第十二話「多分、俺は友達になりたかったんだ」
(あたまがなくなった)
黒髪の少女の刃が狼の頸をとらえ、確実な死をもたらした時。
巨狼の感想といえば、それだけだった。
首とともに、感慨めいた感情が道をごろごろ転がっていく気がする。
怖いくらいすっきりとした気持ちだった。
実のところ、この感想は彼が狼に変じて以来、初めて考えることができた一言であった。
最早どんな時だったかすら思い出せないが、決定的な体験として、いきなり後ろから羽交い絞めにされたのを覚えている。
注射か何かを首筋にうたれた。次に襲ってきたのは焼けるような痒み。心臓の真ん中で石が跳ねまわっているように激しい動悸がして、血管から全身に毒がまわっていく妄想をした。それが体の反応だった。
まるで名状しがたい感覚を、あえて形容するならば。
感情のスープがめいっぱいに入った心の器に、いきなり隕石を投げ込まれた気分だった。それが心の反応だ。
ずっと、ずっと。「彼」の心は暴走した蒸気機関のそれだった。
歯車が火花をあげ、今にも四散しそうになっていても、止まり方が分からずひたすら駆動し続ける。
黒髪の少女は、その壊れた部品を丸ごととった。
がんじららめにからまった感情の糸を残らず切って、燃えるだけだった想いを見事に分解してしまったのだ。
(これで終われる。俺に戻れる)
走っている間は、ただ反応し、ただ行動するだけだった。
恐れはない。それに高揚したのもつかの間で、あとは心が薪にくべられて、時が経てば経つほどあらゆるものがすり減っていった。
(俺? 俺って、誰だったっけ。くそ、全身が重い。ずっと頭が熱かったせいで、記憶まで焼けちまったのか?)
ネヴのおかげで熱した頭は冷えていく。それは命をくべたたき火が冷えた炭に変わっていく過程でもある。
睡魔が永遠の安らぎに誘ってくる。瞼が降りてきた。
意識がこれからやってくる無音の夜に染まっていくなかで、「彼」は散らばった己の欠片を拾う。
彼の名前。
彼を成り立たせたもの。
全てが弾けるなかで最後まで残った、「彼」が最も強く抱いていた想い。
(ルーカス)
ルーカス・グルレ。
そんな名前だったはずだ。
下層区出身だが、片親がバラール国民。趣味は知恵の輪。やりたかったことは――
(そうだ。俺にはその名前で、したいことがあったのに)
目が完全に閉じる。そのなかに浮かんだのはシルバーブロンドの大男の背中だった。
* * *
忘れもしない。三年前の今頃だ。
昨晩降った雪が中途半端に溶けて、子どもが落っことしたアイスクリームのように道を濡らしていた。
家出をしてから数日も経たないうちのことだ。
汚らしい道路に直接頬を押し付けられて、ルーカスはリンチされた。
家を飛び出した決定打は覚えていない。しかし理由は今も濃く心に刻みついている。
ルーカスの両親は労働貴族だった。下層民であっても、比較的豊かなたぐいである。
食べるものにも着るものにも困らない。
上層民からは見下され、下層民には疎まれる。
ルーカス自身は何もしていないのに、はりのむしろだった。
親切にされる時があっても両親に金があるからに思えて、だんだん疑心暗鬼になっていくのをおさえきれなかった。
だったらいっそ、生まれたままの小汚い下層民ルーカスになってしまいたかったのだ。
本当に必要な物だけ持って家を出た。
出かけるふりをした家出だ。親はルーカスの隠れた計画なんて夢にも思わなかったに違いない。
腹が減ったから、悪い仲間に教わったスリを試してみた。
初めてにしてはうまくできて、我ながら才能があるのではと自画自賛したのもつかの間。
あっという間にばれて、財布の持ち主に襲われた。
「ぐえっ」
つまらなすぎる悲鳴しかでない。
擦り減った靴が腹にめりこむ。
その度胃液がせりあがる。エグエグえづいて生理的な涙が出てきた。鼻水もだ。
怒りに任せるままルーカスは痛めつけられた。嫉妬はかけらもない。
妙な解放感に歪な笑みが浮かぶ。
かといって苦しいものは苦しい。
(誰か助けてくれないかなあ)
軽く頭をあげるだけでも一苦労だ。ちょっと起きようとするだけで踏みつけられてしまう。頭部を踏まれてブレる視界のなかに、犬が映る。
野良犬だ。痩せすぎて骨格が浮き出ていた。
鼻先を下げてのろまに歩いていく。
(あんな弱り切った犬さえ、生まれたまんま生きてきたからのあの姿なんだよなあ)
病をもっているのか毛も抜け落ちてしまったみすぼらしい犬を見ても、羨ましい、と思ってしまう。
(俺なんて、ずっと親の金で服を着て、痩せることもなくて。見た目も全部もらいもの。あのけものの方が俺より上等だ)
俺より立派なんだから、犬でもいいから、俺を助けてくれないかなあ。
薄くヘラヘラ笑う。遠い目で唇を歪ませるルーカスを気持ち悪がって、暴力が酷くなる。
(誰か助けてくれないかなあ。そうしたら本当の俺で、ずっとそいつを信じられるのになあ)
都合のいい願いをどこへでもなく託す。
そして願いに応える拳があった。
角ばった大きな手がポンポンと男の肩をたたく。振り向くや否や、そのかさついた頬に一発を見舞う。
「は、え?」
「クソかよ。ダセェ奴らだな」
不機嫌にフードを目深にかぶった大男が、殴った手を痛くもなさそうにふる。
「しかもアンタら、顔が俺の嫌いな奴に似てんじゃねえか。ストレスで白髪が増えそうだ」
「だ、誰……?」
晴れ上がった顔をよろよろあげる。
更けた夜と服装のせいで、顔立ちははっきり見えない。
フードの影で、暗い瞳のエメラルドグリーンだけが鮮やかな色を際立たせていた。
白い肌と体格のよさが相まって、悪魔めいている。
つい数十秒前まで圧倒的強者の仮面を被ってルーカスをいたぶっていた男達も、自分たちより頭一つ大きいフードの男に後ずさりした。
「な、なんだテメエ! コイツの知り合いか?」
「あ? 知らねえよそんな奴」
「ふざけやがって――」
「ふざけてねえよ。真面目に八つ当たりしてんだ」
そういってフードの男はまた一人、胸倉を掴み、壁に叩きつける。
「八つ当たりィ!? ふざけてんじゃねえか!」
青筋を浮かべた男達が標的を変えた。
しかしフードの男はニヒルな笑みを浮かべるだけで、逃げようとしない。
「いいぜ、来いよ。こっちはどうなったっていいんだ」
** *
五分後、そこにはルーカスとフードの男だけがいた。
「はあ」
体格差でうまく優位をつけていた彼も、流石に多勢に無勢であった。
唇が切れて血色の悪い唇を染めている。鼻にも頭突きを喰らい、鼻血も垂れていた。
乱暴に拭ったせいで顔の下半分が赤く彩られる結果になっている。元より威圧感のある容貌がこれ以上ないほど悪化した。何でもない時に街中であったなら、瞬時に踵を返して走り出すであろう。
あちこち血が流れるままにして、フードの男は壁に背を預けて溜め息をつく。
一服しそうな気怠い雰囲気をまとう男に、ルーカスは痛む腹をおさえて呼びかける。
「な、なあ、大丈夫か?」
「人のこといってる場合か? 顔が発酵中のパンみてえになってんぞ」
「質問を質問で返さないでくれよ!」
「あーはいはい」
「あのな、俺は……」
助けて欲しい時に、助けてくれた。
だから怖くても話掛けずにいられない。だというのに、男の態度はつれないものだ。
喜びと苛立ち、未だ残る痛みがないまぜになって、頭のなかがぐるぐる回る。
自然と怒りの声も大きくなった。
思い切り腹から声をだしていたせいか。
ぎゅるるるる――
腹の虫が元気に鳴いてしまった。
「…………」
「なんだアンタ。腹ァ減ってんのか」
「別に」
「そうかよ。ならまだまだ元気ってことだな?」
「お、おう」
素っ気ない物言いに、つい反抗的に言い返してしまった。こればかりは性格だ。
男が壁から背を離す。
「じゃあ早速、助けてやった礼でも返してもらおうか」
「俺、今は金が――」
「それもいいが今日は相互補助といこうや」
「相互、……たすけあい?」
「ああ。見ての通り、俺も疲れててな。身体がだるいんだわ。ちょっくら俺の家まで肩かしてくれ」
名をきけば、男は一言「イデ」とだけ名乗った。
本名でないことはすぐにわかったが、ルーカスには彼がそう名乗るのならば、それでよかった。
言われるまま彼を支えて家に連れて行けば、
「もうひとつ礼を返せ。朝食が残っていて、洗いものが面倒臭い。片付けていけ」
と残り物を食べさせられた。
残り物――というには、与えられたのはしっかり温められたミネストローネである。
一滴一滴を大事に胃に流し、食べ終えるなりさっさと帰れと家を追い出され。
ぽかぽかする胃袋を抱えて、ルーカスは思ったのだ。
(また会いたい)
** *
次に会ったのは、ルーカスが下層区の暮らしに慣れ始めた頃だった。
労働貴族の親を見て培ったコミュニケーション能力を活かして仲間をつくり、場合に合わせて色んな人間と動いた。
適材適所があるのは、貧困の労働者もガラの悪いチルドレンも一緒だ。
ルーカスはうまいことやっていた。
(これならもうイデの足を引っ張らない)
自信を持ったルーカスは、意気揚々とイデの家を訪ねた。
しかし。
イデはルーカスを覚えていなかった。
「誰だ、アンタ」
そういった。
(彼にとっては八つ当たりの際に、たまたまいたオマケだったのかもしれない。だから忘れても仕方がない)
そう思うこともできた。
だが悔しかった。ルーカスはずっと、またイデに会いたいと思っていたのに、彼はルーカスを忘れていた。
今度は惨めな姿じゃなくて、ルーカス自身のちからを見せつけて、楽しく一緒にばかなことをしたかった。
しかしイデは一匹狼を気取って、寂しい一室でココアを飲む日々を過ごしていた。
「あの時助けてもらったルーカスです」とでもいえば、思い出してくれたかもしれない。
ここでまたルーカスの性格が邪魔をした。
嫌だったのだ。
ルーカスだけが彼に認められたがって、努力をして、忘れられて、思い出すことさえしてもらえないことが。
せめて、思い出して欲しい。
自分からは絶対に言いたくなかった。つまらないプライドなのはわかっていた。
何も関係のない他人のように接せられる度に、舌打ちが飛び出そうになるほど苛立っても、イデに自分を思い出してもらいたかった。
その先にきっと、ルーカスが心から望む未来がある気がした。
* * *
(あーあ。でも、俺の方が理由を忘れちまっちゃあ意味がないわな)
どうしてイデに執着したのかを忘れて、狼になって暴れる。
自分が情けなくって仕方がない。
消えてなくなりたいと願う。
(それも何もかも終わり)
願うまでもなく終りが来る。
もう叶わない祈りと幽かな救いを胸に抱いて、ルーカスは睡魔への抵抗を辞める。
――ああ、けどやっぱり。せめて。
――俺の代わりに、あの人の隣に立ってくれる人がいればいいなあ。