第二話「トルコ石の海」
男は息をきらしてイデ達の前にやってきた。
彼は船着き場につどった面々を見て目を白黒させる。
いるのは、目つきの悪い大男に瀟洒な伊達男。神経質そうに唇を引き締めた女に薄笑いのはりついた育ちの良さそうな青年。おまけに子ども二人。気を失っているメイド服の少女。
奇異な面々だ。
一瞬めんくらった男であったが、すぐに温厚そうなアルフの腕をひっぱった。
「あんたたち、外の人か? 事情はあとで話す。ここは危ないんだ。こっちへ来てくれ」
ぜいぜいと荒い呼吸を整える間も惜しむ。
男の顔は浅黒く日焼けしていた。農民でもなければ滅多にない肌色だ。
「いきなり言われても」
アルフは愛想笑いをしてやんわりと手を外そうとした。
アルフ達からすれば彼こそ危険を疑う相手だ。
表情は必死に見える。だがこのまま連れて行かれた先が、真実親切ゆえのものかはわからない。
男はとんでもないと悲鳴をあげた。
「知らないからだ。いいから来てくれ!」
アルフが軽くシグマに、次にベルナデッタに視線をやった。
シグマはそっと、ベルは気もそぞろに頷く。
体から発せられる音とテレパシーで真偽をはかったのだ。ベルには人のいうことをきくのが面白くなさそうだ。
それ以上に、弟の車椅子の把手を握って、しきりに海を気にしている。
「お兄さんについて行こう。ね、お願い」
殊勝に可愛らしくおねだりまでしてきた。
嫌な予感がますます高まる。
「わかりました。後ろをついていきますよ。どこへ行けば?」
空気の暑さに頬を伝う汗を拭いつつ、アルフは頷く。
危険があっても背後をとれればまだマシという判断だ。
早くも肌がジリジリと痛くなってきた。急速に日焼けしている。この男性は晴れ渡った空の島でそれなりに過ごしているらしい。
まず彼から話をきくべきだろう。
「よかった! こっちへ。それと、なるべく静かに来てくれ」
「静かに?」
「一歩遅かった。もう見られている」
日焼けした男が指をあげる。
その先を追う。海だ。
ここまで来る間はよく知る不透明な汚れた海が、今はトルコ石のような神秘的な青をたたえている。
あきらかに知るものより水が明るい。とろりとした色合いという意味でしか共通項が見当たらない。
淡い白の模様を浮かべるみなもに、ひとつ頭が浮かんでいた。
頬骨の張った顔の上半分が、ぷかりと水上でとどまってっている。
傷んだブルネットの髪をべったりと貼り付けた、痩せぎすの中年女性だ。
異様さはひとめでわかった。まばたきをしない。感情の類いがまるで伝わってこなかった。瞳はまだ輝いている。
濁りのない目で爛々と見つめてくるさまは、魚類を想起する。
「人魚だ」
一般人のように見える男は、迷わず断言した。
「貴方達は運がいい。魚人やヘドロだったら仲間を呼ばれて襲われているところだった」
「待ってくれ。知っているのか? 君達にとって、あれが日常だと?」
「今はそう」
男はゆっくり、住宅街のほうへ向かって歩き出す。
「走ったり、大きな音をたてなければ大丈夫。昼食後の散歩のように、のんびり歩いて」
指示も簡潔だった。
彼が人魚と評した存在はあらかさまに怪異である。彼はそれらの性質と対応を完全に心得ているのだ。確立されたパターン、生活のなかで何度も繰り返された事実の結果として。
イデ達は無言で彼についていく。
町の入口にはあちこちにバリケードが設置されていた。破壊されたらしき木片もまばらに散らばっている。引きずられた血痕のあとがまだ生々しい。
騒ぎの痕跡のみがあり、人っ子ひとりの気配もない。さながらゴーストタウンだ。
「つい数時間前、愛護団体との抗争があってね。ああ、いや、来たばかりだからわからないか……それにもう少し丁寧な話し方をするべきだった。すみません。なんにせよ、集会所に着いたらお話します。あそこは安全ですから」
舗装された通路を抜けていくと、ようやく話し声が聞こえてきた。
先ほど通った場所のぶんまで詰め込んだような活気だ。人口密度が高い。
人混みには包帯を巻いた怪我人もいる。
老若男女ごったがえした通りでは、所狭しと商売や酒盛りが行われていた。
「ここまで来ればもう大丈夫です」
「抗争だのなんだの。さっぱりだ。何が起きてる?」
アルフを遮ってイデが単刀直入に問う。
人混みは中心に向かって更に増していく。特に大きな広場に辿り着けば、棒と布で建てられたキャンプがドーナツ状にぎっしり並ぶ。
ドーナツの中心には公共施設を思わしき建造物があった。公民館か何かだろう。
その前では炊き出しが行われ、道にいたより酷い損傷を負った人間や老人が施しを受け取っていた。
「もう一ヶ月になりますか。色々ありましたが、ずっとこんな感じです」
「一ヶ月!?」
アルフが素っ頓狂に声を裏返した。
ネヴの失踪からはまだ一週間と少し。第一、あんなおおっぴらに怪異が現れる状況なら、とっくに大騒ぎになるか、ANFAが出動しているはずだ。
「ええ。人が突然ばけるんです。なにを言っているのかと思うかも知れませんが、本当ですよ。集会所にきちんと資料も残しています。最も、見せるのは貴方達が初めてですが。こんなことになってから、貴方達がはじめてくる『外の人間』です」
彼のいう集会所とは、公民館だった。
扉は分厚かった。なかにはいると、一気に外の喧噪が遠のき、いたましい静寂があたりをうつ。
なかにいるのはごく少数だ。
戦闘の心得があると思わしき険しい表情の男。机にかじりついている女性は情報をまとめているのか、何度も紙を手に取り直している。そのクマは濃く、疲弊していた。
奥からは消毒のプンと鼻につく匂いが漂ってくる。
カウンターで受付と話している島民は、みな切羽詰まった表情だ。
現在の島における重役と重傷者、緊急性の高い住民が優先して使っている。
血傷を負って生活するさまは、小規模な戦争のようだ。
大地震後のバラール国孤立直後は、己の土地を守りたい地国民と、住処を得たい異邦人の間で小競り合いが多発したとはきく。
政府や自治組織によって『とりあい』がなされ、慣習化してからは滅多になくなった光景だ。
イデにとっては父伝いにきく祖父の話、教科書で習う過去である。
ヴェルデラッテともまた違う。
島全体を包む闘争の気配と野生的な環境は、まるで異世界だ。
「しかし、よかった。随分と落ち着いていらっしゃる。動転して海に留まってパニックを起こしなんかしたらどうしようかと思いましたよ」
警戒に身をよせあって、周囲を観察するイデ達に男は苦笑した。
そして、最も代表者らしいアルフに向かって手を差し出す。
「僕の名前はエラズモ・トレモンティです。この集会所を拠点にパトロールをしています。知っている限りはお教えしましょう。よろしく」