第十六話「嘘と言葉」
トレモンティは刀を抜いた。
ネヴの所有していたそれとは違う。
バラール国では希少な得物だ。
どこから持ってきたかは問題ではない。トレモンティ自体、なかば非実在と実在のあいまにいるような存在なのだから。
問題は、彼がネヴに生み出されたものであるということだ。
ヒューという空気が裂かれる音がした。
聞き慣れた音に、イデ達は身についた動作として飛びのく。
流体のなかを重い長物が横切り、空気が振動する音。刃鳴りだ。
音が高い。刃鳴りは速度が速いほど高い音が出る。
刹那の剣技。
青さを多分に残した青年の顔からは想像もつかなかった殺意の一撃である。
放たれた剣戟に追いついたのは、ひとりだけだった。
肉眼では追いつけなくても、他の五感、たとえば耳ならば察することができる。
シグマがかろうじて攻撃の向きをとらえた。
そして体が五感に追いつくかは話が別だ。
人並みの肉体に鞭打つ。シグマは腕を前に出した。
突き飛ばそうとしたのはイデだった。
シグマではイデを押し出すのは難しい。ほんのわずか、前に出させる。
イデのはらわたでも傷つけようとしたのか。その位置を譲らせるように、腕とイデがスライドした。
半端にあげられた腕が、ちゅうを舞う。
二の腕のなかばから先の白い腕が、ぼとりと地面を転がっていく。
シグマは真っ赤な断面をおさえ、その場にくずおれる。
聞いたこともない絶叫と鮮血が地を染めた。
またたくまに顔色が悪くなり、苦痛に怜悧な眉が歪む。
どうして自分がこんなことを、とでもいいたげに、シグマが短く舌打ちをした。
◇◆ ◇
死ぬ前、シグマの姉、ビィは告白した。
「アタシ、ああすればお父さんが自殺するって知ってたんだ」
船は揺り籠のように揺れ、双子をあやしているかのようだ。
ビィは体が動かなくなってきているのか、ソファに横になっている。
シグマは姉に膝枕をして、彼女を見下ろしていた。
シグマは最期の時を努めて穏やかに過ごそうとした。
だから姉の告白も、なるたけ穏やかに、こくりと頷いて、一言で済ませる。
「そうなんだ」
「あの人寂しがってたからさ。よその家のひとにそんな弱さ見せられないから、アタシたちを痛めつけて、強さにひたって、構われて、ほっとしてた。だからアタシたちがいるのにいなくなれば、そのうちまいるだろうなって。弱い人だもん」
「そっか」
短い返事に、ビィが寝返りを打とうとした。
うまく動けず、みじろぎするだけになる。
「……それだけ? 真剣に言ってるのよ」
「うん」
「アタシ、あなたに家族を殺させたんだよ。なんにも知らせないまま、利用したの」
「ああ……」
シグマはゆったり間延びした声で、納得の声をもらした。
成程。以前から姉はシグマに対し、妙な距離というか、身内らしからぬ遠慮を見せることがあった。
ドラード博士の開発に、勝手に協力した時もそうだ。
シグマは何故、ビィが双子の妹である自分になにも相談してくれなかったのかが気がかりだった。
シグマと違って、ビィはシグマを信頼していなかったのだろうか。嫌っていたのだろうか。
心にささくれが出来たようにいつも気になっていた。傷ついていた。
「そういうことだったのね」
「クリスティナ? 怒ってないの?」
「どうしてわたしがお姉ちゃんに怒るの」
ビィは落ち着いているシグマにうろたえた。
「だって、双子の姉に裏切られたのよ? しかも、人殺しに協力までさせられて……落胆したでしょう。失望して、アタシを嫌ったって、仕方ない。本当はずっと前に受け入れなきゃいけないことだった」
ビィの瞳には涙が表面張力ぎりぎりまで張っている。いまにも大粒の涙がこぼれそうだ。
シグマはそれこそ否定した。
「お父さんがいる限り、わたし達は夜、安らかに眠ることもできなかった。次の朝に、また冷たい水と苦しい仕打ちが待ってるって知ってたから」
「クリスティナ……」
「数日後、数年後がどんなに悪くなってるか、想像もつかなかった。いい方向に変わるって思うには、失ったものが大きすぎたよ」
姉の足。多くの人があたりまえの能力として、二本の足でたち、自由に動くことができる。
ビィは、バリアフリーでなければ、ひとりで階段を登ることすら困難だ。
隣の町どころか、家の外の数十メートル先もいけなかった。
あのまま父が生きていてら、姉の世界はずっと狭く閉じ込められたままだった。
「父さんが死ぬべきだとかいうわけじゃない。でもそれはわたしたちの未来を握りつぶす手を離してくれたらの話。わたし達が腐って壊れないためには、その前に、あの人がいなくなってくれるしかなかった」
「…………」
「あれしかなかったよ。なかった」
シグマはポツポツと口を動かす。
親に支配される年齢であるシグマ達に出来ることは少なくて、周囲の家は口先だけで手は出してくれなかった。見て見ぬふり。
双子がこの程度の傷で済んだのは、あそこで双子達を傷つける怪物が、その先の未来から消えてくれたおかげだ。
残酷なことを言っている自覚はあった。
だが、世間はその残酷をどうにかしてはくれなかった。自力救済にも限界がある。
いちじしのぎで生き延びたところで、あそこにいる限り、双子は身も心も削れ続けていたのだから。
きっともっと先になっていれば、今頃この程度の悪性でとどまっていなかったはずだ。
姉の手を握りしめて、力強く言い聞かせる。
ビィの眼から涙が伝う。それが悲しみだったのか、安堵だったのか。シグマには判別がつかなかった。
「……お父さんに、アタシ達の言葉は、絶対届かなかったのかな」
「そうだよ」
「ねえ。母さんの言葉なら届いたかな」
シグマはそれには口を噤んだ。
ありえなかったものを仮定しても、どうしようもない。
もしかしたら確かに、言葉には届く人と届かない人というものがいるのかもしれないけれど。
シグマには常に、我が身をわけた片割れがいた。
父の孤独はわからない。
父の孤独が双子に届かなかったように、双子の言葉も父には届かなかった。
これはそれだけの話だった。
これだけは。
◇◆ ◇
ならば、ネヴには誰の言葉なら届くのだろう。
◇◆ ◇
「こいつッ」
イデはシグマの前に立とうとしたが、当のシグマが首をふった。
(こいつをどうにかしろ)
言外に訴えてくる。
武器を手に、トレモンティに立ち向かう。