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アンダーハウル  作者: 室木 柴
第六章 獣の愛
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プロローグ


 レトリ島の名は有名だ。

 本土を除けば最も大きな島であるシキリエ島の名を冠したシキリエ州の最南端。

 シキリエ島は大地震以前は長い歴史のなかで何度も闘争と略奪の舞台になった。夏にはカラリとした猛暑が襲い、冬は穏やかに生ぬるく過ぎ去る。


 自然を残した溌剌とした和気が残る土地とされているが、レトリ島においてはその限りではなかった。

 かつてバラール国いち美しい海と賛美された透明な海は、もはや見る影もない。

 元々南端にあることから移民たちが流れ込んでいた過去もあり、大地震以来、住居を求めてくる異邦人との争いは絶えず。


 重要な資源であったサンゴは死にゆく一方。他の水産資源も衰えるばかり。

 島の土は石灰質。自然環境は厳しい。

 大地震後に新たに海から採れるようになった琥珀色の石が命綱だ。竜灰石(ドラッシュ)。石炭をはるかに上回る効率を誇る魔法の燃料。

 それを失えばレトリ島は終わる。

 オレンジの輝きに彩られ、滅びと隣り合う夢の島。


 彼はそのレトリ島のすみにある交番に勤めていた。

 名前はエラズモ・トレモンティ。彼はしがない警官だ。レトリ島の交番で、日がな暇を潰している。

 事情はどうあれ、本土とのあいだに海をはさんだ島は穏やかで、名産品のちからもあって適度に賑やかだ。

 竜灰石のおかげで稼ぎはある。透明な海は失われても、琥珀の海がある。

 輸入品で賑わう市場を巡れば、絞りたてのジュースが飲める。

 地元の自警団など、もろもろのしがらみはあるものの悪くない仕事であった――はずだ。


 彼は机の上に散らばっていた紙をまとめ、とんとんと揃えた。

 そして憂鬱に、古くさい木製の机をノックする。


 彼は同僚を飼っている。

 仕事はきちんとこなす男だった。歳は二つ下だったか。

 先輩のいくことをよくきき、よく笑う。笑うとまだえくぼができて、あどけない。なかなか憎めない奴だ。


 同僚を飼っている。

 職場だった交番の片隅で、デスクの下に隠すように。

 前は同じぐらいだった身長は、白いデスクの下にぴったり隠れられる。

 

 前は人間らしく、立派な二本の足をそなえていた彼は、いまや四足歩行の名状したがい獣の姿をもつ。こうなったのはつい最近だ。一週間ほど前だったか。

 今の同僚は、目も鼻もない、口だけがついたずんぐりむっくりの猫めいた形状の生物である。

 主食は生肉。あとは水さえやれば元気に過ごせるとわかっている。それ以外はなにも食べない。


「ブレッサ、手が空いたぞ。昼食にしよう」


 だが交番はシンとしずまったままだ。

 いぶかしんで首を傾げ、もう一回ノックをする。

 すると裏口のほうから声が聞こえた。


「トレモンティ!」


 己の名を呼ぶ明朗な声は同僚のそれだ。

 ぎょっとして駆け寄る。焦りで足が机にひっかかり、せっかくまとめた資料が床に散った。

 裏口には同僚が、人のままの口を満面の笑みにして待っていた。

 成人男性と腕と見まごう、毛まみれの尻尾が何かを捕まえて引きずっている。

 トレモンティは同僚が捕まえているものを知ると、目を裂けんばかりに見開く。


「お前……なんてことを!」

「だって忙しそうだったじゃないか。俺はもうハラが減ってしかたなくって。だから自分でとってきたんだ」


 同僚は自慢げに胸(らしき部位)をそる。

 びたん、と尻尾が床にたたきつけられ、彼のいう【食事】が「ぎゃん」と鳴く。

 それは幼い少女だった。

 まだ年齢は二桁もいっていまい。一重で涼やかな細い瞳に薄い唇は、東洋系の血を感じる。異邦人の子だろう。


「なあトレモンティ。ぺこぺこなんだ。食べてもいいだろう?」


 言葉を失って、トレモンティは硬直した。

 尻尾にくるまれた少女をみやる。艶やかだったのだろう髪は乱れ、黒い瞳に光はない。

 尻尾がしまるたび体は力なく曲がる。骨が折れている。コブラに巻き付かれた家畜のようにぐちゃぐちゃの状態なのを想像して、吐き気がこみ上げる。


「どうせ異民じゃないか。代わりなんかいくらでもいる」


 下層民のほぼ全てが下層民であるように、異国の地をひく者の地位は低い。

 同僚にも彼らに対する蔑視の目があった。

 そういうところにトレモンティ自身、目をつぶってきた。

 もう会わないかも知れない異邦人より、毎日職場をおなじくする仲間との仲に支障が出る方が恐ろしかったからだ。

 ぎすぎすと睨まれながらはたらくなんて、思うだけで胃が痛い。


 怪物になった同僚を隠し、守っているのも、余計な面倒事がイヤだったから。そして曲がりなりにも生活をともにしてきた相手への情からだ。


「こ、ころ、殺していいと。そう思ったのか?」


 だが、殺人は話が別だ。

 少女から目が離れない。虚ろな目から自動的にぼたぼたと流れる涙が、トレモンティの心臓をきつく戒める。

 同僚は、あがっていた口角を不機嫌に「へ」の字にする。


「トレモンティ。はらがへったよ」


 同僚には嘲りすらなかった。

 一方的に奪う強者であり、そこに弱者自身の尊厳など関係ない。その傲慢さを初めて直視する。

 その時、トレモンティの頭に二つの選択肢が浮かぶ。


 いち。今まで通り、己の平穏な幸福のために、遺体を食わせ、見て見ぬ振りをするか。

 に。今までをなかったことにして、この怪物に断罪を叫ぶべきか。


 腰の警棒に手をのばす。

 これで殴りかかれば、柔らかい猫の頭ぐらいは叩き潰せるかもしれない。

 だがそれは同僚と何が違う? 自分の勝手で殺すのか? 何より、ひきかえせなくなる。


 その間に同僚は、巣たる交番に少女をひきずりいれた。

 舌なめずりした同僚だが、ふと素っ頓狂な声をあげた。


「なんだこの暑さは!? おい、温度設定間違えてるぞ。燃料の無駄になる」


 祈るように目を閉じる。


「なにいっているんだ。暖房なんかつけてないよ」


 トレモンティは同僚の背後にたつ。

 少女は天井をあおぎみて、浅く短い呼吸をしていた。眼球がきろりとトレモンティを射貫く。

 トレモンティの頭のなかで、少女の愛らしい唇が動いた。

――やって。

 トレモンティは、同僚の頭めがけて警棒を振り下ろす。


「ブレッサ、すまない、すまない!」


 いいながら警棒を無我夢中で振り下ろす。

 頭蓋は思ったより硬かった。奇襲を受けた同僚が噛みつき返してきた気がするが、痛みはなかった。興奮していた。アドレナリンだ。


「これで俺がしてきたことがなかったことにはならないけれど……もうだめだ! 一人目がいたら二人目がでる!」


 今までだってそうだったのに、回避してきた成果がこれだ。

 トレモンティは同僚の頭を潰しきる。

 歯があちこちに散らばって、黒い毛が混じった肉がヒラキのようにぱっくり割れていた。

 荒い息をして、膝をつく。


「すまない。おまえが嫌いなわけではなかったよ。それでもこれは、するべきだった。俺はどうしてもこうしたかった。俺は俺のために、今からでも選ばなくちゃいけなかった……」


 それが誰のための言葉なのか、トレモンティにはわからない。

 何故かぽろぽろと、彼自身の意志の理由が語られていた。

 混乱した頭はめまいをおぼえ、揺れる。

 新鮮な空気が吸いたい。トレモンティはよろよろと窓によって、あけはなつ。

 爽やかな空気が肺に流れ込む。

 いまさら冷や汗がぶわっと沸いて出る。そんな彼を慰めるように、窓枠の外から少女(・・)が囁いた。


「安心して恐れなさい。迷いと恐怖、疑問こそはあなたが心ある証。ひとである誇りです」


 とろけるような滑らかな声音。甘ったるくはないがいつまでも聞いていたくなるような不思議な声だった。

 覚えるのは親しみと畏怖。すぐ隣に住む幼馴染みの少女か、慕うべき母を連想させる。

 

「あなた自身の選択を私は尊重します。間違っていたとしても、そばにいましょう。私はあなたの心のなかに。あなたをあなたのもののままに、寄り添っていますよ」


 トレモンティは何故か、その声に違和感を覚えなかった。

 窓の外に少女など、影形すらないというのに。


「あなたは孤独にならない。あなたが傷ついても見捨てません。安心してなりたい自分になるのです。他の誰しもそのようにしますから」


 声の気配が遠のいていく。

 トレモンティはハッと居住まいを正す。

 白昼夢を見ていた気分だった。その記憶に、声は異様なものとして残らなかった。

 代わりに別のものが彼を驚愕させる。

 窓の外。景色を認識したとたん、トレモンティは窓に身をのりだす。


「……嘘だろ? なんだ、この空は」


 開け放れた窓から潮風が流れ込む。

 机の上におかれた紙の報告書が床に散らばっていく。

 汗ばんだ肌をべたつく風がすくい、磯臭い清涼感を残した。

 窓に寄り、空を見上げる。


 雲ひとつない青い青い空で、太陽が燦々と輝いていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 同僚「だったもの」との線をどこで引くか、警官氏の悩みがとても生々しく感じました。 いやいや、それにしても元同僚ばかりが怪異かと思ったら……警官氏に語りかけてるものの方が、単純な欲望でない分…
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