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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第六章 獣の愛
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第二十一話「アルトゥリ・ドルミーレ」


 足下がぬける。

 イデは目をつぶりたくなるのをなんとかこらえた。着地をするのなら、当て身をとるためにタイミングを見極めなければならない。

 だが、ひとときの暗闇を経た先には、地面など広がっていなかった。


 水だ。見渡す限り、白く輝く波をたゆたわせた水で満たされている。

 浮遊に似た感覚とともに、体はゆっくり落下していく。

 上に向かってみようと思うも、うまくいかない。


 泳ぎ方がよくわからないのだ。

 都市部で汚染されているのは空と海ばかりではない。川だってそうだ。

 泳げるほど清浄な水といえば、手間暇かけて作られたプールぐらいのものである。

 《泳ぐ》という行為じたい、富裕層のステータスとして残るのみの、失われつつある技術になりつつある。

 下層民が泳ぐ機会なんて、川に死体として浮かぶ時ぐらいだ。


 アルフを探せば、彼もイデと同じように緩やかな落下の最中であった。

 アルフは抵抗もせず、沈んでいっていた。その目は真剣に下方を見つめている。


(何か……あるのか?)


 イデもならう。

 水底から無数のあぶくが浮き上がってくる。

 ふわふわとした大きなあぶくのひとつが、イデ達のそばを通った。

 すると明瞭だった視界がぶれ、まぶたの裏に見覚えのない幻が浮かぶ。


――見えた場所は島の集合所だ。あかね色の夕日が窓から差し込むなか、そこで知らない青年が机に突っ伏していた。


「トレモンティさん。なにも心配しなくてよいのです」


 よく知る声が響く。イデはばっと目を動かした。しかし黒髪の少女はどこにもいない。

 声は【トレモンティ】と呼ばれた青年のすぐ隣にいるかのように、はっきりと話した。


「もう疲れてしまいましたか?」


 いたわるような響き。親友か家族の如き暖かさを感じてしまうささやきに、青年はのろのろ頷いた。


「もう疲れた」


 青年は警官の服を纏っている。夕暮れに晒され、ひどくくたびれて見えた。

 手元には酒瓶がある。それはただ置物になるばかりで、くちも切られていない。青年は「待て」をされている犬のように恨みがましく酒を睨む。


「体だけでいえば、まだ動けるのはわかってる。でも、朝ベッドから起きるのが酷く怠い。前に進めという簡単な命令ですらうまくできない。心がついていかないんだ」


 泣き言をこぼす。ネヴはそれを何も言わずに受け止めた。

 青年はふと窓の外をみやる。

 時間軸は既に島に異変が起き始めた後。イデ達がやってくる前。

 レトリ島で、激しい攻防戦が生じ始めた頃合いだろう。


「……でも、やめてしまうこともできない……ここでやめたら、あいつを殺してまで果たそうと願った願いを、また裏切ることになってしまう」


 うなだれるトレモンティに、再びネヴが語りかけた。


「ならば《私》になってしまいましょう」


――イデはその一言で気づく。これは、本物の【トレモンティ】にあった過去の出来事だ。アバターが出現するに至った経緯である、と。


「今でこそ自分の能力を成長させるためにレトリ島にいる私ですが、もう少し安定したら、外に出ようと思っています。そうすればいずれ、全ての人々の無意識の底に私が寄り添うようになる。今のあなたにそうしているように」

「……どうやって?」


 トレモンティはネヴによって、臆病な自己保身を乗り越え、理想のために戦う気力を得た。

 それと同じことが島の外の人間にも起きる。

 青年トレモンティは、期待と恐怖がない交ぜになった顔をあげた。


「《私》を一度でも感じればよい。そしてあなたが《私》になれば、あなたに会った人間は《私》を得る。そして更にそういった人間が他者に出会い、また《私》を知る」


 それは一度起きてしまえば、もはや際限を失う感染の話だ。

 否応なしに希望を持つ、不自然な現象。トレモンティとネヴは、祝福のように異常を語る。


「私は人々と繋がり、励ますことができます。困難に精神を苛まれても、孤独のなかで折れるなくなるのです。しかし、無理矢理立ち上がらせ続けることは、できますがやりません。それは貴方たち自身を踏みにじってしまう」

「じゃあどうするんだい」

「勿論、諦める屈辱も理解できます。それによって己を恥じ、憎むこともまた憂うべきこと。ゆえに、《私》の一部にします。私は貴方を裏切らない。新しい存在に貴方の願いを代行させるのです」


 大丈夫。女は心底から、同情と労りをもって微笑む。


「私の愛は消えたりしません。貴方が嫌いな人間になる前に、永遠にひとつになってしまいましょうね」


――視界が切り替わる。あの奥底に落ちる大海の光景に。

 はっと意識を取り戻したところに、またあぶくが迫る。そこにも、別人の記憶がしまわれていた。

 イデ達はここがどこか理解した。


 ここは無意識の海。ネヴが作り上げた新たなる小宇宙のなかだ。


 ネヴと繋がった島民の意識と記憶が入り乱れ、イデ達を襲う。

 全く異なるはずの人間達の感情がなだれこむ。果実を握りつぶすように瑞々しく鮮やかな喜怒哀楽が、泡の形でイデ達を包んでは、弾けて消える。

 一人の人間が受け止めきれる情報量ではない。


 無数の願いを投射され、ちっぽけなただひとつの自意識など簡単に薄れていく。

(いっそこの荒波に自らも身投げしてしまおうか?)

 そんな考えがチラリと意識の片隅に浮かぶ。


 いや、そんなわけにはいかない。ここがネヴの小宇宙なら、どこかに彼女がいるはずだ。

 うるさわしい世界を拒絶するために目をつぶった時、イデの意識に何者かの手が触れた。


《――イデくん。今ひっぱりあげるよ》


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― 新着の感想 ―
[良い点] ここここここここわっ! 慈愛と労りに満ちた、苦しみだけでなく願いまで背負ってくれる存在怖い!! 説明聞いて怖いと思ってたものが、その実際の誠実なやり取りを目の当たりにすると更に怖い! こん…
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