第八話「彷徨うスペランツァ」
チェレステがイデ達に頼んできたのは、ちからしごとだった。
彼女の説得で一晩休んでから、早朝。イデ達は、島の裏側に面する土地に連れられてきていた。
かつては人が住んでいたようだ。人が数人横切れるか否かという狭い通路の両脇に、大量の家がひしめきあうように詰まっていた。
しかし、ひとけは皆無だ。朝だというのに、鳥のはばたきがやけに大きい。
「レトリ島が竜灰石が山ほど採れる土地だっていうのはご存じね?」
よく知られる事実を前置きに、彼女は話し始めた。
肩には猟銃を下げ、しっかりとした姿勢で歩く。早朝から足取りが機敏だ。
「個々は今、誰も立ち入らないの。ここを一体の怪物がねぐらにしているわ。そいつをなんとかしてしとめたいの」
「あんたたちが自分達でやるのはダメなのか? 思想も違うヨソモノのちからを借りなきゃならねえことか? さっきも言ったが、俺達は知り合い探さなきゃいけねえんだ」
イデが疑り深く接しても、チェレステは温厚さを崩さない。
荒れた道のうえで、一度足を止めた。芯の強そうなつり目がちな瞳を閉じ、目の裏に、倒したいという怪物の姿を浮かべる。
「そいつが相当な暴れん坊でね。どうにも元人間らしいのだけれど、会話もできない。本当なら元人間の怪物は、護る対象であるべきよね。少なくともアタシ達は。でも手を差し伸べようとしても、近づいたはしから食べようとしてしまう。アタシ達だって全てを救えるなんて、そこまで傲慢にはなれないわ」
あくまで愛護派達も、殺さざるべきは殺していない怪物に限る、ということだ。
警官とて、説得に応じずに命を狙ってくる犯罪者がいれば発砲する。それと同じか?
「怪物は気まぐれにあれこれ喰って回っているわ。これがマズくて。アタシと同じ陣営の人達でも、一緒にいってくれないの」
チェレステのいう怪物は、目の前にあるものがが食べ物かどうかは問わずに食い荒らすほどの悪食ぶりだという。
彼女も目当ては、その胃袋にあった。
レトリ島は竜灰石の豊かな島だ。船を出して少し遠出をし、海のなかに網を投げれば、先端の尖った琥珀色の石が小魚の群れのように採れる。
膨大なエネルギー源となる竜灰石。食料という重大な問題は無視できないが、文化的な生活の維持という観点では、この島は安泰だ。
島の各地には、石を貯蔵する場所もある。
この貯蔵場所のひとつを、悪食の怪物が襲撃したらしい。
「アタシ達は、この怪物が飲んだ石が欲しい」
「竜灰石が?」
「そう。貯蔵所は陸派・海派共有だから持ち出せない。始末派のを強奪すれば戦争ものだわ、今以上になる。一応定期的に朝に海に出て、石の漁には出てる。でもそっちは始末派と愛護派が最低限に決めたルールのひとつで、絶対不干渉なの。過剰分は採れない。理由は強奪ができない理由と同じ」
生活基盤が安定していることは、異常な状況における最大の精神安定剤だ。
互いの派閥で暮らす住民のなかには、自分自身では選択肢がなかった子どもをはじめとした弱者もいる。
竜灰石の確保は、絶対に必要だ。
それを脅かせば、テロとその報復に収まらない。敵にする理由が増えるほど、人は正義の名目で歯止めを失う。
例え利があろうとも、相手を生存の敵と見なした血で血を洗う戦争が始まれば、破滅まで転がり落ちていく。
「でも、怪物の食べた分は、もう貯蔵庫にあったとはいえないわ。もうみんななくなったものだと思うことにしてる。周りが動く前に奪取したい」
「貯蔵庫にあったもん丸々喰ったのか。だとしたらうんざりするような量の石だろうな。それこそ大型機関でも動かせるような……どうしてそんなに必要なんだ」
「それが海の怪物の注文だから」
チェレステは簡潔に答えた。
「理由はわからない。でも、彼らは自分達で竜灰石を採れないのですって。大量の竜灰石と引き換えに、アタシ達の家族を海の国に連れて行き、面倒を見てくれると約束してくれた」
他の怪物と明確に区別されるほど知られた一つの個体。
チェレステと目的をおなじくする愛護派さえ、さじを投げた。始末派と衝突せずに目的を達成できるのに。
「ここにそいつは住んでいる。みんなはあいつを殺すのを諦めて、別の方法を探している。でも、目の前に一番都合のいい手段があるのに諦めるのは、それはそれでナンセンスじゃあないかしら」
話すうちに、イデ達はその地域の中心までやってきた。
もうそろそろ人が起きてくる時間帯だ。かどのすみまで照らし出しそうな清浄な朝日が、海のはしから頭を起き上がらせてきている。
昔ながらの古びた家屋が並ぶなか、本当に誰も住んでいない。
体が乾かないよう、日陰を選んでついてきていたエルコレが言葉を発した。
「チカイヨ」
不鮮明な泡だった忠告をすると、建物の影に寄りそう。暑いのだ。
魚人と化した彼の、人外の感覚器官は鋭い。
数秒後、静まりかえっていた一帯が「どしん」と揺れた。余震を感じ取る魚のようだ。
どす、どす、どす。
小ぶりな山に足が生えて歩いているかのように、鈍重な足音が近づいてくる。
「朝ご飯に気がついたわね。調理されて食卓にのるのは、どっちになるかしら」
チェレステは腕まくりをして、右手を腰うえまであげる。
腕は細すぎずも、太すぎもしない。生活感のある「ふつう」の腕だ。その腕が、赤く染まる。
白い布を色水に浸したかのようにみるみる変わる色に、イデたちはチェレステの正体を察した。
どうして、イデ達を襲った住民達は、猟銃ひとつのみを備えたうら若き女性に、文句一つ言わずに従ったのか。
彼女は、獣憑きだ。
やがて怪物が威容をあらわす。
人が連なって住んでいたであろうアパートメントから、ひょっこり顔を出した。
隠れん坊をしていた子どもじみた動作だ。無邪気さすら感じる挙動に反し、その顔の位置はアパートメントの屋上より高いところにある。
八つの緑の目がぎょろぎょろと街を睥睨し、はるか下方で集まっている蟻のような一団をとらえた。
ヘドロめいた紫色の粘液で構成された体が、びしゃりと目の前に落ちてきた。
頭痛のする悪臭は放置された生ゴミのそれだ。大量の水分が一気にたたきつけられ、路地の石がいくらかはじけ飛ぶ。
成程、この異形の怪物ならば、いくらでも喰えよう。
見上げる巨体はスライムじみた不定形だ。それがひとつの臓器のように脈動していた。体全体が胃袋なのだ。
濁った半透明の紫のなかで、濃密な琥珀色がきらきらと泳いでいた。