第五章 エピローグ
蹴るように扉からくぐりぬけたイデは思い切り息を吸った。
数ヶ月ぶりに外気に触れた気がする。
塩辛い風の湿り気は、広がる海のせいばかりでない。曇り空から水の匂いがした。
「ダヴィデ、お疲れ様。君とアンヘル姉弟は先に船に乗ってくれ。あっちに用意ある」
トリスは人目を気にしながら、港にとまる小舟をしめした。
ロープに繋がれた船は波にあおられてぎぃぎぃ揺れる。外装がやや剥げた古い船だが、汚れはなく、よく手入れされている。
ビィは船をひとめみて、顔を引き締めた。
「船ならアタシが運転できる。とちゅうからはダヴィデか、ビクトリアにやってもらうことになるだろうけど」
双子の姉の手を握り続けていたシグマの眉が吊り上がる。
白い手をきつく握りしめ、ビィの横顔を食い入るように見つめた。
アイスブルーの瞳でいくら見ても、ビィは真っ直ぐに船を射貫いている。
「……そうね。わかった」
姉の遺志を受け入れると、シグマは意を決してトリスに声をかけた。
「トリスさん。わたしもあの船に乗っていいですか」
「シグマくん」
「最後は隣にいたいんです。わたしたち、ひとりでは今日まで生きてこられなかったから」
ビィとシグマが森を抜けるあいだ、何を話し合ったのかは知らない。それは姉妹たちの宝ものであり、他者には秘すべき思い出だ。
語り合うべきは語り合ったのだろう。
握り合う手に震えはない。
「シグマくんはこの作戦に無理に出る必要はない。わかっていても来るかい? 君の嫌いな無駄な仕事になるかもしれないが」
「生まれた時が同じだったのに、別れは知らないところでなんて、きっと死ぬまで寂しさを忘れられなくなります。今度こそ付き添えれば……その後も、姉の存在をあたたかいものとして、一緒に行き続けられる気がするんです」
シグマは無愛想な口調を隠し、あたふたと誠意を伝えようと試みる。
最後まで無言で聞いていたトリスは、静かに首を縦に振った。
「行くといい。島で会おう」
「! ありがとうございます!」
ビィとシグマは仲睦まじく、船に乗り込んでいく。アンヘル姉弟とダヴィデも二人を追う。
「では僕らも行こう。あっちに別の船がある。数分遅れて出発だ」
「ああ。わかった」
短く応じるイデに、トリスは間を置かず問う。
「浮かない顔だね。なにか不安があれば、今のうちに聞いておくよ。僕はここに残る。アルフさんも助言できるが、僕に聞きたいのなら『後で』はない」
シグマたちの船がエンジンをかける。
疲れ知らずのダヴィデが見張り役として外にたち、これからこえていく海路を凪いだ視線で観察していた。
こくこくと次の段階に向けて事態が動いていく。
イデは一度、管理センターを振り返った。既に遠く離れ、施設内の喧噪はとっくに届かない。あたりいったい静かなものだ。
なかではいまだバンシィや《蟻》たちが戦っている。
「今回、ANFAの色んな奴を見ただろ」
「そうだね?」
「……あいつを止められたとして、ここに戻る場所はあるか?」
ANFAのメンバーは、まともであるかはおいておいて、己の役目に忠実であった。
ハニエル然り、事情あって味方するものもいるようだが、全員が彼女を甘く受け入れてくれるとは思わなかった。
それもあっての『バレる前に内々に済ませる』とは理解した。
実際に相対してみたからこそ、危ういもくろみに思えてくる。彼らの幾人かは、ネヴの変化と危険性に気づき、拒もうとするのではないか。
「イデくんの憂いはもっともだ。ネヴくんは考え方と行動力に問題がある」
イデはムキになって否定しなかった。
彼女の思考回路を、野蛮だと恐れる人間は多かろう。
「しかし、そんなことはたいした問題じゃあない。ここならね」
数多の問題児を抱え、全員の名前と気性を覚えている管理室長は遠い目をする。
「ANFAではあらゆることが無理難題。性格がよくても解決しない。まあ、自分と同じくらい相手の尊厳を踏みにじらない程度の礼儀は必要だけれど。いずれにせよ、ゆえに重視されるのはパワーだ。事態を解決に導く剛力があれば大概は看過される」
「いいのか?」
「事態が解決されなければ、そも、問題が発生する場じたいが消えてなくなることもありうる。優先順位は一目瞭然だ。何より彼女は無礼者は嫌いだが、弱い者には寛容で、仁義を好む。そこさえ変わらなければいい」
トリスは「君の知る人でいえばバンシィとか」と名をあげて、指折り数えた。
「チームリーダーたちなんて顕著だね。
極度の人見知り。息をするのと同じ頻度で人を騙す奴。死ぬより損傷度は低いとかいって逃げる患者をダルマにする女性。反抗する生徒がいつの間にか消えるサイコ。自殺志願者。職員のリラクゼーションのためといい予算をぶんどりゲームつくる子。いきなり夜中に僕の部屋きてジャムおいて満足げに帰っていく人」
まだイデの知らない職員のこともいいつらねる。なかなか壮絶なラインナップだ。
「でも彼らは身の丈をこえた怪物を収容室に押し戻せる。内臓が半分ふっとんだ被害者も生還させる。あり得ない進度で研究を拓き、ジャムが美味しい人は【神降ろし】も殺す」
「そいつらがやらないことを、俺ができるか」
トリスは彼らに、ネヴに関して依頼を持ちかけなかった。
この先に何が待ち受けるかイデは想像もできない。見えない嵐に我が身を投げ出すような、果てしない脅威の気配だけをヒリヒリと感じている。
「してくれなきゃ困る。僕は君に、アルフさんにはできない役目を期待してるんだ」
若者たちの会話を盗み聞きすまいと、船に向かうアルフの後ろ姿は頼もしい。
「俺に?」
「そうだな、例え話をしようか。僕が魔術師なのはもう知っているよね」
トリスは《エメラルド・タブレット》を出現させ、ページをなぞる。
「『大と小は照応する』という考え方があるんだ。同じ形をしたものは、大きさの違っても性質は同じ、って感じの意味で、よく魔術に使われる」
「どういう意味?」
「地図の縮尺みたいなもの。地図は世界ではないけれど、形は同じでしょう」
トリスは海を見た。
「人間の頭のシナプスって、宇宙に似ているそうだよ。あの曇天の向こうにある世界だ」
どこまでも際限なく広がる水の世界は、身近に隣り合った『異世界』だ。
その表面を渡っていくことはできても、そこにどんな世界が広がっているか、人間はほとんどを知らない。
「宇宙は《無意識の海》の比喩によく持ち上がるんだ。獣憑きたちと同じように、君の頭のなかにも、極小の宇宙が、《無意識の海》があるってこと」
イデは意味がわからず、不機嫌に目を細める。
その額をそっと小突いて、トリスは身を翻した。
事態の収拾のため、管理センターに戻るのだ。
最後にもう一度、彼はイデに言い聞かせる。
「君なら出来る。ネヴくんのところへ辿り着け」