第十七話「疑似サーマス」
シグマの腕はぱっくりと綺麗な面を見せている。
断面は念入りに研がれた肉切り包丁を振り下ろされたかのようだ。
(これはネヴの魔眼と同じなのか?)
非現実の存在さえ物質であるかのように手にとる異能。
であれば、どう立ち向かえばいいのか。
頭をひねろうとするイデの袖を、シグマが引っ張る。
シグマは膝をつき、荒い息を吐く。
切り傷からドクドクと血を流しているのを、なんとか布でおさえていた。
顔色はいつにもまして悪い。目はとろんとしてしまっている。
完全に後方待機しかできないアンヘル姉弟は既にどこかへ身を隠していた。
動けるうちに距離をとって逃げるべきだ。
それをおしてでも伝えたいことがあるらしい。
青い唇を震わせ、ぼそ、と呟く。
「表面張力、」
「表面張力……?」
イデは眉根を寄せる。
言葉の意味はわかる。
表面張力。
どんなものにもそれが物質である限り【表面】がある。
表面張力は、【表面】を最小にしようとする性質のことだ。
これは界面張力の一種でもある。界面。ある液体・固体の相が別の相と接している境界をさす。
「……あいつの、能力……わかったわけじゃ、ないけど、勘で……」
「いや、いい。喋るな」
ぜいぜいとあえぐなか、シグマのセリフはたどたどしい。
危険だ。
わかったわけではないといった時点で、イデは流血を控えることを優先させた。
トレモンティの攻撃をその身に受けて、何か閃くものがあったのだろう。
「アルフ!」
ひとまずシグマはアルフに託す。
「すぐ戻ってくるからね」
アルフはシグマの肩をかつぎ、攻撃から身を隠せる岩陰へ運んでいく。
イデはトレモンティに向かって声をはりあげた。
「こっちだ! 怪我人に追い打ちかけるような真似はしねえよな!」
これは半分当てずっぽうだった。
トレモンティの目的は、ネヴを止めさせないこと。
そのためにはイデ達が邪魔だ。相手の戦力を削るには、とどめをさせる相手から刺して減らしていく方がよいのだろう。
しかしトレモンティはイデに応えた。
放置してもシグマが死ぬと考えたか。
奇妙な正義感が強いのか。
イデは海岸を走りだす。
砂浜ではなく岩の上であるのはよかった。砂浜であれば足をとられていた。
先ほどのシグマへの一撃を観るとおり、攻撃は侮れない。
真っ直ぐに進まず、蛇行し、大きな岩があれば障害物にするために間に挟んだ。
それをトレモンティは一閃して切り捨てていく。
断面はツルリとして鏡のようだ。
(やっぱあいつとおんなじ能力なんじゃ――)
不法投棄された冷蔵庫を横なぎに転がす。
喧嘩じたいは慣れていないらしく、おっかなびっくりしつつ、トレモンティは黄色い冷蔵庫も両断した。
シグマはまだ運がよかった。あれにかかれば、人間の胴などひとたまりもあるまい。
(表面張力、表面張力ってなんだ? あれを喰らって、どうして直感的にその単語が浮かんだ?)
イデはまたゴミの衣装棚を転がして、岩を背に挟む。
トレモンティは衣装棚を斬ってから、岩も斬る。曲がって進むイデと違って、トレモンティは直進だ。斬るという手間があっても、距離は縮まっていく。
それがひっかかった。
(こいつ。なんでわざわざ別々に斬った?)
棚と岩は直線上にあった。そう離れていたわけではない。
猪突猛進するようであれば、まとめて斬ってしまえばよかったのに。
視界に赤い髪がチラリと映った。
銃声が響く。
朝の静けさを破壊するような衝撃的な音だったが、芳しい効果は得られなかった。
トレモンティがギリギリで気づいてしまったらしい。
肩をかすめただけだ。
発砲のせいで、アルフの位置もバレてしまった。
アルフは装填した弾が切れるまで撃ち続ける。
腕、腹、ふくらはぎを、命中までいわずとも、肉を削る。
威嚇射撃で距離を保たせて、アルフはイデに合流した。
アルフにイデは真っ先に呼びかける。
「界面活性剤だ!」
「え、なに!?」
「あいつのやってるのはネヴの下位互換に過ぎない」
界面活性剤といえば洗剤だ。それを性質として説明すると、界面の物性――熱であるとか電気であるとか機械であるとかいう、物質としての性質――に大きな変化をもたらす薬品である。
界面活性剤は相反する性質の両者に親和性をもち、接した二種の面を活性化する。
【相反する二種】の代表格こそ、水と油だ。
発揮される活性の種類は主に、熔解、吸着――そして乖離。
「海際をはしって逃げろ!」
「どっちへ?」
「とにかく中心だ!」
まだわけがわかっていないが、アルフはイデに従った。
「あいつは一度に一つの対象しか狙えない」
「わかった!」
二人は並走しだした。
もろとも切り捨てられかねない危険な賭け。だがトレモンティは一度に狙うのでなく、あくまでひとりずつ狙おうとした。
それを片割れが襲われれば、もうひとりが妨害する形で、間一髪で刃を反らしていく。
表面張力。
表面張力が表面を小さく使用とするのは理屈がある。
異なる相であっても、存在する限り、【分子】でできている。分子同士のあいだには、分子間力という引力が作用する。
分子は、液体のなかにあるほうが四方八方からほかの分子からの引力を受けるため、自由エネルギーが低い。一方、表面に近い分子は自由エネルギーが高くなる。
このため、表面上の分子は内部と比べて不安定な状態になる。このため、できるだけ表面を小さくしようという動きが発生するのだ。
表面張力は界面が不安定であるほど大きい。
トレモンティが使っているのは異能だ。
表面張力の理がそっくりあてはまるわけではあるまい。
ネヴを経由して出来上がった存在だが、人格が異なる以上、彼女の魔眼に倣うでもない。
しかし、法則とは似通う。
多くの求道者は、似通ったものから類似点と相違点を探し、真理をつかみ取っていく。
(あいつは、別に[モノの概念]を観ているわけじゃない。触れるだけだ)
トレモンティの異能は、異なる面を乖離させるチカラ。
張り合う面同士を溶かし、切断のごとく切り離す異能。
異なる部位を切り離すだけだから、一度に一つの対象にしか働きかけられない。
「君の異能ってさ――」
アルフがトレモンティを挑発する。
対象は性質・概念それ自体。
ならばそれが、不変のものであればどうだろう。
あるいは、反しあうという性質を持ち合わせぬものであれば。
「――果たして不変者にも効くのかな?」
迷いなく放たれていた斬撃が鈍っていく。
剣術に欠けるとはいえ、武器は武器。包丁を振り回すだけでも脅威なのだから、長物となれば一層だ。
しかし、トレモンティの刃の先が触れても、アルフの肌の上を薄く破るのみ。
彼に[離れる]という変化が起きるべき部位は存在しない。
そうこうするうちに、三人はどんどん島の奥へ近づいていく。
もともとトレモンティがいた始末派が住まう陸側から、愛護派達の潜む地区まで。
「ごめんねー」
場にそぐわぬ穏やかな声が加わった。
唐突な第三者。それに、トレモンティがハッとした。
そこは愛護派の人も少ない場所だ。ほんの数時間前まで、怪物が徘徊していた土地にほど近い場所にある住宅地。
そこから駆けつけてきた、甘やかな金髪を持つ青年が微笑む。
「少しの間、ぼくと死んでもらうよ」
ダヴィデはあくまで優美に笑いかけた。
作り物らしい笑顔で、トレモンティが自分を見ているのを受け止めて。
彼は、己の首をかききった。