りつぶすように瑞々しく鮮やかな喜怒哀楽が、泡の形でイデ達を包んでは、弾けて消える。
一人の人間が受け止めきれる情報量ではない。
無数の願いを投射され、ちっぽけなただひとつの自意識など簡単に薄れていく。
(いっそこの荒波に自らも身投げしてしまおうか?)
そんな考えがチラリと意識の片隅に浮かぶ。
いや、そんなわけにはいかない。ここがネヴの小宇宙なら、どこかに彼女がいるはずだ。
うるさわしい世界を拒絶するために目をつぶった時、イデの意識に何者かの手が触れた。
《――イデくん。今ひっぱりあげるよ》