第一話「ユリゼン、本日は快晴なり」
小舟に乗った際、イデの憂慮は船酔いにあった。
自分になんの落ち度もないのに襲い来る吐き気は、大自然の拷問だ。
しかしそこは現代文明さまさまである。
数回目の船旅にしてようやくイデの三半規管は強化された。くわえて、アルフがこの騒動にも関わらず、きっちり酔い止めの薬を用意してくれたのである。
「イデくん。レトリ島に着くよ」
「あー……うん」
数時間の船旅のすえ、気のない返事をするイデにアルフは苦笑する。しかしアルフも人のことを言えないぐらいに顔色が悪い。
「おっさんこそやけに顔赤いけど、大丈夫か」
「ああ。それに関しては外で話すよ。君こそ熱くない? 大丈夫か?」
「あつい?」
いわれてみれば酷く汗ばむ。てっきり吐き気のせいだと気にしていなかったが、気づけば肌着がぐっしょり濡れていた。
「うわ、なんだこれ」
「外にでてごらん。すさまじいものがみれるよ」
一歩船から出たとたん、むわりとした熱気がイデを襲った。
次いで、大量の街灯に囲まれたような、たえがたい閃光が降り注ぐ。
肌が焼かれる不快な感覚。網膜も機能を失ったようにしらばむ。
猛烈な光に慣れ、ようやく目を見開く。イデは己の正気を疑った。
「……あり得ない」
見上げた空には、雲ひとつなかった。
あたり一面を、騒々しいほど鮮やかな薄青が支配していた。奥では煌々と燃える火の玉が世界中を染め上げんばかりに光り輝いている。
「あれ……太陽と青空、か? 教科書の写真でしか見たことねえ」
「流石のオレもはじめてみるな。せいぜい親父の、いや爺さんの時代に失われて二度とないものかと」
イデとアルフは揃って呆然と青い空を見つめる。
絢爛なりし蒸気文明の発展にともない、人々から失われた清浄なる陽と青。
蒸気の煙によって空は永遠の曇天に覆われ、太陽の微笑みは灰色の帳に消えた。
それがどうだ。排煙のない透けた空は、二人の魂までもはるか果てに抜き取って連れて行ってしまいそうだ。
「これもネヴが原因なのか」
「わからん」
アルフの短い返事は素っ気ない。彼は嘘をついた。
いまイデたちがやってきた目的を思えば、原因が他にあろうはずもない。
親しみのない太陽によって空気は暖まり、慢性的に満ちた低気圧は吹き飛ばされていた。
曇天の世界で生きてきた二人には光が多すぎる。
たまらず上着を脱いで腕にかけ、ダヴィデたちとの待ち合わせ場所に向けて歩き出した。
ダヴィデ達は約束通り、待ち合わせ場所であるレトリ島の一番大きな船着き場で待っていた。
人ならざるもの達もまた、塗り替えられた世界に戸惑い、棒立ちで空を見上げている。
真っ先にイデ達を認めたのはダヴィデだった。
周りの意識を反射するだけの屍人形である彼にとって、感動や恐怖といった感情は無縁のものだ。
彼はイデを一目見るなり、口元を覆った。
「うわ、イデくん頭だいじょうぶ?」
「は?」
開口一番の失礼な一言に、イデはガンを飛ばす。
それをなだめたのは、悪童姉弟のベルだった。
太陽を完全なおとぎ話の存在として生きてきた世代である彼女は、膝を抱えて日陰にこもっていた。
今はイデの大きな影で涼んでいる。
「カミッロが言ってる。平気だよ。悪いものじゃない。ちょっとした暗示程度のもの。だってさ」
「暗示?」
「あたしとカミッロだからわかるけど、この島、あたしたちの村に近い状態になってる。なにがしたいのか、あたしたちにはわかんないけれど。心にぴんときやすいっていうのかな」
「それを避けるってことか?」
「そんな感じ。でもあたしたちから離れすぎないでね。なんか、おっかない感じがする」
トリスの予想通り、カミッロの異能である程度、この異常に抗じるすべになるようだ。
そういえばここに来る前にトリスがイデの頭部に触れた。あれだろうか。
だが、あれだけ自己中心的な性格をした姉弟がこうまで素直であるのは、かえって不気味でもある。
急激に変化した環境に体調を崩しかけているイデ達のもとに、今度はシグマが現れた。
若干めもとは腫れている。顔はいつもの仏頂面に戻っていたが、眉に皺がない。憑きものの落ちたすっきりした顔だった。
「姉貴はどうした」
「見送った」
「そうか」
「私はこれに集中する。姉さんの最後の仕事だから。綺麗に完遂する」
ほぼ全員が暑さに参っているなか、シグマだけが元気だった。
晴天も全く気にかけていない。いつもなら面倒な極端さも、今は頼もしく見える。
「元気だな、あんた。とにかくイカれてるのはわかるんだが、シグマ、あんたは何か聞こえるか?」
イデは腕で汗をぬぐう。冬だというのに汗はあとからあとから吹き出してくる。
シグマの耳がぴくりと動く。
「そうね。おかしいわね、実際」
「具体的には」
「変なこといってるって思わないでね。ここ、うえ見りゃわかるけどあたまっからおかしいんだから。こう……活気づいてる」
「活気づいてる? 異常にさらされているのに?」
「疑わないでよ。混乱を聞き間違えてるわけじゃない。混乱って、あれでしょ。それこそヴェルデラッテ村の。誰もが馬鹿みたいに考えなく動き回って自滅してるのとは全然違う」
シグマが鬱陶しそうに、はりつく金髪を手ではらう。
そのとき、いちじんの風が吹き抜けた。湿った肌が冷やされ、快感をともなう清涼感に胸がすく。短的な開放感に、ほう、と感嘆がもれる。
その風にのって、島の方から声がきこえてきた。若い男の声だ。
「おーい! そこの人!」
彼は怒鳴るようにして、大きく腕を振っている。顔は見えない。しかしすぐにイデ達にむかって話しかけているのだとわかった。
こんなに晴れた日中だというのに、島の海岸部には他に誰もいなかった。
男はしきりによそ者に警告を飛ばす。
「海は危ないぞ! こっちへ来い!」
イデ達の頭上に疑問符が浮かぶ。
男はせっかちに船着き場で動かないイデ達にしびれを切らした。綺麗なフォームで走ってくる。そのあいだ、何度も左右を見渡した。
横断歩道を渡す子どものように。
何かを恐れ、様子をうかがうかのように。
「どうなってるんだ、いったい」