第十八話「確かなエロジオーネ」
イデは目を覚ました。
先ほどまで海岸でトレモンティと戦っていたはずなのに。
目を白黒させて、咄嗟に飛び起きる。
まだ視界はぼんやりしていて、はっきりモノが見えない。まぶたが重くてたまらない。
かろうじて見える家具のシルエットや配置には見覚えがある。チェレステの住居だ。
「大丈夫かい?」
誰かがイデが起きたのに気づいた。
やわらかく声をかけられる。こちらは知らない声だった。大人の男性だ。
白衣を着ている。医者だ。
「君は気絶したんだよ」
「気絶? 俺が?」
「アドレナリンで自覚がなかったのかな。君はもう疲れ切ってボロボロだ。折れている骨もあるし、おなかなんて内出血で真っ青。血も足りない。丸太で襲われでもした? 本当なら病院のベッドで安静にするべきだよ、君」
言われてみれば、管理収容所で散々な目に遭っていた。
バンシィの異能を喰らわずに生き延びることはできたが、あちこち痛い。
どうやら海岸で一度限界を迎えて気絶して、運ばれたようだ。
「……トレモンティは?」
「安心しなさい。あれ――トレモンティは海に沈めてきた。そのうち肉体に精神が入っているわけではないから、そのうち新しい体が出来て蘇るだろうが。すぐはないよ」
誰かは知らないが、事情に通じているらしい。
だんだん視界がはっきりしてきた。イデを見下ろす医者の顔も見えてくる。
その顔に奇妙な既視感を覚えた。
医者は、まじまじと見てくるイデの視線を嫌がるでもなく受け止める。そして既視感の正体に気づいたイデは、ぎょっとのけ反った。
「ライオネル・ドラード……!?」
イデが知る彼より若く、少々スリムになっている。しかし彼はネヴの主治医であったライオネル・ドラードによく似ていた。
彼に息子がいればこのような人物だろうか。
イデの驚愕に対し、医者はゆったり頷いた。
「したの名前は少々違うが。確かに僕はドラードだ」
しばしの混乱を経て、イデは彼の正体に思い当たる。
「アバターか」
「ああ。役割は《医療者》」
イデの知るドラードは、やや気弱で、その割に物事に打ち込む性質の人物だったように思う。
目の前の彼は、イデの知るドラードより落ち着いていた。
「容姿と名字のアーキタイプになった人物は、どうやら我々の宇宙の一部になる前に亡くなられたようだね。僕自身に彼本人は含まれていないよ。彼女にとって人を治す人物として印象的だったのが、この人だったんだろう」
ネヴのなかにあった医者のイメージと、複数人の抱く理想的な医者のイメージが混ざり合った結果できあがった仮想人格。
死したはずなのにここにいるのは、そういうわけであるらしい。
「【パス】――アバターは人格が独立しているんだ。どう考えるかまで支配下にあったら、素材になった人々の心を勝手に使うことになりかねない」
アバターのドラードとイデの会話が聞こえてきたのか、アルフがひょっこり顔を出す。
シグマはいない。
彼女は大怪我を負わされた。生きているのだろうか?
イデが不安になったのを敏感に感じ取り、ドラードがおもむろに答え出す。
「僕が構成する異能は【活性】」
このドラードも、トレモンティとおなじくネヴと似て非なる能力を持っていた。
ダヴィデ達がどうなったのか、トレモンティをイデのもくろみ通りに倒せたのかも気になるが、今はシグマだ。
「あるべき流れに沿うことを、手助けする能力。いいかい、あるべき流れ、順当な道筋だよ」
「つまり?」
「細胞を活性化して傷口を塞ぐ。肉は再生し、流血は止まる。それだけだ。失った腕がまた生えるなんて、明らかな異常だからね」
シグマの腕は切り落とされたまま、戻らない。
宣告だった。
それでもイデは安堵の溜息をおとす。少なくとも、彼女の命は助かった。
「彼女はここに置いて行きなさい。彼女は役目を果たした」
「……あんたはどうしてここに?」
複数の意図が込められた質問だった。
彼がイデ達を助ける理由がわからないし、どうやって迅速にイデ達の元へ辿り着いたかもしれない。
「この女性の犠牲と献身に、僕は呼び寄せられた。医療者だからね。善き人々の癒やし手、行き止まりにつまづいた人へ次なる道をうながす人間というわけだ」
ドラードのいいぶんは、やや抽象的だ。
現在のネヴの異能をあてはめるに、レトリ島はそれ一帯が彼女の脳内のような状態になっている。
そのアンテナにイデ達の行動がひっかかり、彼女の脳内から派生した人格であるドラードも知ることになったのだろう。
「敵対するアバターがいるのなら、味方するアバターも現れるのは、ある意味平等、なのか?」
「別段味方するつもりもないよ」
人は矛盾をはらむ。ドラードがトレモンティの対なのかと思いきや、やんわり否定される。
「僕は僕に賛同しているし、反対してもいる。人心に干渉するのは本当に正しいことなのか。しかし、多くの人々が孤独と不理解ゆえに壊れるのも事実。今の価値観ではおぞましい悪であっても、遠いいつかでは、画期的な救世主になっているかもしれない……」
中間的な意見だ。
ネヴがこうなった理由に共感する部分はある。医療者と名乗るように、心身の保護と延命を尊んでいる様子だ。
一方で、客観的に見た彼女の怪物性と理不尽を非難している。倫理観を備えた医者らしく。
逡巡ののち、ドラードは眉をひそめて肩を落とした。
「僕の答えを言ったところでどうにもなるない。君達のことは君達が決める。当然の如く、願いのため戦い、勝ち取ろうとするだろう。彼女のうちで完結できる話ではない」
「何がいいたい?」
「僕が君達をどうこうすることはできないのさ。ただ、選択肢を増やせるよう手をあてる」
ドラードはイデを立ち上がらせるために、手を差し出した。
恐る恐る、その手をとる。
「ネヴちゃんのところへ案内しよう。……でもまあ……その前に、休息と食事にしようか……まだ落ち着いて診療もしてないんだから」